【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-89 田中河内介・その88
【 清河八郎の事ー33 】
八郎の今回の遊歴の目的の一つは 長崎見聞である。 ここには 十日間滞在し、好奇心の赴くままに見物した。 まず 到着早々、舟を雇い 蘭船を見に行った。 また人の世話で、商人姿となって出島に入り、地元の人でも中々見ることが困難な 和蘭屋敷の見学もした。
八郎は一言で言うなら行動の人。 そして その好奇心は 並外れて旺盛であり、 中でも、外国への関心はとても強かった。 また 「 時代 」 を見るに 客観的に見るように 常に心掛けていた。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-88 田中河内介・その87
【 清河八郎の事ー32 】
八郎の目的とする学問は 経世済民である。 今回の 九州旅行の意義を、『 西遊紀事 』 序に 次のように述べている。 「 およそ万里の道を行く者は、先ずその土地の形勢を明らかにし、その風土を 審かにすべきである。 形勢がすでに明らかになり 風土がすでに審かになれば、人情世態が 自然とよくわかる。 それに加え 万巻の書を読んで得た知識を以て 物事を処理すれば、経世済民の学に 大いに役立つことであろう。 この事を目指して 私は九州を 遊歴するのである。」 と . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-87 田中河内介・その86
【 清河八郎の事ー31 】
八郎は 京都で遵古堂に入塾したが、そこは、君子 道を求める所ではないと思った。 京都での八郎は、期待した皆川淇園のような師とは めぐり会えず、日々鬱々としていたが、一方では、遠近の文人墨客を訪ねて 揮毫を頼むことを 楽しみとしていた。 三ヵ月後、八郎は 遵古堂を引き払い 九州旅行に発った。 その土地と 歴史を知り、その優れた人物を訪ねる事により、自らの見識を磨こうと思ったのである。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-86 田中河内介・その85
【 清河八郎の事ー30 】
八郎の本領は 学問で身を立てること。 このまま 清川に留まる訳にはいかない。 次の勉学の地を京都と定めたが、両親は 清川を出ることを許さない。
八郎は、密かに鶴岡の伯父の家に行李を届けさせた。 そして翌日、鶴岡に行くと言って 伯父の家に身を寄せ、伯父たちに両親の説得を依頼、父から三年間遊学の許可を得た。
嘉永三年二月三日、八郎は遊学のため 鶴岡を発った。 志すところは京都に赴いて師を需(もと) めんとするに在る。 しかし、京都では思うような師とは なかなか出会えない。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-85 田中河内介・その84
【 清河八郎の事ー29 】
嘉永元年、八郎、十九歳。 七月に弟熊次郎、十三歳が病死した。 師 東条一堂の諭しもあり、家出以来 一年半ぶりの十月に清川の実家に戻った。 そして 翌 嘉永二年は、清川に留まって家業を助けた。
八郎はその青春時代を 落水楼で起居した。 嘉永二年、二十歳の八郎は 「 落水楼記 」 を書いた。 この中には 当時の彼の人生観が はっきりと表われており、その思想は、後年の彼の生涯に脈々と生かされて行く。 清河八郎は落水楼より眺める自然の中に、人生の永遠の生命・人生観を 感得したと言える。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-84 田中河内介・その83
【 清河八郎の事ー28 】
父母の反対を押し切り家出した八郎は、江戸に出て東条一堂塾に入る。 八郎は、後に 安積艮斎塾、京都の岡田六蔵塾、昌平校などにも学んだが、八郎に最も影響を与えたのはこの東条塾であった。 八郎は一堂の学識と人格に心から敬仰していた。 やがて八郎は 桃井儀八・江幡五郎とともに、一堂門の三傑といわれるようになる。 . . . 本文を読む