日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー127  ( 薩摩藩の歩みー3  ・「 薩南学派 」 と 桂庵玄樹 )

2009-07-09 13:40:23 | 幕末維新
田中河内介・その126 

外史氏曰

【出島物語ー38】

薩摩藩のあゆみ―3

薩南学派

 薩摩の地には、 「 薩南学派 」  と呼ばれる儒学の伝統がありました。

 応仁の乱の頃、文明年間 ( 一四六九~八七 ) に、わが国における 程朱(ていしゅ) 学 ( 朱子学 ) の開祖といわれる 名僧 桂庵玄樹 (けいあんげんじゅ) が薩摩に入国し、三州こぞって朱子学が風靡しました。 桂菴 の学問は儒教、仏教にまたがるもので、島津日新公忠良 は これを尊重し、以後、藩教学の骨格となった。 これを 「 薩南学派 」 と呼んでいます。

 応仁の乱後、京都から学問の四散が始まり、京都五山出身の禅僧による朱子学の普及は、全国へ広がりを見せていきます。
 この時、京都から四散した学問は、それぞれの地方に影響を与えて来ましたが、その中でも特に 桂庵玄樹 (けいあんげんじゅ) が入った薩摩と、南村梅軒 (みなむらばいけん) が入った土佐が有名となりました。 それは、特に 薩摩と土佐は その隔絶された地形故に、これを純粋に継ぎ伝え、三百年風土に影響され、一種の薩摩らしい、また土佐らしい個性を備えた学問を形成したことによります。
 このうち薩摩に伝わって広がった大系を 「 薩南学派 」、 土佐に広がった学統大系を 「 南学 」 と呼ぶようになり、それぞれ 薩摩人、土佐人の大きな指導力となってきました。

 この薩摩藩と土佐藩は、幕末の激動期 ( 国家の混乱・崩壊期 ) に適応出来る多くの有為な人材、つまり 国難に自らを献じ、それに殉ずることが出来る かけがえのない人材を、他のどの藩にも負けない程輩出しました。 これは、薩摩や土佐の 学問 ・風土 ・文化 が培った産物です。
 ここで少し話を付け加えて置きます。
 これらの貴重な人材を活かし、かつ その所を得させれば、幕末の歴史は よりダイナミックな転回を見せたことでありましょう。 しかし、現実の世の中はそのようには行かないものです。 いつの世も改革の前途には 大きな抵抗勢力が立ちはだかります。 薩摩の 久光、土佐の 豊信( 容堂 ) も、このような貴重な人材を 伸ばすことが出来る殿様ではありませんでした。
 薩摩藩では 「 寺田屋事件 」 による尊攘派志士の粛清。 また 土佐藩では、土佐勤皇党党首 武市半平太は斬られ、脱藩した多くの志士たちは、藩の保護から離れ、その後の国事に奔走する中で、その大半が 屍を山野に晒すことになりました。 これはまさしく両藩、否 日本国家の悲劇であります。

 土佐の 「 南学 」 の話は、後にまわすことにして、まず 薩摩に大きな影響を与えた 「 薩南学派 」 の話から初めます。


桂庵玄樹 ( 一四二七~一五〇八 )

 桂庵は 応永三十四年( 一四二七 )、室町時代の後期に 周防国山口で生まれ、十六歳で出家し、京都南禅寺の 景蒲玄忻 のもとに 師事したといわれています。 応仁元年(一四六七)、京都を中心に応仁の乱が勃発する頃、長門永福寺に住していた桂庵は、禅と、当時中国で最先端の思想学問であった 朱子学を学ぶ為に、大内船の正使 天与清啓 の随員として渡明しました。 偶然にも この大内家の遣明船には、後の山水画の第一人者、雪舟等楊 (せっしゅうとうよう) が居合わせたそうです。 雪舟は 絵画の勉強を志し渡明しました。  雪舟は 応永二十七年( 一四二〇 ) に 備中国 ( 現 岡山県総社市 ) に生まれました。 京都相国寺に居たこともありましたが、そのころは 周防国 大内氏を頼って 山口に来て、雲谷なる軒号をもつ庵に住して 画事に専念していたようです。
 朱子学とは、孔子の教えである 『 論語 』 をテキストに、後の時代に様々な学者がそれぞれの学説を唱えていく中で、十三世紀頃の宋に 朱子( 朱熹 ) があらわれて、 それまでの学問を体系化して 首尾一貫整えたことに始まります。 朱子が整えた学問である為、朱子学 と呼ばれるようになり、中国に留まらず、広く東アジア一帯を陵駕(りょうが) しました。
 桂庵は 六年間の留学を終えて、文明五年( 一四七三 ) に帰朝しますが、まだ応仁の乱は 鎮まっておらず、京都は戦火に覆われて学問の追究どころではありませんでした。
 その後、桂庵は 石見に移居、文明八年、九州各地を遊歴、肥後の 菊池氏 のもとに身を寄せていた頃、文明十年二月、学問を好んだ 薩摩の第十代 島津忠昌 から招聘(しょうへい) を受け薩摩に赴き 竜雲寺に入りました。 そして帰朝六年後の 文明十一年には、薩摩に 島陰寺( 桂樹院 ) を建ててもらってそこに住し、この地で 朱子新注 による講義を盛んに行い、新しい朱子学を広めて 多くの弟子を養成しました。
 文明十三年( 一四八一 )、桂庵は ここで 伊地知重貞 と共に、朱子新注の 『 大学章句 』 を発刊します。 伊地知本大学・文明版大学 と呼ばれるもので、広くこの地方に流布されました。 これは、日本における最初の 朱子新注本 でした。


 【 大学 】

 【  『 大学 』 は 『 論語 』 を学ぶ者が わかりやすいように読む入門書ですが、その入門書を読むためのテキストが 『 大学章句 』 です。 現在では、大学というと、小学校 ・中学校 ・高等学校 ・大学校 のそれだなと、思われがちですが、本来の大学と言うところは、天下を平らかにするための リーダーを養成するところだったのです。
 『 大学 』 の最初には、次のような文章が書かれています。

     「 大学之道在明明徳在親民在止於至善 」

 つまり、大学の目的は三つあると言っています。

   ○ 一つ目は、 「 明徳を明らかにする 」 ということです。
     「 明徳 」 とは人が生まれながらに持っている素晴らしい徳を発現することです。

   ○ 二つ目は、 「 民を新たにするに在り ( 親しましむるに在りと書かれてあるテキストも多い。) 」 ということです。
     その徳を個人の修養に留めるのではなく、他の人にも及ぼして発現させることです。

   ○ 三つ目は、 「 至善に止まるに在り 」 ということです。      
     「 至善 」 とはそのような最高の状態ということです。 これを維持し続けるよう努力しなさい、ということです。

 『 大学 』 をひもとけば、天下を平らかにするためには 何が必要か、何を学ばねばならないか、ということが とくと書かれています。  桂庵は 応仁の乱のさなかにあって、荒廃していく世の中に 今一番大切なものは、徳育教育であることをいち早く感じていたのでしょう。 仏教の教えと共に、日本人が古来から大切にしてきた感謝の気持ち、先祖を敬う気持ちを見直し、今を生きる自分自身の徳の啓発を主体に 教えようとしたのではないかと思います。 】  ( 薩摩総合研究所 「 チェスト 」 理事長 島津義秀氏の文章から抜粋 )

           
          「 大学 」


 桂庵 は さらに、四書  ( 中国の儒教の主な原典で  『 大学 』 ・『 中庸 』 ・『 論語 』 ・『 孟子 』 を指す )  五経 ( 儒教の最も基本的な五種類の文献、すなわち  『 易経 』 ・『 書経 』 ・『 詩経 』 ・『 礼記 』 ・『 春秋 』  を いう。)  を 門下に教授するのに、読みやすくするため、伝統的な 博士家 (はかせか) の訓読法を排して、句読、助字、字音、施点の位置、仮名遣いなどに新しい方法を考え出しました。 これまでの秘伝的な性格のある訓点を、公開を意図したことに特色がありました。 『 桂庵和尚家法(かほう) 倭点(わてん) 』 は 桂庵玄樹 が著(あらわ) し、南浦文之 (なんぽぶんし) が補説したものを 泊如竹 (とまりじょちく) が刊行したものである。

          
          「 四書 」

 桂庵は、明応六年( 一四九七 )十二月、京都の建仁寺、ついで南禅寺の 公帖 ( 住持となること ) を受け、一時京都に住しますが、桂庵自身はあまり乗り気でなかったようで、いくばくもなく薩摩に戻り、桂樹院 あるいは 大隈の国分正興寺 に住し、さらに 東帰庵 を結んで退居。 ここで 永正五年( 一五〇八 )六月十五日、八十二歳で入寂するまで 数多くの弟子を育てました。 墓は 鹿児島市伊敷町 にあります。

 このように 薩南の地で 中国の新思潮の紹介につとめた桂庵の学統は、安国寺の 月渚玄得 (げっちょげんとく)、 竜源寺の 一翁玄心 (いちおうげんしん)、 大竜寺の 文之玄昌 (ぶんしげんしょう) と継承されて 藤原惺窩(せいか) に及び、わが国の近世朱子学の源流となりました。 また 薩摩に於けるこの朱子学の一派は 「 薩南学派 」 と呼ばれ、その教学は、二百余年にわたって鹿児島の弟子達に受け継がれ、薩摩文教の基となり、薩摩独特の士風を育成するとともに、江戸時代の薩摩の藩校 「 造士舘 」 へも受け継がれていきました。

          
          桂庵玄樹像 平山東岳筆 ( 「 鹿児島の歴史と文化 」 黎明館編 より )

 【  このような 「 薩南学派 」 の流れを汲んだ弟子の一人が 日新斎 (じっしんさい) でした。 日新斎 の師匠が、 「 薩南学派 」 の直弟子、海蔵院住職 の 頼増和尚 という人でした。 日新斎は 幼少の頃より 頼増和尚 の元に預けられ、厳しい教えを受けながら元服を迎えたという 言い伝えがあります。
 幼少から多感な時期に、もともと私たち日本人が継承してきた自然への畏怖、先祖を敬うということ、そこに年長者をたて、子は親に孝を尽くし、大人は自覚を伴って子供達に接するというけじめなどの儒教の精神が加わって、いわゆる、神仏儒の混ざり合わさった独特の観念が生み出されたのです。 】  ( 薩摩総合研究所 「 チェスト 」 理事長 島津義秀氏の文章より抜粋 )


 次回は、薩摩に大きな影響を与えた 「 薩南学派 」 の話の続きとして、同じように土佐に多大の影響を与えた 「 南学 」 の話をします。

                    つづく 次回
                   

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1 コメント

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薩南学派 (nick)
2009-07-29 17:25:50
こんにちわ。
ありがとうございます。
当地の学問についてご教示感謝致します。

今朝、やっとしおりアップしました。
当方はこれからです。
又お伺い致します。