OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

フィロロギー (孔子(和辻 哲郎))

2007-01-20 14:31:02 | 本と雑誌

Koushi  本書の「論語」についての論考部分は、ヨーロッパの古典フィロロギーの方法に基づいたものです。
 巻末の解説によると、フィロロギーとは、通常「文献学」と訳されるようですが、具体的には「古典文明の史的研究・古文書(原典)の批判研究」等のことだそうです。

 本書において和辻氏は、フィロロギーの分析手法により、「論語」を読み解き、その構成や成立過程を明らかにします。
 原典を明らかにするということは、後年の作為をあらわにすることでもあります。
 作為とは「悪意」とは限りません。もちろん、後年の世情による変遷、後人の説への誘導も有り得ますが、先に述べた「理想化」の過程でもあります。

 著者は、「論語」の記録は「格言めいた命題」だと言います。
 そして、それらは、「独立の命題」として記されたものと「弟子との問答」の形式で記されたものに分類されます。

 後者の「弟子との問答」についての記述です。

(p139より引用) 問答の方は孔子の説き方と密接に結合したものである。それは言葉によって一義的にある思想を表現するのではなく、孔子と弟子との人格的な交渉を背景として生きた対話関係を現わしているのである。従ってそこには弟子たちの人物や性格、その問答の行なわれた境遇などが、ともに把握せられている。それが言葉の意味の裏打ちとなり、命題に深い含蓄を与えることになる。

 問答と言えば、ソクラテスの「問答法」が浮かびます。論理を積み重ねて矛盾を明らかにし、相手に悟らせるという方法です。

(p139より引用) が、この対話は、ソクラテスの対話におけるがごとく、問題を理論的に発展させるというやり方ではない。弟子が問い師が答えるということで完結する対話、すなわち一合にして勝負のきまってしまう立ち合いである。従って問答はただ急所だけをねらって行われる。

 論語の場合は、「問答」は孔子の教えを明確にする効果的な表現方法だということでしょう。その場合、問答の相手となる弟子の性格・思想・持味等の違いは、孔子の教えの普遍性と適応性を示す具体的な証になるのだと思います。

 そうして孔子は、宗教色のない「人を中心とした教え」を説いたのでした。

(p131より引用) 人倫の道に絶対的な意義を認めたことが孔子の教説の最も著しい特徴であろう。

孔子
価格:¥ 525(税込)
発売日:1988-12

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 教師の純化 (孔子(和辻 哲... | トップ | 若き疾走 (ボクの音楽武者修... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本と雑誌」カテゴリの最新記事