著者は、幕末と明治末年(日露戦争後)の日本がおかれている状況を比較して、「情報と判断」との関係についてこうコメントしています。
(p88より引用) 情報量の多寡と状況判断の当否は必ずしも相関しない。わずかな情報からでもわかることはわかるし、潤沢な情報があっても、知りたくないことは知られない。・・・
幕末においては状況判断を誤らず、明治末期には判断を誤ったと著者は考えています。情報量は、明治末期の方が大きかったにもかかわらずです。では、何が原因で、こういう判断結果の差異が生じたのか?その考察から、よく言われている日本人の特性に言及していきます。
(p88より引用) 相違点は本質的には一つしかありません。幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界標準を追い抜くこと」であったということ。これだけです。
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る、ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。
この日本的思考様式の現出は、思想の如何を問いません。
(p94より引用) 日本の右翼と左翼に共通する特徴は、どちらも「ユートピア的」でないこと、「空想的」でないことです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。
この点が、ヨーロッパの思想的根本と決定的に異なるところです。
(p95より引用) ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的な変革が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志をもった人々です。そういう人々が群れをなして登場してくる。
これら無数の先駆者の挑戦的実践の重層のうえに西欧の社会思想基盤が築かれていったのです。
著者は繰り返し強調します。日本人には「フォロワー」としての思考・行動が染み付いています。ここに新たな世界を牽引する「中心」たり得ない決定的な「辺境の限界」があるとの主張です。
(p96より引用) 私たちにできるのは「私は正しい。というのは、すでに定められた世界標準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。・・・
「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、それが辺境の限界です。
確かに、こういう「自分自身を根拠にした判断」というのは私たちにとっては難しい行動です。
(p98より引用) 指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。・・・その「正しさ」は今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからです。私の正しさは未来において、それが現実になることによって実証されるであろう。それが世界標準を作り出す人間の考える「正しさ」です。
現実的には、いくら「未来が証明する」といわれても、それをそのまま信じるという人は稀でしょう。
ただ、「私は自分を信じる」という強い意志は、周りの同調や支持を不要とする覚悟でもあるのです。
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