「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という想いで小澤青年は渡欧しました。
本書に書かれている小澤青年は、次々とまた軽々とチャンスを活かしていきます。(というふうに見えます・・・)
欧米にいた2年半、そうは言ってもいろいろなことがあったはずです。幸運だけでここまで来たはずはありません。
もちろん周りの方々の大きな支援・応援があったでしょうし、それにも増して小澤青年自身の努力は並々ならぬものだったに違いありません。
そのあたりの苦労がほとんど感じられない文章です。が、数多くの手紙のやりとり(ほとんどは日本の両親・兄弟とのものだったようですが)の中に、ひとりで夢に向かって頑張っている小澤青年の心持ちが感じられます。
この本が書かれたのは、ちょうど私が生れたころです。
そのころ、小澤青年は、ヨーロッパで、そして日本で、様々な経験をし、様々な刺激を受け、様々な想いを抱いていました。
パリで、ベルリンでの音楽を愛する小澤青年の感性です。
(p103より引用) 芸術を愛する人間の多いヨーロッパで、なぜ戦争なんか起こったのだろうか。西独と東独の国境のあのとげとげしい空気はなんだろうか。戦争はまだ終わっていないし、これからも起こらないとはいえない。どうして、もっとこの世には美しい音楽があり、美しい花があるということを信じないのだろうか。
そして、バーンスタイン氏率いるニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の一員として日本に戻ったときの想いです。
(p200より引用) 東海道の海辺の古い宿屋に泊まった時、バーンスタインが言ったこと・・・
「セイジ、お前は幸福な奴だ。こんなに美しい国で育ったなんて…。それなのになんでニューヨークなどに住む気になったんだい?」
ぼくも日本を美しいと思わないわけではない。ただ西洋の音楽を知りたくて飛び出して行ったのだ。その結果、西洋の音楽のよさを知り、また日本の美しさも知るようになった。ぼくはけっして無駄ではなかったと思っている。それどころか、今後も日本の若者がどしどし外国へ行って新しい知識を得、また反省する機会を得てもらいたいと思っている。
その後小澤氏は、62年にはサンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカでのデビューを、また69年にはザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮しオペラ・デビューを果たします。さらに、73年にボストン交響楽団の音楽監督に就任、ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会でもタクトを振っています。
日本では、98年冬の長野オリンピックの音楽監督として、開会式、五大陸を結ぶベートーベンの「歓喜の歌」合唱でその指揮をとりました。
ボクの音楽武者修行 価格:¥ 420(税込) 発売日:2000 |
中学か高校生のとき読みました。
カラヤンにかわいがられてたとか、運のいい人だなーって正直思った覚えがあります。
コメント、ありがとうございます。
手文庫さんのお勧めがなければ、多分読むことはなかった本です。
よい刺激になるので、娘にも読ませたいと思います。
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Boston7様
コメントありがとうございます。
この本の初版(文庫本ではありません)が刊行されたのは、昭和37年(1962年)だそうです。
Boston7さんはまだ生まれていないですね。
私は、まだ字が読めないころです。