日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー146  ( 土佐の南学ー19 ・ 梅田雲浜ー5 ・一乗寺村閑居 )

2009-12-29 15:29:16 | 幕末維新
田中河内介・その145

外史氏曰

【出島物語ー57】

 土佐の南学―19

          
              葉山 (はやま)の 観音堂 ( 2009.12.25 )

一乗寺村閑居  

 雲浜の一乗寺村に閑居中の逸話として、夫 雲浜を支える信子さんの美談などが 数々伝わっているが、次のようなこともあった。 ある時、肥後の国老 長岡監物(けんもつ) の臣 愛敬(あいけい)某が、江戸から帰国の途次、一乗寺村の雲浜の住いを捜し当てて訪ねて来た。( 監物とは、雲浜がかって九州遊歴の折に、既に知合いになっている。) 要件は、主人監物の命により、浅見絅斎の 「 赤心報国 」 の鍔 ( ものすごい先生たちー136参照 ) の在り処を探しているとの事。 そして、その所在が分かれば、値はいくらであっても良いから、手に入れたいとの事であった。 崎門の正統を継ぐ雲浜ならば知っているだろうと、訪ねて来たのである。 雲浜はその在り処は知っていると答えた。 喜んだ某は、それはどこかと聞いた。 雲浜は、自分の胸をポンと叩き、ここだと言った。 そして、 「 監物殿であるならば、値は論じ申さぬ。 いか程にてもお売り申そう 」 と言った。 これを聞いた某は 落胆して去った。 これ等の事を、帰国した某から報告を受けた監物は、 「 惜しいことをした。 雲浜ほどの人物を得そこなった。」  と残念がった。 後に、一万五千石の大身 長岡監物が 京都に来た時、自ら膝を屈し、礼をあつくして雲浜を迎えようとしたが、雲浜は笑って応じなかった。


襦袢一枚で琴を弾じた婦人

 下田歌子は、嘗て 『 婦人世界 』 に、『 襦袢一枚で琴を弾じた婦人 』 と題して、雲浜 一乗寺村閑居時の、雲浜の妻 信子 (しんこ)さんの事に就いて、次のような話を登載しているので、以下にそれを紹介しよう。


     『  ▲ 観音堂の奥様
      
         観音堂の奥様に
         洗濯させるは勿体ない
         使ひ歩きは気の毒だ
         お針習はしよ娘子に・・・・・

       こういう流行唄が 何時の間にか洛外の或村の、美しい淋しい自然の風景の
       うちに反響するようになりました。  観音堂の奥様  ― 何という妙な
       言葉でありましょう。 しかも、その観音堂というのが、堂といえばなるほど
       堂には相違ありませんが、建ててから、幾星霜を経たか解らぬと思わるる荒れ
       ようであります。 型の如く軒は傾き、瓦は破れて、雨露は会釈もなく洩(も)
       りこぼち、月影は気兼なく差覗(のぞ)く有様であります。 籬(まがき)は破れ
       て庭には秋草が蓬々と生茂っております。 十数年来無住無縁のこの観音堂に
       は、そうした廃滅に近い堂塔に特有な神秘的な伝説が一つまた一つと加わって、
       それが愈々信者の心を萎縮せしめて、参詣人の跡を絶たしむるに至ったので
       あります。 観音堂の奥様が引越して来たのは、村人にとっては確かに驚異の
       一つでありました。 彼等はこの奥様夫婦が引越したその夜の出来事を想像
       すると、不安に堪えず非常に心配致しました。 或ものは衷心からの同情に
       駆られ、素朴なる言葉を尽して、この堂の伝説を語り、もしこの若夫婦が一夜
       を此処に過そうなどという無分別をすると、取返しのつかぬ不幸が忽ち降って
       来るであろうと説いてみました。 しかし、この夫婦はただニコニコと笑って
       いるばかりで、敢て村人の言葉に従おうとはいたしませんでした。
        三日 五日 一月 二月と馴れるにつけて、村人はこの夫婦の正体はわからぬ
       ながらも、次第に馴染(なじ)むようになりました。 主人というのは、恐ろ
       しく厳格な、眼の鋭い、骨格の逞しい、それでいて何処となく蟠(わだかま)り
       のない、親切らしいところのある浪人でありますが、奥様の方は、小柄な、痩
       せぎすの、色の白い、そして、愛嬌のある、優しい懐しげな婦人でありました。 
       初めは異郷の人に対する村人の用心もありましたろう。 また物馴れない朴訥
       (ぼくとつ)な人は、引込み思案からでもありましたろう。 村人の誰も彼も
       観音堂の前を通る時には、何か怖いものに襲われはしないかというような様子
       で、足早に立去るのでありましたが、何時の間にかこの奥様に馴染み近づいた
       のは、頑是ない村の子供でありました。 彼等は、観音堂の陽あたりのよい縁
       の上で、この若い美しい優しい奥様から、美しい音楽的な京訛(なまり)で、
       袋草子 』 だの、『 物臭太郎 』 だのというお伽噺(とぎばなし)を聞かされて、
       次第次第に離れ難い親しさを感ずるようになったのであります。 「 旦那は
        京の町にも二人とない大学者だそうな。 それほどの大学者がなぜまあ観音堂
       の守なんぞをしてござらっしゃるのだろう。 」 と、村人が噂をはじめたのは、
       それから幾月かの後でありました。

         八面六臂 (はちめんろっぴ) の働き

        京都第一流の学者であるかないかは知らぬが、良人は朝から晩まで書物に親し
       むより外には、右のものを左に移そうともしません。 貞淑なる妻は、万事万端を
       取賄(とりまかな)う外に、その日その日の生活の資料を得なければなりません。 
       世にある時は、輿乗物に威勢のほどを見せたらしい、優雅な、美麗な姿も、塵の
       中に埋めた玉のように、継ぎはぎの着物に山の切れた帯を締めて、一日中労働
       するのでありました。 それでも、さすがに、その衰えた身のまわりにも、
       見すぼらしい風体にも、何処に一つ乱れたところもなく、礼儀作法も式に
       かない、気高い温雅な身のこなしに、誰いうとなく観音堂の奥様という敬称を
       博したのであります。
        奥様の日常の仕事は、第一、村人のために裁縫をすることでありました。 斯る
       片田舎の人々の最も困難を感ずるのは、針仕事の業であります。 村人は一年
       中を野良仕事に費しているので、そういう坐り仕事は何うしてもできません。 
       われもわれもと、いろいろの仕立物を観音堂へ持って来るので、僅かながらも
       その謝礼によって、どうやら斯うやら、その日の糧を支えて行けるのであり
       ました。 しかも、決して奥様振ることなく、村人の依頼ならば、何くれと
       なく世話をしてやりました。
        或時は、多忙な野良仕事に一家族が出て行った留守の間に、その家の洗濯
       仕事をしたこともあります。 或時は、村人のために急な使をして、夜通し
       厭わず走り歩いたことも度々あります。 また暇のある時は、村の子供を集
       めて、簡単な書物を教え、お話をし、或は妙齢の娘のためには裁縫の教授、
       少しく身分ある人の娘の請に黙し難く、琴生花などを指南し、親切に、丁寧に、
       村人のために骨身を惜しまず働くのでありました。 奥様は村人の崇拝の中心
       でありましたが、相変らず驚異の的になっているのは、その旦那でありました。 
       「 あの人は奥様に働かせて、自分は平気で飲んだり食ったりしている、何と
       いう暢気者だろう。 一体どういう訳で、あの立派な身体を持ちながら、役にも
       就かず、寺子屋も開かず、そうかといって商売もせず、平気で奥様の厄介に
       なっているのだろう。」 とは、村人の寄ると障るとの評判でありました。 
        その上、観音堂の奥様の一家を更に苦しめるものは、殆んど毎日といっても
       よいほどの来客であります。 何れも屈強な、一癖ありげな人ばかり。 在は
       武士の姿で、或は町人百姓の姿で来訪するのであります。 客ある毎に主人は
       必ず奥様に酒肴を命じ、一壺の酒に陶然と酔うて天下国家のことを論議する
       のが、唯一の楽しみらしく思われます。 ところが、その一壺の酒を持ち出す
       までの奥様の苦心は、実に惨憺たるものがあるのは、幾多の例によって知る
       ことができます。

         健気な心づくし

        或日のことでありました。 また例の浪人客が二人揃ってやって来て、主客が
       天下の時事を談論した後に、いつもの通り酒が欲しいと思いましたが、主人も
       さすがにこの日は、我が家の窮乏を知っているので、到底そういうことはでき
       ぬと、心窃かに諦めておりました。 ところへ、立派な酒肴が妻の手によって
       運び出されました。 まるで魔術の杖を持った人のように、彼の妻は如何なる
       時でも、立派に酒肴を調える手腕を持っておりましたが、今日という今日こそは、
       とても見込みはないと思っていたので、主人も客も驚き喜んで、早速これを食い
       もし飲みもした。 人々は小さい声で歌をうたい、詩を吟ずるほどになりました。 
        すると、主人は妻を呼んで、「 信子、お前の琴も久しく聴かぬが、清興を
       添えるために一曲聞かせてくれ。」 と申しました。 客は勿論是非に是非に
       といって、手を拍って迫るのでありました。 信子と呼ばれた妻は、ちょっと
       困った風でしたが、忽ち思い返したように、「 それでは久々で拙き一曲を
       お聞きに入れましょう。 暫くお待ち下さいまし。 しかし、堅く御約束申すことは、
       琴は次の室にて調べますゆえ、その間は決してそこを御覧にならないよう願い
       ます。」 と堅く幾度も約束して室を出て行きました。 その後で、良人はふと
       思いつきました。 琴は貧窮のあまりに典物となっているのであります。 これは
       悪いことをいった。 妻はどうしてその琴を取つ来るだろうと、飲んだ酒も醒めて
       気が気でないのでありました。
       間もなく隣の室から瀏朗(りゅうろう)たる十三弦の音が、雨か風かのように
       響いて聞えました。 その妙なる爪音に、人々は感歎の耳を澄しました。 
       良人はあまりの不思議さに、彼の誓をも打忘れて、そっと次の室を覗いてみると、
       妻は、薄い下襦袢を身に纏(まと)うて、端然と坐して琴を調べすましているので
       ありました。 妻は、我が上衣と帯とを質屋に送って、その代りに一時琴を取返
       したのであります。 この心づくしには、さすが暢気の良人も、涙を流さんばかり
       に感服しました。 来客の去った後に、妻の志を謝して、自分の失念を詫びました
       時に、妻はキッとなって、「 良人の命を奉ずるのに、何もお詫びも感謝も要りま
       せん。 ただ私が申さなければならないことは、あれほど堅く御願い致したことを
       破って、なぜこの室をお覗きになりました。 それがお恨めしうございます。 
       如何に落ちぶれても 寠(やつ)れても、女には 女の身だしなみというものがござい
       ますものを・・・・」 と申しました。 すると、さすがの良人も手を突いて、
       「 あゝ悪かった。どうぞ許してくれ。 以来は キッと左様なことはせぬ。」と、
       あやまりました。 何と優にして厳、淑にして敏、真に梅花の雪中に笑う概が
       あるではございませんか。 誰か我が日本の女性を目して、男子の奴隷なりと
       いい得ましょうぞ。 
        この物語は、維新の志士たる梅田雲浜先生と、その妻信子刀自との話であり
       ます。 私はこの夫婦の事蹟について、もっと詳細な御話もしたいのであり
       ますが、それは他日に譲ることとして、とにかく維新時代の志士が、ただ自分
       一人であれだけの事業をしたのではなく、その後援者として、これほどの婦人が
       あったことを、此処に一言御話したのであります。    』

 以上が、下田歌子が  『 婦人世界 』  に、 『 襦袢一枚で琴を弾じた婦人 』  と題して、雲浜 一乗寺村閑居時の、 信子(しんこ)さんの事に就いて、登載している内容である。 なお、信子さんが、襦袢一枚で琴を弾じた この有名な話は、頼三樹三郎 ( 頼山陽の三男 ) が ある日 一人の浪人儒者を連れて 一乗寺村の雲浜宅にやって来た時の出来事である。 頼は 時に 二十八歳、雲浜より十歳年下で、中々の熱血漢、同伴の男も 何れ劣らぬ慷慨 (こうがい)家、遠慮など彼らにはなかった。


 
 観音堂地内の雲浜の住居は、軒は傾き、屋根は破れて、雨露は 会釈(えしゃく)も無く洩(も)るかわりに、美しい月影を居ながらにして眺められる風流もあった。 そこで風流人でもあった信子さんは、
       
    比叡颪(ひえいおろし) の烈しい時には、
             比叡の凩(こがらし) 
         山寺の 鐘の音(ね)さへも 分(わ)かぬまで
                          比叡の木枯(こがら)し ふきしきるなり

    また 梅の花の咲いたのを見ては、
             梅
         風吹けば 茅(かや)が軒端(のきば)も 匂(にお)うなり
                              冬木の梅は 早や咲きにけり
         梅にこそ 人も訪(と)いくる 我が庵(いお)を
                          妬(ねた)くも雪の 道埋(うず)むなり
             梅花   
         冬さむみ まだ消えあへぬ 梅が枝に
                       君が言葉を 花添へて見よ

などと詠んでいる。

 住めば此処(ここ)も 楽しき都である とも思われたが、図らずも、信子さんの実父 上原立斎の 病勢が悪化した為、看護の必要上、梅田一家は 嘉永六年正月、一乗寺村から 再び京都市内へ戻ることになった。 今度は 寺町四条下る 大雲院中の 原隆院 という空寺である。 雲浜、三十九歳の時である。 そのため、梅田一家の一乗寺村に於ける閑居生活は、嘉永五年の八月より、翌六年の春までの 五ヶ月間であった。


エピローグ

 ここ一乗寺村の 葉山の観音堂の境内には、雲浜の旧跡を記念すべく、『 梅田雲浜先生舊蹟 』 の碑が、大正十二年十一月に 建立されている。 その碑陰には、以下のような文章が刻されている。 なお、 撰文並びに筆者の  『 惺軒 』  とは、京都帝国大学教授 文学博士 高瀬武次郎の雅号である。

   雲浜翁 嘉永三年葉山に寓シ、勤王諸同志ト国事ヲ議シ、或ハ 四明山下 一閑人 石川丈山ヲ追慕
   シテ、閑ニ風月ヲ弄セリ。 長岡監物ノ臣某ガ来テ 浅見絅斎ノ赤心報国刀ヲ求メ、山縣元帥ガ謁シ
   テ 教ヲ請ヒ、翁ノ夫人 信子ガ 「 拾ふ木葉 」 ノ名歌ヲ作リシモ、皆此時ナリキ。 故ニ今 有志相謀
   テ 記念碑ヲ建ツ。
          大正十二年十一月二十三日            惺軒 撰並書

 なお、上記の撰文中、嘉永三年となっているのは、嘉永五年のまちがいであろう。 また、山縣元帥が雲浜に面会して、その意見を聞いたというのは、雲浜 一乗寺村 閑居の時ではなく、後の 安政五年、雲浜が烏丸御池上ルに住んでいた時の事であると言われている。

          
         「 梅田雲浜先生舊蹟 」碑 葉山の観音堂地内 ( 2009.12.25 )

          
        一乗寺村舊蹟の碑 (大正十二年十一月二十三日除幕式挙行の写真)
        ( 「 梅田雲浜遺稿竝傳 」 佐伯仲蔵編  昭和四年 より )


                          つづく 次回

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