いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
村上陽一郎氏単独の著作としては、かなり以前に「やりなおし教養講座」を読んで以来になります。
私が教養学部の学生のころ(今から40年以上前)からすでに有名な先生でしたね。その村上氏が語る“教養”“リベラル・アーツ”論だと聞くとちょっと気になります。
政治エリートや官僚の劣化、反知性主義の隆盛等で、日本社会の退潮傾向が日に日に顕著になってきている今日、“教養” をテーマにした村上氏の論考の中から私の興味を惹いたものをいくつか書き留めておきましょう。
まず、教養を形作る要素として「コミュニケーション能力」をあげる村上氏は、その能力を高める「自己の形成」についてこう語っています。
(p56より引用) 自分の個を築くということは、自分をコンクリートでがちがちに固めてしまうことではありません。全く反対です。自分に対して、自分が求めるものを高く持することは、他者もまたそれを実行していることへの敬意を意識し、その敬意に基づいて、他者の位置へ一時的に自分を移してみるだけの余裕・ゆとりを自分のなかに持つための力を、自分に与えてくれます。そんなことを言えば、自分が自分の個を意識することができる出発点には、他者の存在が不可欠なのです。自己の形成は自己だけの孤独な作業では断じてありません。
ここで語られたような相対的・シナジー的な営みができることが「教養がある」という要素のひとつなのでしょう。
そしてもうひとつ、「教養」という学問をテーマにした議論から。
(p97より引用) 人間を対象にした知的探求と、自然を対象にしたそれとの間には、自ずから基本的な差異が生じるのは、別段批判すべきことではなく、まして非難の対象になることではないでしょう。
だとすれば問題は、文系と理系の区別・分離ではなく、むしろそうした系を固定化し、専門化することにあるのではないでしょうか。つまり、「教養」という現代における概念が主張しようとするのは、よく言われる「文理融合」なのではなく、「反専門化」と言うべきなのではないでしょうか。
“教養教育”を「専門の領域だけに視線を固定化してしまうことから抜け出すための教育」と位置づけるという考え方です。この主張には納得感がありますね。
さて最後に、本書を読み通しての感想です。
私が迂闊にも気づかなかったのかもしれませんが、村上氏は、本書で「教養とは〇〇である」といった端的な定義は示していません。「政治」「コロナ禍」「エリート」「日本語」「音楽」「生命」といったそれこそ多様な切り口から“教養”が関わる場面を取り上げて、そこに現れた教養の在り様の一側面を自在に語り伝えているように思われました。
その点では、様々な“教養”の現出シーンをモチーフにした“村上流エッセイ”といった趣も感じられる不思議な著作でしたね。