日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー128   ( 土佐の南学-1  ・南村梅軒の土佐入国 )

2009-07-11 14:11:39 | 幕末維新
田中河内介・その127 

外史氏曰

【出島物語ー39】


 《 大事業の前には 必ず大理想あり、大理想の前には 必ず学芸復興あり 》

 中国南宋の時代に生まれた朱子 ( 諱は熹(き)、一一三〇~一二〇〇 ) の学説には種々の特色がありますが、 日本では、大義名分が その第一の特色として 特に高調されました。
 この朱子の学説が日本に招来されたのは 鎌倉時代の末期である。 初めてこれを宮中に講義されたのが 第九十六代 後醍醐天皇です。 その朱子の大義名分論が 建武中興の大理想を生み出し、討幕の気象を奮い起こされた一大原理でした。 少なくとも 元弘 建武 の際における王政復古の運動に 火を点じたものは、 この宋儒の 大義名分論 であったと言えるでしょう。

 然るに この皇政復古の運動が、道半ばにして失敗したのは、学問が 宮中廷臣の間にのみ講ぜられたに止まって 一般国民にその学問が及ばなかった事が原因しています。 学問が与えられず、大義に闇(くら) い国民大衆を以てして、長い間政権を牛耳って来た強剛な武家政治の転覆を企てられた所に、建武中興事業の失敗の原因があったと考えられます。
 爾来(じらい) 五百年間、閴(げき) として声なく、一人の義人の起って御意志を奉戴することのなかったのは 何故か。 それは 天皇が討幕の指導精神とせられた同じ朱子学は連綿として続いていたが、主として五山禅林の講学に止まって、未だ一般国民の手に届いていなかったために、国民は 名分の如何なるものたるを知らず、大義の何物たるを弁ぜず、昏々として長夜の眠りを続けていた為です。  要するに  「 大事業を成功さす為には 必ず大理想が無くてはならない。 また大理想を立てるには 学芸復興が不可欠である。 」  とは永遠の真理なのです。

 然るに、天皇が吉野に崩御されて 百三十年、応仁の大乱起り、七百年の都 京都は兵火に罹(かか) り 一朝にして焼け野が原になった。 学者・僧侶らは、或は住むに家なく 喰うに食なく、書冊を抱いて地方豪族を頼り四方に避難して行った。 為に、長らく卿紳(けいしん) ・僧侶 に独占されて来た京都の学問が、地方に遷移するという、日本文学史上、否 日本思想史上に一大転回期を迎えることになった。 即ち、七百年間、京都の宝庫に封じられていた学問が 初めて地方に遷移し、より剛健で より活力ある地方民衆の手に学問の渡る機会が到来した。
 このようにして 京都から流れ出た学問が、何の因果か、第一着に 薩 ・長 ・土 の三国の岸に流れ寄り、これらの地域の人々に 先ず学問の鍵が渡された。 而して この三国の人々は、これを 独特の気性を以て 薩摩学 ・大内学 ・土佐南学 という地方学に発展させ、これに依って大義を明かにして節義を磨き、徐(おもむろ) に 国家有事の日に備えていた。 そして四百年、幕末の国難に際し、期せずしてこの三国より幾多の志士が 草莽(そうもう) の間に 崛起(くっき) し、大義名分を真向に振りかざし 尊王斥覇の旗印を掲げ、手を把り 肩を組んで、幕末維新の舞台に立ち現れたのです。


 土佐の南学―1

 この機会に、薩摩に大きな影響を与えた 「 薩南学派 」 の話のついでに、少し寄り道して、同じく土佐に多大の影響を与えた 「 南学 」 の話をしておきます。

 応仁の乱後、京都から四散した学問は、それぞれの地方に影響を与えてきたが、中でも 土佐は、他の地域から隔絶された地形も影響して、これを純粋に継ぎ伝え、しかも三百年間その風土に影響され、一種の土佐らしい個性を備えた南学を形成し、土佐人の大きな指導力となってきました。
 京都の朱子学を土佐に伝えたのは、周防大内氏の家臣といわれる 南村梅軒 (みなむらばいけん) です。 なお、南村は 姓でなく、「 なんそん 」 と読み、号であるとの説もあります。 時恰も応仁の乱後 七十年たった天文年間のことで、土佐七郡の山河には 群雄割拠し、激烈なる闘争を続けていた戦国の真最中でした。
 土佐は 古くは 政治犯の遠流(おんる) の地、そのため 山河至るところ 鬼哭(きこく) 啾啾(しゅうしゅう) たる此の地には、幾世代にわたり反骨を養い、正を履(ふ) んで恐れざる者が蟠居(ばんきょ) し、土佐人根性を育んできました。 この根性が培土となり、南村梅軒 のもたらした朱子学が肥料となって、生成発展したのが  「 土佐の南学 ( 海南学 ) 」  であると言われています。
 幕末、土佐の山野からは、湧き出る如く、多くの草莽の志士が飛びだして来ました。 これは土佐に本来 勤王の種があったからです。 如何なる場合でも、播かぬ種は生えぬものです。 むしろ土佐には他に比較してより多くの種が播かれていました。 その第一が この  「 南学 」  だったのです。

 南村梅軒は、戦国時代 已に 程朱(ていしゅ) の学( 朱子学 ) を講じていました。 その弟子には、弘岡城主 吉良宣経(きらのぶつね) 及び その従弟の 宣義(のぶよし)  がありました。 徳川の初期には 仏門より儒学に帰した谷時中があります。 而して その門下には、野中兼山 (けんざん)、小倉三省、山崎闇斎 (あんさい) 等があります。 また闇斎の弟子には、谷秦山 (じんざん) という人があります。 この人は闇斎の弟子であり、又 闇斎 の弟子であった 浅見絅斎 (あさみけいさい) の弟子でもあります。
 土佐藩政確立期、名宰相 野中兼山は、 「 南学 」 を藩政の指導理念とし、数々の実績を重ねましたが、晩年に失脚します。 この失脚により、土佐から学者が国外へ四散、南学は 空白の三十年を迎えます。 これを再興したのが、南学中興の祖とたたえられる この 谷秦山 です。 谷秦山 の播いた種子が、土佐の勤皇の地盤を作ったのです。
 秦山により土佐に植え付けられた山崎闇斎の神儒学説は  「 谷門 (こくもん) の学派 」 とよばれ、 「 東に水戸学、西に土佐秦山 (じんざん) の学 」  と称せられました。  秦山の子 垣守 (かきもり) の通称は 丹四郎、孫の真潮 (ましお) の通称は 丹内、これを 秦山の通称 丹三郎に加えて、三丹 の称があり、子孫累代よくその学統をつたえました。 明治時代 国粋主義を主張し、政府の欧化主義や 民間の自由民権運動に強力な一障壁を築いた 谷干城 ( 西南戦争当時の熊本鎮台司令長官 ) は、実にこの秦山の末裔でした。


南村梅軒と「南学」

 南村梅軒は、その生地も履歴も明かではありません。 おそらくは 京都五山派の儒僧について朱子学を学び、その教養をもって 周防山口の大内義隆 に仕えていたが、 天文十七年( 一五四八 ) か 十八年のころ 土佐に入ったのでありましょう。  大内氏と姻戚関係にある 一条家 ( 幡多 中村 ) を頼って土佐に入ったとも、また弘岡の 吉良宣経 (きらのぶつね) の声名を聞いて 吉良峯 (きらがみね) 城 に乗り込んできたとも言われていますが、本当の理由は分りません。
 なお 吉良宣経は、平治の乱に 土佐に流されて悲惨な運命に死んだ 源希義の後裔です。 それこそ宣経は、山河至るところ鬼哭(きこく) 啾啾(しゅうしゅう) たる遠流の地で、幾世代にわたり反骨を養い、正を履(ふ) んで恐れず 蟠(ばんきょ) して来た 土佐人根性を有する 代表的な人物とも云える存在ですね。
 当時、僻遠(へきえん) の土佐も 戦国争乱の渦中にあり、七人の豪族が覇を争って戦乱が相ついでいました。 梅軒は 七雄の一人、弘岡城主の吉良宣経のもとに身を寄せ、その求めによって講じた朱子学が、時の流れともに 土佐の風土的性格をおびて、一種独特の風格ある学派となった。 これが 南学( 南海学の略称 ) の源流であると言われています。
 朱子学は、哲学的な思弁の面と、義理 ( 大義名分 ) の窮明を特徴としていますが、南学は どちらかと言えば概念的な思弁よりも、名分を明らかにして それを実践するという具体的な実学的性格と、風土の影響による男性的な激しさを持っています。

 弘岡城主 吉良宣経が 梅軒の人柄と学識とに感じて これに賓師( ひんし ) の礼をもって厚遇し、老臣 吉良宣義 らとともに儒学と兵法の書の講義を聴聞した。 梅軒の学風は 儒禅一致の立場に立ち、もっぱら朱子の新注にもとづいて四書を講じ、日常の修養と実践とを重んじたもので、その感化が次第に浸透していった。
 
                つづく 次回




日新公「 いろは歌 」 ①

      似たるこそ 友としよけれ交(まじわ) らば 
                     われにます人 おとなしき人

 人生にとって友は重要な伴侶である。 よき友をもつことは、その人の生涯を決定するともいえよう。 ところが友を選ぶのに自分と同等のものに近づき易いが、それでは自分の向上する道とはならない場合が多い。 友人は、自分より徳の高い見識のすぐれた人の方がよろしい。 ある時には厳しく忠告してくれたり、激励してくれる友が欲しいものである。
 自分より先輩であれば、友としては何となく窮屈な感じがするものであるが、そのような友をもっていることは力強いことである。 その人がどんな人であるかは、その友人を見ればよくわかるといわれている。 ただ気が合うというだけで、友人になっているのでは、やがてその友情は冷えていくかも知れない。 自分がよき友人を得ようとするならば、まず自分自身が真の友であるようにつとむべきであろう。 ( 解説 満江 巌 )



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