東日本大震災から2年過ぎ、何かを考えるために手にとった本です。
体裁は、鶴見俊輔氏と関川夏央氏お二人による対談を起こしたものです。
評論家の鶴見俊輔氏は、外祖父はかの後藤新平、父は政治家鶴見祐輔という家に生まれながらも、厳格・苛烈な母親に反発して、若い頃はかなり危ない行動をとっていたようです。大衆文化への造詣も深く、漫画原作者としての経験もある関川氏との会話はなかなかいいノリで進んで行きます。
たとえば、日本の村的なものに自由主義・民主主義を感じるという鶴見氏のコメントは面白いですね。
(p52より引用) 「これが真理だ、、手の内にいま自分は真理を握っている」という感覚を、わたしは疑う。むしろ、日本の村にある感覚みたいなもの、つまり、「あいつは変なやつだけれども、殺しはしない。八分にする」という方法に可能性を感じますね。・・・
そっちの方が、魔女裁判のような感覚よりも優れて自由主義なんだ。
確かに日本での「村八分」と西洋の「魔女狩り」とを比較すると、「魔女狩り」の方が独善的な個の否定を感じますし圧政的で陰惨な仕打ちでもあります。
もうひとつ、「真理」についての鶴見氏の理解も興味深いものがあります。
(p70より引用) 真理は間違いから、逆にその方向を指定できる。
こういう間違いを自分がした。その記憶が自分の中にはっきりある。こういう間違いがあって、こういう間違いがある。いまも間違いがあるだろう。その間違いは、いままでの間違い方からいってどういうものだろうかと推し量る。ゆっくり考えていけば、それがある方向を指している。それが真理の方向になる。
これは私の考えです。だから真理を方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶を保っていることが必要なんだ。これは消極的能力でしょう。
負けたことを忘れない、間違ったことを忘れない・・・、こういった「消極的能力」を重ねることにより、真理を絶対的な「定点」としてではなく、「方向」として認識するという考えは、私にとっては新たな気づきでした。
そのほかにも、関川氏との会話で語られる鶴見氏の言葉は刺激に満ちています。
“1905年”、日露戦争の辛勝を契機としたある種の錯覚に基づく日本社会の大きな転換の指摘もそうですし、自らの半生を顧みての深い気づきの言葉もそうです。
(p135より引用) いい人ほど友達として頼りにならない。いい人は世の中と一緒にぐらぐらと動いていく。でも、悪党は頼りになる、敵としても見方としてもね。悪党はある種の法則性を持っているんだ。これこれのことをやれば、これこれのことが出てくるというね。
悪党は、自分の中に「軸」を持っている、それにより周りに左右されない合理的な判断ができるということでしょう。自ら「悪党」を自認し、まともに卒業したのは小学校とハーバード大だけという鶴見氏ならでは卓見ですね。
もうひとつ、最後に書き留めておくのは“日本の知識人”を語る鶴見氏のコメントです。
(p197より引用) いま、日本の知識人は、もうアメリカの腕の中にいる。アメリカに行くと、アメリカの知識人にとっては、日本の知識人というのは具合のいい存在なんです。自分たちの出した仮説を一生懸命に学習して、それを日本ではこうだと応用してくれるから。・・・アメリカの知識人の器の中にいて、その外にいる日本の知識人は少ない。困ったことに、そのことで自分は知識人だと思っている。そして、視線を下にして、「日本の大衆は・・・」なんていっている。
アメリカ発の学説の忠実なる紹介者・解説者は大勢いますが、自らのオリジナリティを発揮する本物の知識人は稀少です。
日本人は何を捨ててきたのか: 思想家・鶴見俊輔の肉声 価格:¥ 2,310(税込) 発売日:2011-08-08 |
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