日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー14 ( 臥龍窟の志士達、 薩藩蔵屋敷二十八番長屋 )

2008-04-30 12:16:02 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-14 田中河内介・その13 (寺田屋事件ー2) 外史氏曰  田中河内介は、二月十五日、柴山・橋口から、久光の卒兵上洛を知らされると、直ちに自身の西下を取止め、島津久光の卒兵上洛を機に挙兵の策略を立て、長州と九州諸藩の志士達に八郎と連名で 「 事態が切迫したので久光公入京以前に、武器を携えて即刻上京するように 」 と、十七日附け . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー13 (上京する志士たち  ・小河一敏 )

2008-04-29 13:30:43 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-13 田中河内介・その12 (寺田屋事件ー1) 外史氏曰 上京する志士たち  島津久光が朝廷の力を借り幕政改革を幕府に要望するため、兵を率いて上京するとの情報に、薩摩の力を借り討幕を目指そうと考える志士たちが各地から続々と京都を目指し始める。 前述の如く、真木和泉守自身は二月十六日水田を脱出鹿児島に向かったが、そこで軟禁状態 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー12 ( 真木和泉守  ・脱藩、入薩 )

2008-04-26 23:55:57 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-12 田中河内介・その11 (西海の志士たちー6) 外史氏曰 久光東上を聞きつけ 長州や 九州各地の志士が 鹿児島を目指す 真木和泉守の脱藩  清河らの遊説により、動き始めた九州各藩の勤王党の中で、最も早く行動を起したのは、真木一派であった。  水田脱出を決意した和泉守は、一月十六日に 山梔舎に従学する門人たちを集め . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー11 ( 宮部鼎蔵、 薩摩藩の情勢 )

2008-04-25 18:35:01 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-11 田中河内介・その10 (西海の志士たちー5) 外史氏曰 宮部・松村の上京   清河八郎たちが九州遊説を終え、京都に帰って五日後の文久二年正月十五日、その後を追うように、宮部鼎蔵・松村深蔵が肥後の勤王党を代表して、清河等の遊説した内容の真否を確かめる為に京都の田中河内介宅を訪れた。 もちろん清河・伊牟田ともそこで再会し . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー10 ( 清河八郎 九州遊説から帰る )

2008-04-24 02:45:09 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-10 田中河内介・その9 (西海の志士たちー4) 外史氏曰 真木和泉守と会合  十二月二十五日、平野・清河・伊牟田の三人は、松村大成の家を出て筑後瀬高に行き、そこから和泉守に 「 瀬高で待っています。 お越し願いたい 」 旨の書を出した。 和泉守は夜陰に乗じて幽居を抜け出し、瀬高に赴き三人と会合した。  平野が先ず入薩の状 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー9 ( 清河八郎の遊説  ・薩摩藩尊攘激派 )

2008-04-23 22:13:17 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-9 田中河内介・その8 (西海の志士たちー3・薩摩藩激派) 外史氏曰  薩摩侯を動かし、かつ薩摩の同志を得ることを目指して、文久元年( 一八六一 )十二月七日、薩摩へ発った平野國臣(くにおみ)・伊牟田尚平(いむたしょうへい)は、成功のうちに予定期限の一日前の二十四日の夕方、無事松村大成宅に帰ってきた。 この両人の薩摩行きは 「 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー8 ( 清河八郎の遊説  ・真木和泉守 )

2008-04-17 19:44:04 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-8 田中河内介・その7 (西海の志士たちー2) 外史氏曰 真木和泉守 【 名は保臣(やすおみ)、号は紫灘。 久留米水天宮の祠官。 江戸・水戸に遊び、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい) の影響を受けた。 文久二年、尊攘運動に投じ、寺田屋の変に失敗、薩摩に失望して長州藩に身を託す。 禁門の変に破れ、天王山で自刃、享年五十三歳 】 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー7 ( 西海の志士たち  ・松村大成 )

2008-04-16 23:45:08 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-7 田中河内介・その6 (西海の志士たちー1) 外史氏曰  清河八郎たちは、十一月二十九日、小倉に上陸後、十二月二日に肥後・玉名の安楽寺村に松村大成(たいせい)を訪ねた。 同地は熊本から北二十キロの地にある。 松村大成、【 名は古文、字は容谷、大成と称する。 代々医を業とした。 大成二十九歳、家塾を開いて子弟を教え、専ら名分を正 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー6 ( 清河八郎の大任 ・九州遊説 )

2008-04-15 21:15:05 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-6 田中河内介・その5 (清河八郎の大任・九州遊説) 外史氏曰  文久元年( 一八六一 )十一月十二日、清河八郎は京都・丸太町の臥竜屈に田中河内介を訪問した。 初めての訪問だったが、河内介は北有馬太郎の同志でもあったから、親しみをも感じたに違いない。  十一月十四日、清河八郎はまず、河内介に天皇ご譲位調査問題 【 幕府は天子 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー5 ( 田中河内介ー4  ・九州遊説 )

2008-04-14 02:50:04 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-5 田中河内介・その4 ( 田中河内介の九州遊説 ) 外史氏曰  河内介は期するところもあり、第一回九州旅行・( 安政二年十月~安政三年六月 ) を決行したのだ。  真木和泉守は久留米水天宮の宮司で憂国の士である。 度々藩主に藩政改革の上書をしていたが、保守的な藩風はそれを受け付けなかった。 また、河内守は真木さんの考えは私と . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー4 ( 田中河内介伝記-3   ・教育者から志士へ ) 

2008-04-13 13:52:44 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-4 田中河内介・その3 ( 教育者・田中河内介から志士への変身 ) 外史氏曰  まもなく中山家では、お目出度いことではあるが大変な事が起きた。  嘉永四年( 一八五一 )四月、慶子(よしこ)姫は望まれて内裏に入り、まもなくご懐妊。 以来、中山家では、安産祈願のため大阪の坐摩(ざま) 神社( いかすり神社とも言う ) に度々使者を . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー3 ( 田中河内介伝記ー2  ・おいたち、朝臣誕生 )

2008-04-12 20:33:42 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-3 田中河内介・その2 (朝臣・田中河内介誕生) 外史氏曰  田中河内介は文化十二年(一八一五)、兵庫県豊岡市香住で誕生、本姓を小森賢二郎と言った。  小森が何故、田中河内介だって? それはこういう事だ!  賢二郎の祖父の正造は医師であった。 父の教信も家業を継ぎ二代目・正造を襲名した。兄(長男)信古も医学を修めて三代目・正造 . . . 本文を読む

ものすごい先生たちー2 ( 田中河内介と 清河八郎の出会い )

2008-04-11 20:57:53 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たちー2 田中河内介・その1 (清河八郎との出会い) 外史氏曰  安政七年(一八六〇)三月三日の白昼、大老の井伊直弼さんが江戸城桜田門外の公衆の面前で水戸浪士らに襲われて暗殺された衝撃的な「桜田門外の変」は、皆さんも良く知っているだろう。 この事件は世の中に大変大きな影響を与えて、幕府の崩壊を早めてしまう事にもなるのだが、この事件に感 . . . 本文を読む

ものすごい先生たち-1 ( 絶対の教育者 ・吉田松陰、田中河内介、真木和泉守 )

2008-04-09 16:13:36 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 すごい先生たち-1 外史氏曰(がいしし いわく) 【 絶対の教育者 】  生徒の心を揺さぶるものは、その先生が教える授業の内容もさることながら、むしろその先生の人間的な魅力の方が強烈パンチであるかも知れない。  何とも言えない程の人間的な魅力をもち、生徒たちの心を動かさずには置かないような不思議な力を持った先生のことを、世間では絶対の教育 . . . 本文を読む

明治維新成功の要因

2008-04-02 19:13:40 | 幕末維新
外史氏曰 明治維新成功の要因  私は、全国各地に行った時、その地域の(古)本屋に必ず出入する。郷土の本の数は地域によって明確なる差があることに気づく。それは何に起因するのか。私は考えた。その地域の文化、社会、人。言い替えると、家庭、藩(社会)、個人であると。  このことから、文化を頽廃させない仕組、社会の素朴性の維持、識見・能力を持つ個人の育成(教育)が国家・社会にとって大変大事であること . . . 本文を読む