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「堕落論」その他 (日本文化私観(坂口 安吾))

2006-09-08 00:21:04 | 本と雑誌

 私の選んだ「日本文化私観(講談社文芸文庫)」は、サブタイトルが「坂口安吾エッセイ選」とあるとおり、全部で22編の評論・随筆が収録されています。

 そのなかで私の関心を惹いた坂口説です。

 まずは、「堕落論」における「武士道=逆説の教え」です。
 坂口氏の説では、「規則は、その規則なくしては実現できない現実への対処」だということになります。

(p200より引用) 彼等の案出した武士道という無骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。・・・
 我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。・・・
 古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。

 すなわち、「武士道」の本質は、「武士の本性への手当て」ということです。

(p201より引用) 武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。

 次の関心は、「デカダン文学論」に記された坂口氏の「文学論」に関してです。

 私はほとんど「文学」には興味がないので、坂口氏の、たとえば、島崎藤村や横光利一らに対する批判等については、その当否は分かりません。
 ただ、「そうかなあ」という感じです。

(p223より引用) 藤村も横光利一も糞マジメで凡そ誠実に生き、かりそめにも遊んでゐないやうな生活態度に見受けられる。世間的、又、態度的には遊んでゐないが、文学的には全く遊んでゐるのである。
 文学的に遊んでゐる、とは、彼等にとつて倫理は自ら行ふことではなく、論理的に弄ばれてゐるにすぎないといふことで、要するに彼等はある型によつて思考してをり、肉体的な論理によつて思考してはゐないことを意味してゐる。彼等の論理の主点はそれ自らの合理性といふことで、理論自体が自己破壊を行ふことも、盲目的な自己展開を行ふことも有り得ないのである。

 この批判の根底にある坂口氏の「倫理観」は、以下のように表明されています。

(p224より引用) かゝる論理の定型性といふものは、一般世間の道徳とか正しい生活などと称せられるものゝ基本をなす贋物の生命力であつて、すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。

 最後は「続堕落論」での坂口氏の叫びです。

(p240より引用) 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
 日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。

日本文化私観―坂口安吾エッセイ選 日本文化私観―坂口安吾エッセイ選
価格:¥ 1,103(税込)
発売日:1996-01

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