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文芸と道徳 (私の個人主義(夏目漱石))

2005-08-11 19:58:37 | 本と雑誌

(p111より引用) 普通一般の人間は平生何も事の無い時に、大抵浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人まで皆自然主義に変ずるという事実であります。という意味は傍観者である間は、他に対する道義上の要求が随分と高いものなので、ちょっとした紛紜でも過失でも局外から評する場合には大変に苛い。すなわち己が彼の地位にいたらこんな失体は演じまいという己を高く見積る浪漫的な考えがどこかに潜んでいるのであります。さて自分がその局に当ってやって見ると、かえって自分の見縊った先任者よりも烈しい過失を犯しかねないのだから、その時その場合に臨むと本来の弱点だらけの自己が遠慮なく露出されて、自然主義でどこまでも押して行かなければ遣り切れないのであります。だから私は実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したいくらいに考えています。

 「他人に厳しく、自分に甘く」というのは、私自身もそうですが、どんな人でも知らず知らずに陥る姿です。
 また、自分(のみ)を基準にして考えやすいので、自分が得意とするジャンルについての「他人に対する評価」は厳しくなりがちで、逆に、自分が不得意なジャンルについての「他人に対する評価」は(自分ができない分)甘くなってしまいます。

(p114より引用) それやこれやの影響から吾々は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。従って吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられるようになっている。すなわち自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている。・・・昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞とかいう字を吟味して見ると、当時の社会制度にあって絶対の権利を有しておった片方にのみ非常に都合の好いような義務の負担に過ぎないのであります。

 漱石の言う「個人主義」は、私なりに極めて簡略化してみると、「自分も他人も『個人』という観点からみると同じく公平なものだ」との考えだと思います。これは、ある種の相対論的考えであり、バランス論でもあります。自分と他人とがバランスする、権利と義務とがバランスするといった感覚です。

(p117より引用) けれども自然主義の道徳というものは、人間の自由を重んじ過ぎて好きな真似をさせるという虞がある。本来が自己本位であるから、個人の行動が放縦不羈になればなるほど、個人としては自由の悦楽を味い得る満足があるとともに、社会の一人としてはいつも不安の眼を睜って他を眺めなければならなくなる、ある時は恐ろしくなる。その結果一部分の反動としては、浪漫的の道徳がこれから起こらなければならないのであります。・・・けれども・・・大体の傾向からいえばどうしても自然主義の道徳がまだまだ展開して行くように思われます。

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