日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー150 『日本』掲載 「天領日田の一風景・1」  広瀬淡窓と咸宜園ー3

2010-10-16 08:31:58 | 幕末維新
  「天領日田の一風景」 広瀬淡窓と咸宜園

                                   矢 野 宣 行
                                     「 博士の家 」 代表
                                      

   一代の抱負

 淡窓は 眼病の為、読書する時には、文字の大きい文章だけを読み、後の細字部分は目を閉じて思考した。 
 また 病弱の為、師につかず独学し、どの学派にもとらわれない独自の学問を確立した。 淡窓はこの事を 前述の 「 文玄先生の碑 」 の中で 「 其の学は 大観を主とし、人と同異を争わず、旁(かたわ) ら 仏老を喜ぶ。 世に称して 通儒(つうじゅ) ( 大衆庶民の儒者 )という 」 と述べている。 さらに、病弱は 淡窓に満足な遊学を許さなかったが、人は動けない程 逆に 内面的には深くなるものである。 
 これらの事からして、淡窓は大変思慮深い人であったと考えられる。

 また 淡窓は 代官所から入る幕府や長崎からの情報。 
 塾に出入する多くの人々からの各地の情報。 
 また 日田を去り上方などで多くの人物と交流していた弟の旭荘からの情報など、
情報源には恵まれていた。 
 思慮深い淡窓は これ等の情報を 人よりも広く深く分析 思考し、時勢の変化を的確に捉えていたであろう。
 そして、混乱の時勢なればこそ 実用に役立つ人材の育成が最重要と考え、門生全員に その学力や器才に応じて 塾の職務を分担させ、教授の補助や 塾務の運営に当らせ、他日世に出た時の備えともさせたのであろう。 その為 当時、「 咸宜園の都講(とこう) ( 塾頭 ) となる者は 国家の宰相たるの資格を持った者である 」 とまで言われた。
 また、思慮深い塾生を育成するために、授業に作詩を存分に取り入れ、 その情操と品性を高めた。 
 このように淡窓は、即刻国事に身を挺する人材よりも、時勢を思慮深く考察出来、正確な判断力を持ち、かつ 実用に役立つ人材の育成に 着々と手を打っていたのである。

 幕藩体制の有力な支柱には、厳重な階級制度( 世襲制度 )、 鎖国、 徹底的な幕府中心主義 などがあった。 
 淡窓は 封建の弊害を無くす為に 表立っての動きはしなかったが、咸宜園の中では、世の中に先駆けて 幕藩体制の一画を完全に崩した仕組を実行した。 三奪法による身分差別の撤廃、教育の機会均等、実力中心主義 を推し進め 人材を育成した。 さすれば、やがて来るべき時に 封建の弊害は自ずと解消すると考えたのだろう。 その為に 代官所から 塾運営( 主として月旦評 )への 如何なる介入があろうと、また その教育制度に多少の弊害があろうとも、月旦評を中心とする実力至上主義の 咸宜園教育を守り抜いたと考えられる。

 しかし、このような咸宜園では 月旦評が絶対的な存在になり、点数獲得が目的化して 塾生はそれ以外のことに 無関心になって 本当の意味の学問をしなくなった。 しかも 個性に乏しく 独創性に欠けるという弊害が出て来た。 淡窓は之を憂慮したが、

  「 抑々(そもそも) 百事皆 一得アレハ 一失有リ。 一利アレハ 一害有リ。 後人 此事ヲ論センニ、余ヲ以テ 功首(こうしゅ) ト センカ、
  将(はたま) タ 罪魁(ざいかい) ト センカ 」 ( 『 懐舊樓(かいきゅうろう)筆記 』 巻十一 )

と、問題点があっても 三奪法に始まる実力主義を諦めるのでなく、これにさらなる工夫
を重ねることにより それらを克服しようとした。 これは、塾生全員に、確実に一定以上の学力を修得させることを 最大の目標にしていたからでもある ( 『 広瀬淡窓と咸宜園 』 海原 徹 著 )。
 これは 人間というものは 教えないと どうしても悪い方へいってしまうという人間社会の現実を観察して、性悪説を主張した荀子(じゅんし) の、「 本当の学問というものは、立身出世や就職などのためではなく、窮(きゅう) して困(くる) しまず、憂えて意(こころ) 衰えざるが為なり。 禍福終始を知って 惑わざるが為なり 」 という考えと 相通じるものがあった為であろう。
 淡窓は 「 人材ヲ教育スルハ、善ノ大ナルモノナリ 」 と 喝破(かっぱ) したが、これこそ 淡窓一代の抱負を吐露したものである。 淡窓は時代の流れを大観して、国難を乗り切るカギは教育にあるとし、そしてその教育事業に生涯を捧げたのである。



   心情を吐露

 淡窓の遺著は 多方面にわたり、三十種、百数十冊にも上るが、その遺著の中に、国事に関して慎重であった淡窓が、死の前年に決死の覚悟で刊行した 『 迂言(うげん) 』 がある。 
 これは 自身の経世的な信条を吐露したもので、国本 ・君道 ・禄位 ・兵農 ・学制 ・ 雑論 の六編から成っている。 内容は 諸大名の領内に於ける政治の弊風に関して、自身の見解を述べたものだが、暗に幕府政治そのものを 批判しているとも 捉(とら) えられなくもない。
 この『 迂言 』の脱稿は、 五十九歳の 天保十一年(「 大塩平八郎の乱 」の三年後 )であるが、この刊行が いかに決死の覚悟であったかは、次のようなことでも察せられる。 
 淡窓は その序文で、
  「 迂言は六篇から成る。 著者の姓名を載せていない。 ある家の売りものの古紙の中から見つけたものである。 この書は、経済に
  ついての説を述べているが、主として諸侯列国のことで、広く天下に言及はしていない。・・・・ 」 ( 原漢文・意訳 )
と述べている。 
 著者は自分ではない。 しかも その内容は 幕府政治とは無関係で、諸大名の領内に関することであると 執拗(しつよう) なまでに断っている。
 これは、明和事件( 明和四年・一七六七 )の立役者である 山県大弐(やまがただいに) ( 一七二五~一七六七 )の著書 『 柳子(りゅうし)新論 』( 宝暦九年開版 )の序説と酷似している。 
 それは
  「 享保の初(はじめ)、数(しばし) ば 水患(すいかん) を被(こうむ) る。 修築及ばず。 因(よ)って其の宅を移し、故地に種(う) ゆるに
   菽麦(しゅくばく) を以てす。 畝間(ほかん)、偶々(たまたま) 一石函(せっかん) を獲たり。 中に銭刀(とう) を蔵(おさ) む。 皆、元(げん)
   明(みん) 以上鋳(い) る所の者、函底(かんてい) に 一古書あり。 題して、柳子新論と言う。」 ( 原漢文 )
という一文である。

 また 頼山陽( 淡窓より二歳年上、天保三年没 )も、『 日本外史 』 を書いた時、ひそかに自序を作って、あくまでも私書であることを強調して 刊行時に備えていた。

 また『 迂言 』の 本文劈頭(へきとう) の 「 国本篇 」 の出だしも、太平の世をつくり出した徳川氏の功績を大きく称え、幕藩体制を肯定することから始めている。 これも 頼山陽の 『 日本外史 』の「 徳川氏 」の項の場合と同じである。

 これらは皆、幕譴(ばくけん)( 筆禍(ひっか) )を恐れての予防策である。 この事は 通常政治問題に慎重で穏健な淡窓が 『 迂言 』 の刊行に際して、如何に身の危険を考え 決死の覚悟であったかという事で、これにかけたその志のほどを 窺(うかが) うに充分である

 淡窓は この 『 迂言 』 の「 国本篇 」で、諸大名の領内に於ける政治の刷新に就いて 次のように言っている。( 原漢字に片仮名交じり文・意訳 )

  「 国家も 時と共に衰退し 活性が失われる。 賢を進めて不肖を退けることは 国を治める本であるが、禄が世襲である封建制度の
  もとでは、士大夫の家に生れた者は、不肖の者であっても これを退けることは困難である。 故にその子弟を教育して、善に趣き、
  悪を棄てしめ、その国に役立つ人材を養成することが必要である。
   その為には 学校を設営することが最も大切である。 また 幼少の時より学校で学ばせることは、人材の養成上必要であるのみ
  ならず、封建の弊習をも改めることにもなる。
  その弊習とは、 
   第一に、諸大名やその群臣に至るまで、その行儀が尊大に過ぎること。  
   第二に、誇張や自慢に努めること。  
   第三に、諸事につき 秘密にして 閉固すること。  
   第四に、門地(もんち) の高下を論じること。  
   第五に、先格に因循(いんじゅん) すること。 
   第六に、文盲不学であること。
  の六つであるが、前の五つの弊習は、六つ目の文盲不学の弊習より起るので、学校を設置して文盲の幣を改めれば、前の五つの
  弊習は一洗出来る 」
と。

 また 『 迂言 』 の「 兵農篇 」では、
  「 国防は国家の根本で、平和時でもこれを怠ってはならない。 戦いにおいて 寡(か) は 衆に敵しないので、武士だけでなく新しく農兵
  を用うることが最良の策である 」
と述べているが、この兵農論は、淡窓没して約二十年後の 明治国家の兵制の中で生かされている。 これは淡窓の識見の高さを示す一例である。

 淡窓は 安政二年(一八五五)十二月四日に この 『 迂言 』 の刻成るや、病勢進み十二月半ばには 授業を全て廃し、その後再び立つことなく、翌安政三年十一月一日に 秋風庵に於て長逝した。 七十五歳であった。 
 門人はひそかに 「 文玄(ぶんげん)先生 」 と おくり名した。 中城(なかじょう)村の長生(ちょうせい)園に葬られ、その墓地の一隅に

  「 わが志を知りたければ、わが遺著を見よ

で結ばれた 『 文玄先生之碑 』 が建てられた。 碑文は 淡窓、 書は 旭荘、 建立したのは 林外である。



   おわりに

   議論より実を行え 怠け武士
       国の大事を よそに見る馬鹿

 これは 生野の変( 文久三年十月 )で 破陣後も踏み留まり、節に殉じた南八郎(みなみはちろう)( 河上弥市(やいち) )二十一歳の辞世である。 八郎のような人物は変革期には無くてはならない存在である。 咸宜園からは このような人物は出なかったが、明治国家の建設期に 多方面で活躍した有為な人物を多く輩出した。 国の大事に身を挺す人物を育成する塾も、次に来るべき新しい時代の建設を担う人物を育成する塾も 共に必要である。 ある意味では このような塾の役割分担、教育の巾の広さが 明治維新を成功させたとも言える。
 そう言えば、国事を変革するには、現体制の破壊と 次の新体制の建設の双方が必要であると考えた水戸( 西丸帯刀(さいまるたてわき) 等 )と 長州( 松島剛蔵 ・桂 小五郎 )の藩士の間で結ばれた密約 「 成破(せいは)の盟(めい) 」 ( 万延元年八月 )も同様な考えからであったろう。 とすれば、咸宜園は 『 成 』 の志士の育成を担当したともとれる。

 現今、戦後のGHQ政策の超優等生として 崩壊に向ってひた走る我国は、ある意味で幕末以上の危機に直面している。 
 国の大事をよそに見るという馬鹿者どもで 国中が溢れかえっている。 咸宜園の実力万能主義の教育システムは、門人の長三洲(ちょうさんしゅう) を通して 明治国家の教育制度に生かされ 現在へと繋がっている。 しかし、現在は 幕末と比べて 本当の意味の教育がない。 淡窓の如き深謀遠慮の教育は影を潜め、その実力主義の弊害のみが拡大している。

 国家の強弱の岐れるところは、人材( エリート ) の較差にほかならない。 また 如何にして人材を識(し) り これに任(まか) すかが 政治である

 国を建て直すには 成破双方の人材の育成が不可欠である。 中でも 「 破 」の志士の素質を持つ人材を 善導・育成することは大事である。 出る杭を打ってはいけない。 画一・平均化された教育は、国家の弱体化・崩壊を招くのみである。 種々の個性を伸ばす社会システムが必要である。 そのためにも 政治家 ・実業家 ・教育者 などには、学問によって鍛え上げられた 質の高い人材が求められる。

 また 現今の国難に対処する術は、全て歴史の中にその答があると言っても過言ではない。 歴史は その民族・国家の財産で、未来への見識も与えてくれる。 そのため 明治の大政治家、大実業家と言われる人物達は 歴史の勉強を大切にした。 自国の歴史を疎かにする国は やがて衰退する。
 また 国家の破滅は 体制内の改革からは救えない。 現体制内の仕組では、修正は可能であっても新しい建設・創造は不可能に近い。 今は新しい仕組の創造が不可欠な時、再び維新が求められる時である。 祖国日本の大事に当面して、いやしくも国家を保とうとするならば、民族のエネルギーを体現する人材を育てねばならない事を歴史は語っている。 
 それを怠り 大衆に迎合する現今の世情に対し、「 国の大事をよそに見る馬鹿 」 と、八郎は大声で叫んでいるだろう。

 「 天領日田の一風景 」 ( 広瀬淡窓と咸宜園 )   大尾


備考) 雑誌「日本」 第六十巻 第十一号(平成22年10月1日発行)に掲載
    発行:(財)日本学協会
        TEL: 03-3386-0422


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http://house-summit.com/common/pdf/nihon.pdf

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