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ものすごい先生たちー155  『水戸史学』掲載  「天領日田の一風景」 ・三絶僧・平野五岳と明治維新-1

2011-06-26 17:12:42 | 幕末維新
          

          


『水戸史学』掲載  「天領日田の一風景」 ・三絶僧・平野五岳と明治維新-1

        健康住宅「博士の家」代表 ・工学博士 矢野宣行


はじめに

 豊後(ぶんご)国 日田(ひた) (大分県)の教育者 広瀬淡窓(たんそう) の門人で、詩・書・画の三つに絶(すぐ)れた 「三絶僧(さんぜつそう) 」 として有名な 五岳上人(ごがくしょうにん) (平野五岳(ひらのごがく)、一八〇九~一八九三)の話である。
 私が上人の事を知ったのは、近世最大の私塾であった広瀬淡窓(たんそう) の咸宜園(かんぎえん) を尋ねて、日田(ひた) を訪れた時に、宿泊したホテルのロビーで放映されていた日田を紹介するビデオであった。 この時 私は上人の生き方に強く心を打たれた。 そしてそれは、私の人生観に影響を与え、また、上人の作品にも 魅せられる事にもなった。
 詩・書・画には、作者の人柄や人生観などが色濃く反映される。 幕末の志士の作品からは、その志や力強さを感じる。 一方、高潔な人柄の五岳上人の作品は、何とも言えない心の安らぎを人々に与える。 明治の高官達からも好まれ、また、現在でも愛好者が絶えない所以でもある。
 咸宜園からは多くの優れた人物が輩出し、その多くが 政治家・経世家・学者・教育者等として明治の世に活躍したが、上人は 新政府からの要請にもかかわらず、中央に出ることを拒み、一生を日田の地で過ごした。
 上人が生きた江戸の六十年と明治の二十五年は、維新回天の激動期である。 彼は僧籍に身を置き、生涯娶(めと) らず、名利(みょうり) に狂奔する時流に背き、詩・書・画の世界に遊んだ。 そして、今日でも日田では、「五岳さん」 の名で親しまれている。 このような五岳上人の生き方を、主として明治の高官達との係わりを通して覗(のぞ) いてみよう。


生い立ち

 平野五岳は、文化六年(一八〇九)三月二十六日、豊後・日田郡渡里(わたり)村(現、大分県日田市吹上町)長善寺(ちょうぜんじ) の前房(ぜんぼう) (門徒(もんと)を持たない寺) 正念寺(しょうねんじ) の僧、小松恵禅(けいぜん) の子として生れた。 幼い頃の名前を 聞恵(もんえ) (呼び名をモンネ)と言った。
 八歳の時、隈町(くままち) (現、日田市亀山(きざん)町)の専念寺(せんねんじ)(真宗・東本願寺派、その頃は 願正寺(がんしょうじ) の前房) の僧平野恵了(けいりょう) の養子となった。 恵了(けいりょう) の父 智英(ちえい) は聞恵を非常に可愛がった。 聞恵が養子に入った翌年には、それまで子供の出来なかった平野恵了(けいりょう) 夫妻に、無染(むぜん) (聞恵の弟)が生れている。


勉学と修業

 聞恵(もんえ) は、十一歳の文政二年(一八一九)三月、祖父智英(ちえい) に連れられ、広瀬淡窓(ひろせたんそう) (一七八二~一八五六)を訪ね、「咸宜園(かんぎえん)」 への入門手続きをした。 入門簿の本人の覧に 釋聞恵(しゃくもんえ)、紹介者の覧に 釋智英(しゃくちえい) と祖父の名を書き、二百九十一人目の入門者となった。
 だがその頃の専念寺は 門徒を持たない貧しい寺で、無染(むぜん) を育てながら、聞恵の学費まで出すのは大変で、聞恵は 寺の仕事などで度々塾を休んだ。 文政六年七月、十五歳の聞恵は 月旦評(げったんひょう) (成績表)で二級上となったが、その秋、最も頼りとする祖父 智英が亡くなった為、十一月七日付けで 聞恵の塾生としての生活は終った。
 しかし、淡窓は 聞恵に「学問を続けたい気があるなら、客席に移してあげよう。」 と言った。 客席とは、特に淡窓の目にかなった者だけに許された特別な制度で、月旦評(げったんひょう) の対象とはならないが、都合の良い時に塾に来て受講が出来た。
 聞恵は 淡窓の心遣いと、二歳年長の親友、淡窓の末弟 謙吉(広瀬旭荘(きょくそう)。 一八〇七~一八六三)や 先輩たちの助けで、塾生でなくなっても、師の教えを受け続ける事が出来るようになった。

 その後、文政十年(一八二七)五月、十九歳の聞恵は、今度は自分が紹介者となって、十一歳になった義弟 無染を咸宜園(かんぎえん) に入門させている。 自分が十一歳の時に、祖父に連れられ、入門した時の事を しっかりと覚えていたからである。


 当時、地方の名士たちが、文人墨客を招いてその世話をし、自分達の教養を高めると同時に、地方の学問・文化の向上に貢献する事は、彼らの一種のステイタスシンボルでもあった。
 聞恵が十七歳の文政八年(一八二五)二月、日田の豪商の一人、森春樹(はるき) (一七七一~一八三四)の計らいで、南宗画(なんしゅうが) (南画・文人画) で有名な田能村竹田(たのむらちくでん) (一七七七~一八三五、豊後直入郡竹田(たけだ)村の生まれ、詩・書・画に秀で、頼山陽と親しく交歓。天保六年、摂津吹田村に没す、五十九歳) が森家の悠然亭に逗留(とうりゅう) した。 春樹は聞恵を小さい時から可愛がっていたので、この時、聞恵を家に呼び竹田の話を聞かせたり、画を描くところを見せたりした。 これが、聞恵が南画に興味を持ち始めたきっかけとも言われている。
 しかし、南画には賛(さん) といって、その画の余白に自分で作った詩を書き入れる必要がある。 その為、南画を志すには、支那の古典など多くの書物の勉強が必要で、また字も上手に書けねばならない。 聞恵には勉強する事が増えた。

 文政十一年(一八二八)七月、聞恵(二十歳)は、淡窓の勧めで初めて詩会に出ている。 この頃になると、無染も時には 寺務を手伝えるようになっていたので、聞恵も安心して淡窓先生のお供が出来るようになり、以後、あちこちの詩会にもよく出て、作詩の力を伸ばしていった。 また、淡窓は塾の遠足や自分が散歩する時にも、よく聞恵を誘った。 一方、聞恵も 先生を度々訪ね、自作の詩の指導を受けたり、種々の手伝いもした。 そして時には、共に食事をする事もあった。
 後に淡窓は、『懐旧樓筆記(かいきゅうろうひっき)』(巻十九)の文政二年の咸宜園入門者に対するコメントで、 「聞恵ハ虚泊(きょはく) カ甥(おい) ナリ。 後年詩ヲ善(よ) クシ。 其(その) 名(な) 日々ニ高シ。」 と特記している。 なお同書は、『淡窓日記』の事項を、後日整理して追記補強したもので、虚泊(きょはく) とは、聞恵の実父の兄 小松恵灯(けいとう) のことである。
 なお、聞恵は二十五歳の頃に名前を 「五岳(ごがく) 」と改めた。 そして、天保九年(一八三八)、三十歳の五岳は、その実力が認められて 『宜園百家詩(ぎえんひゃっかし) 』 の編纂(へんさん) に参加、そして、天保十二年刊行の巻三には五岳の詩十三首が載せられ、その声価を高めた。 淡窓はその五岳の詩の最初の評に、次のように書いている。
   「釋(しゃく) 五岳は、竹村(ちくそん) と号し、又、滴水楼(てきすいろう) とも号す。 豊後日田の人なり。 五岳の詩は、
   巧緻(こうち) 精密、情を写し景を模して、点水も漏らさず。いまだ古人の中の誰にか、比するを知らず。」(原漢文)

 また別に、淡窓は五岳の人物を評して、
   「僧岳は篤志(とくし)(親切な心ざし)の人なり、しかし天之にひまをかさず、惜しむべきの甚(はなは) だし。 
   然れども才学ここに至る。 師友無しといえども亦(また) 以て、独り進むべし。之を勉めん哉」
と述べており、門弟五岳の詩才とその人物を高く評価している。

 また、五岳は度々上京している。 (『専念寺所蔵・五岳上人遺墨遺品集』平成四年発行 所収 )の 川津信雄氏作成の五岳の「年譜」 によると、天保四年、二十五歳での初めての上京から、文久元年春、五十三歳での最後の上京までの間に十二回も京に上っている。 一方、河内昭圓氏は、その著 (『平野五岳詩選訳注』平成二十二年発行) の中で、五岳の詩の詳しい考察から、江戸時代にこれ以外にも、又、維新後にも上京している可能性を指摘している (五岳には、日記の存在が判明していない)。
 五岳は これ等の上京の都度、東本願寺を主とした僧侶としての修業の傍ら、書道や南画など多くのものを学んだ。 特に貫名海屋(ぬきなかいおく) (菘翁(すうおう)。 一七七八~一八六三、阿波・徳島城下生れ。 儒学者・書家・画家。) からは、書画を習うと共に、その正しい見方や、鑑定の仕方なども教わった。
 このように度々上方に上り、優れた人物や文物などに接した事は、五岳にとっては大きなプラスとなった事であろう。 そして、これ等上洛の行き帰りには、師淡窓と大坂で塾を開いていた旭荘との間の手紙等のやり取りを取り次いでいる。

 弘化三年(一八四六)、五岳が三十八歳の時に描いた山水画の賛に、次のような句 (原漢文) がある。

   山を写せば心山となり、水を写せば心水となる。
   山水の外(ほか) 我(われ) 無し、安(いず) くんぞ知らん我が画似(に) たるを。


 また、同じ頃の山水画の賛で、詩及び画を次のように論じている (原漢文)。
   「・・・詩は是れ心の響き、天籟(てんらい) 相(あい) 和(わ) して鳴る。
   画も亦(また) 心の影、風煙相(あい) 寓(よ) りて成る。
   詩と画を作らんと欲すれば、宜(よろ) しく此の心をして清らかならしむべし。・・・・

 (※天籟=松風などの自然の音。 風煙=風にたなびく霞(かすみ)。)

ここには既に、自然の心と一体となり作画に打ち込む五岳の姿が見える。

 このようにして、五岳の詩・書・画の研鑽は進み、後には 「 画は 画風を田能村竹田に学び、山水画は 貫名海屋の啓発、詩は 白楽天に私淑、書は独学による 」 と言われるようになる。 五岳は 咸宜園在塾中は、寺務に時間を取られ、その才能を充分に発揮出来なかったが、南画との出会いが その扉を開くことになった。 その意味で 森春樹(天保五年没・六十四歳) と 淡窓(安政三年没・七十五歳) とは大恩人と言える。

 五岳の生まれ育った時代は、十一代将軍 家斉(いえなり) の時代、幕府はその最盛期で、まだ馬脚を現していなかった。 しかし、その裏面に於ては、知らず知らずに幕末への暗流が動き出していた。 そして、嘉永六年(一八五三)六月、五岳が四十五歳の時、ペリー艦隊が浦賀に来航した。
 海防の策は色々と語られるが、一向に取り除かれない外敵の悪気に、五岳は 「紛々(ふんぷん) たる海防の策、未(いま) だ虜氛(りょふん) の除(のぞ) かるるを見ず。 雀語(じゃくご) 平野(へいや) に乱れ、鶴心(かくしん) 太虚(たいきょ) に沖(むな)し。・・・」 (原漢文)と嘆く。「雀語」とは、小さな雀(すずめ) が騒がしく鳴く声。 「鶴心」とは、気高い鶴の立派な心。 「太虚」とは、天空。宇宙。である。
 また、檄文が各地に飛び交えども、一向に士気の上がらない世相に、「神州の士気伸びるを見ず、世人多く 犬羊(けんよう) と親しむ・・・」(原漢文)と嘆く。 「犬羊」 とは、つまらないものの喩(たと) えである。
 そして時代は尊王攘夷から倒幕へと進む。 五岳は幕末の世情騒然たる中で、苦しみながらも 自分の世界(南画の世界)を守り、その研鑽に打ち込んだ。

 河内昭圓氏は、その著 『平野五岳詩選訳注』 の中で、「東本願寺門末の僧として、天領日田の人として、五岳は幕末ぎりぎりまで佐幕であった。 少なくともそういう生き方を求められていた。」 と述べている。 しかし、この間、五岳が尊攘の志士として国事に奔走していた親友の広瀬旭荘や 長三洲(ちょうさんしゅう) (一八三三~一八九五) の二人が、親友として 五岳と盛んに交遊し続けていたという事実、さらに、前述の川津信雄氏作成の五岳の「年譜」によると、特に長三洲とは、文久三年七月頃から会うことが多くなっているという事実は、その頃の五岳の秘められた心の奥を窺(うかが) うのに、注目すべき事であろう。

          
     平野五岳、帆足杏雨、長三洲 合作

 なお、東本願寺は、徳川家康が 一向宗の本願寺の勢力を弱体化させる為、慶長七年に本願寺から独立させたもので、その為、幕府に対して、隷属的な関係にあった。
 なお、広瀬旭荘は、その後、淡窓の義子となり、咸宜園塾主を経て、三十歳の時に、泉州・堺に開塾。 勤王の志深く、佐久間象山・僧月照・土屋蕭海・桂小五郎・吉田松陰等と交わったが、文久三年、五十七歳で摂津・池田で病没している。
 一方、長三洲は、豊後・日田郡合田村・現天瀬町生れで、父は医者で漢学者の長梅外(ばいがい) である。 弘化二年、十三歳の時に咸宜園に入り、同門の第一才子と呼ばれた。 安政二年、大坂の広瀬旭荘の塾に都講(とこう) (塾頭 )として迎えられ、その後、尊攘の志士と交わり、長州奇兵隊に入隊、そして元治元年 四国連合艦隊との馬関戦争で負傷した。 のち帰国して 父や弟と協力して 同志を募ったが、日田代官から追われ、三洲は 父 梅外(ばいがい) と長州に逃れたが、弟 春堂(しゅんどう) (一八三六~一八六六、咸宜園門人。医者) は 捕われて 日田の獄中で病死(三十一歳)した。 三洲はその後、各地での倒幕戦に参加、木戸孝允(たかよし) の知遇(ちぐう) を得て、明治三年に新政府に出仕した。

 一方、五岳の画は、五十歳代半ば頃より、それまで密画が多かったものが、それらを否定するかのように簡略化に向い、また、同じ頃より嘱望(しょくぼう) されて描く作品も多くなる。 そして、五岳は六十歳の時に、明治維新(一八六八年) をむかえた。

          

          「秋景紅葉山水図」
           五岳上人 画賛(晩年の作)


                 つづく 次回


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