日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー80 ( 清河八郎  ・一之橋 暗殺一条ー下 )

2008-09-30 22:41:44 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-80  田中河内介・その79    (寺田屋事件ー68)                                                  【 清河八郎の事ー24 】     ( 清河八郎の暗殺ー3 ) ( 一之橋暗殺一条ー下 )                  清河八郎の凶変を知った石坂周造は、直ちに暗殺現場に走り、八郎の首を斬り落とすと、それを持って一目散に駈け出し、山岡鉄舟宅に飛び込んだ。 山岡はその首を酒樽につめて床下に埋めたが、夏になって悪臭がするので庭の隅に移した。 その後 山岡鉄舟は、それを伝通院境内に葬り、私費を以て八郎の墓を建て、その側に前年獄死したお蓮の墓をも建ててやった。 墓碑名は共に山岡鉄舟の筆である。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー79 ( 清河八郎  ・一之橋 暗殺一条ー上 )

2008-09-22 18:11:58 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-79  田中河内介・その78    (寺田屋事件ー67)                                                  【 清河八郎の事ー23 】     ( 清河八郎の暗殺ー2 ) (一之橋暗殺一条ー上)                  八郎はその最期の日、まだ風邪は治っていない。  しかも周囲の諫止を振り切って、金子よりの迎えの駕籠に乗り、麻布一之橋の上山藩邸内の金子宅に唯一人で出かけた。 夕暮れまでの滞在中、金子からは手厚いもてなしを受けた。    帰途には駕籠の用意はなかった。  金子宅を辞した八郎は徒歩にて帰る。 ほろ酔い気分で麻布一之橋を渡りきった直後、佐々木只三郎以下六名の旗本たちにより暗殺された。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー78 ( 清河八郎 騙し討ち 暗殺計画 )

2008-09-20 13:37:31 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-78  田中河内介・その77    (寺田屋事件ー66)                                                  【 清河八郎の事ー22 】     ( 清河八郎の暗殺ー1 )                           老中の小笠原長行(ながみち) ( 図書頭 ) から八郎暗殺の密旨を受けた 上山藩士金子与三郎は、同じく八郎暗殺の命を受けている速見又四郎・佐々木只三郎・高久(たかく)安次郎等と連絡をとり合い、ここに綿密な騙まし討ち計画が立案された。 清河へ金子から自邸への招待状が届き、八郎は危険と重々知りつつも、その招待に応じた。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー77 ( 清河八郎  ・横浜焼き討ち計画 )

2008-09-13 13:47:56 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-77  田中河内介・その76    (寺田屋事件ー65)                                                  【 清河八郎の事ー21 】     浪士組は鷹司関白の達文により帰府したが、幕府には攘夷決行の意志など全くなかった。 それどころか 帰府して三日目の 四月一日、幕府はイギリスの要求どおり、謝罪状も出そう、償金十万ポンドも払おうと言う。 これでは表面に攘夷の詔勅を奉戴するも、裏面では裏切りを計っていることになる。  朝廷の信頼を裏切ることは出来ないと思った八郎は、ここにおいて断然幕府と手を絶ち 独立大挙し 横浜異人街を焼き討ちする計画を立てた。 この計画は着々と進んだが、幕府の八郎暗殺計画も 忍び寄っていた。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー76 ( 清河八郎  ・ 将軍 家茂上洛 )

2008-09-11 20:57:23 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-76  田中河内介・その75    (寺田屋事件ー64)                                                  【 清河八郎の事ー20 】     二百二十余年ぶりに行われた 【 将軍上洛 】 に関して簡単にまとめた。  京都で家茂を迎えたのは、烈しい攘夷の嵐であった。 有志大名達も招かれたが、京都は無政府状態に近く、公武合体など望むべく情況ではなかった。  賀茂社への行幸もあり、それにより、孝明天皇は将軍をこえた政治君主であるかに見えた。 幕府は攘夷期限を五月十日と決定する事を奏上した。 家茂は六月九日、漸くにして京を退くことが出来た。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー75 ( 清河八郎  ・浪士組東下 )

2008-09-08 00:17:48 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-75  田中河内介・その74    (寺田屋事件ー63)                                                  【 清河八郎の事ー19 】     浪士組は 関東に於て攘夷の先鋒を勤めるため、東下したい旨の上書を 学習院へ提出。 そして鷹司関白の達文により 攘夷のため 浪士組に江戸帰還が命令された。 三月四日、将軍家茂が上洛して二条城に入った。 近藤勇や芹沢鴨のグループなど22名は希望により京都に残留することになったが、 帰還組と残留組の対立から、清河八郎は近藤勇らに命を狙われることになった。 浪士組は、京都に居ること わずか二十日にして京都を離れた。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー74 ( 清河八郎  ・ 学習院への上書、 勅諚拝領 )

2008-09-05 01:55:33 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-74  田中河内介・その73    (寺田屋事件ー62)                                                  【 清河八郎の事ー18 】     清河は 浪士組の役人にも内密に、浪士中より弁舌と胆力の特に優れた腹心の同志六人を選び、学習院へ上書を奉呈させた。 幕府を経ないものは受理出来ないと拒否されたが、六人の命を掛けた決死の行動により上書はついに受理された。  しかも数日後、学習院より六人に御召があり、攘夷の勅諚まで賜った。 これは前代未聞のことである。 これで最早幕府の拘束を受けずに独立独行して攘夷が可能になる。 八郎は大いに喜び、即夜盛大な祝宴を開いた。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー73 ( 清河八郎  ・浪士組上京 )

2008-09-03 17:56:42 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-73  田中河内介・その72    (寺田屋事件ー61)                                                  【 清河八郎の事ー17 】     二月四日、応募して来た浪士の中から 総数二百三十四名を選び、二月六日には浪士組の編成が成った。 さっそく 幕府は浪士組に、京都警衛の為に 至急上洛せよと命じた。  浪士組が京都に着いた二月二十三日の夜、八郎は一同に、今回上洛したのは、決して将軍家護衛の為でなく、一意尊皇攘夷の先鋒たらんが為である、依って一同の素志を天聴に達するため、御所に上書をするが、無論異存のある筈はなかろうと申し渡し、かねて用意した朝廷への上奏文を朗々と読み上げた。 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー72 ( 清河八郎  ・罪状解消、文久大勢一変 )

2008-09-01 13:55:13 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】    すごい先生たち-72  田中河内介・その71    (寺田屋事件ー60)                                                  【 清河八郎の事ー16 】     清河の大赦運動は成功し、八郎は幕府の指図にしたがい、麻裃(あさかみしも)に威儀を正し、庄内藩江戸留守居役 付添にて、町奉行所に出頭し、無礼人斬殺の旨を届出で、奉行からその場で公然赦免になり、同時に浪人取扱に引き渡されることになった。  全国指名手配の極悪犯人が、青天白日の身となり、一躍、文武兼備、尽忠報国の英士となった。 . . . 本文を読む