日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー145  ( 土佐の南学ー18 ・ 梅田雲浜ー4 ・浪人儒者 )

2009-12-22 14:38:28 | 幕末維新
田中河内介・その144

外史氏曰

【出島物語ー56】

 土佐の南学―18

                樵(こ)りおきし 軒のつま木も たきはてて
                                 拾ふ木の葉の つもる間ぞなき
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烈々の忠言

 西欧列強のアジア侵略の矛先が、漸く東アジアにも及び、日本の沿海には、西洋列強の軍艦が頻々に出没するようになった。 しかるに 幕府のこれらに対する対策は 全く不十分であった。 しかも小浜藩は、当時 藩主 酒井忠義は 京都を守る京都所司代であった。 国防の不備を憂いた雲浜は、藩に藩政改革の上書を提出するようになる。 嘉永三年( 一八五〇 )三月十五日、雲浜( 三十六歳 )は、書を小浜藩年寄役渡邊權太夫に贈って、外冦防御に関する意見を愚陳する。 しかし、この手紙を見た家老始め重臣達の多くは、国防や藩政の事よりも、雲浜のこの行為を、上役を批判する不遜(ふそん) なものとして非難した。 結局 藩政改革も 何も着手されなかった。
 そして、この年の七月二十八日には、藩主 酒井忠義は 所司代から、溜間詰(たまりのまづめ)格に転じ、江戸へ去って行った。

 嘉永四年( 一八五一 )、小浜藩士 行方(なめかた)千三郎正言(まさこと)( 十八歳 )が上京してきた。 家が貧乏な為 正式な遊学は 出来ないので、是非 雲浜先生の書生になって勉強したいと、母や兄に懇願し、漸く母から六百文貰って上京、雲浜を訪うて来たのである。 雲浜は千三郎を、書生として置くことにした。 千三郎は 非常に真面目で、家の用事を果して、暇ある毎に 一生懸命に勉強した。 雲浜も彼を大いに愛した。
 然るに 小浜藩の家老で 武久(たけひさ) というのが、千三郎が 雲浜に入門したのを不快に思い、兄の 行方百太郎 に対し、弟を 雲浜の家から去らしめるように命じた。 武久は 雲浜に反感を抱いていた者の一人である。 兄は 家老の圧迫に抗し切れず、早く帰るようにと、度々弟に手紙を出したので、千三郎は仕方なく、泣いて雲浜のもとを去り帰国した。 雲浜は、そのような弟子 千三郎に、嘉永五年二月二十四日付で、次のような書を送って、慰め励ましている。

    『 ・・・・折角(せっかく) 御登京の處(ところ)、不都合になって 誠に気の毒である。 去りながら 是れ亦 是非に及ばざる
    ことである。 古人云う。 初陣(しょじん) に一敗(いっぱい)し、其の儘(まま) にして置けば、勇気三年は 振(ふる)わず
    と。 足下 何卒 御振い立ちなされるよう望む。 僕も折角目に懸(か)け、国家の為に その人を得べくと、ひそかに心
    中に喜んでいたのであった。 それ読書は 何地(いづち)にても出来る。 さりながら 少年の節、他国へ踏出(ふみいだ)
    したならば、一と際(きわ)覚悟も相立ち、上達いたすものである。 我が家に在っては 志操は立たず、乳臭を脱し難き
    ものである。 是等のことは、僕が従来 実歴する處である。 足下 御再遊なされたい。 夫(そ)れ 大丈夫(だいじょう
    ぶ) 非常の志ありて、非常の事を為さんと欲したならば、何れ 人の毀誉(きよ)是非(ぜひ)は あるものである。 程子
    (ていし) 朱子(しゅし) の初年 皆然り。 王陽明などは 五十杖(じょう)も打たれた。 これ等の事も かねて初から覚悟
    になくては、終身の事業は出来ないのである。 古より 人の是非 毀誉も、その時に当ると 尤(もっと)ものように聞える
    もの故、通例の士は うろたえるものであるが、とくと御考えなされたい。・・・・・ 』

 と、子弟を思う雲浜の情には、心を打たれるものがある。 千三郎は、雲浜の情を忘れかね、再び師を慕って 小浜から来て学び、また 雲浜の命を受けて 国事に奔走した。 後年、明治三十年( 雲浜没後三十九年 )、千三郎は、師の恩に報いるため、彼が発起して 小浜に 『 梅田雲浜先生之碑 』 の碑を建立している。

          
          小浜市外今富村の青井山(高成寺山)の 『 梅田雲浜先生之碑 』 古写真 
          ( 「 梅田雲浜遺稿竝傳 」 佐伯仲蔵編  昭和四年 より ) 


その頃の家庭・貧困と家族の悲劇

 木屋町二条の雲浜の生活は、親子三人、その日その日に 差支え勝の生活であった。 信子は 夜遅くまで 裁縫などの手内職で 家計を助け、雲浜にも 相当の門人があったが、多くの志士と交わり、時事に奔走する為に、常に貧であった。
 「 雲浜は家計の事には、一切無頓着であったが、ある日の如きは、朝から口にする物とては 何一つなく、昼になってもまだ何も得られなかった。 親は忍ぶも、子供が可哀そうで堪(たま)らなかった。 予(かね)て自分の門人の 鳴尾順造 の依頼で、大日本史を写していたのが、数枚出来たので、それを届けると、金を二朱(しゅ)呉れたので、早速粥を作った。 子供は飛び上って喜ぶ。 その時は 雲浜も余程嬉しかったと見えて、後に姪(めい)の登美子に その時のことを語った。」 ( 「 勤王偉人 梅田雲浜 」 梅田 薫著より )

高雄山転居

 しかも 雲浜は、 嘉永四年の冬から病気になり、百日以上も 闘病生活を送ることになったので、貧苦は益々募った。 嘉永五年、三十八歳の春には、どうしても生計を維持することが困難になったので、諸色の高い京都市中を避けて 洛西高雄に引移った。 その住居は、荒廃し果てた一宇の小堂で、高雄村の共有に属し、雲浜の門人 山口某が住んでいたのを、一時 雲浜に譲ったものである。 三河の人 横田洗蔵(せんぞう) ・彦根藩士 武林(たけばやし)周助等も、これに従って高雄へ行った。 師が永く病の床について 講義を欠いても、見るも悲惨な貧苦に陥っても、不便な高雄の山に入っても、一旦信じた師を見捨てずに、何処までもついて行く心は 美しいものである。 雲浜は、そこで 以前習い覚えた医術を始めて活用して、細々と生計を立てた。 志士の中でも、最も貧苦であった雲浜は、これから後も 住居を転々と変えることになる。


浪人儒者となる

 雲浜は、これまで再三、藩主・酒井忠義に 藩政改革や海防強化の重要性を提言してきた。 しかし、これらが、藩政批判とみなされ、却って上を蔑(ないがしろ)にする不遜の所業(しょぎょう)として、藩主 及び 重臣等の 忌諱(きい)に触れ、嘉永五年(一八五二)七月、遂に士籍を剥奪された。 雲浜 時に三十八歳。 望楠軒の方は 昨年の病気から休んでいたが、これと共に 全くその任から去ることになった。 雲浜は、ここに一介の浪人の身となってしまった。
 そして、雲浜の放逐と同時に、実弟で 矢部家の当主であった 三五郎、及び 叔父の 矢部弘介義路は 謹慎を命ぜられ、門人 行方百太郎は 譴責並に、弟の 千三郎は 禁錮の処罰を受けた。 縁坐法によって 累一族に及ぶのは、当時の通例であるけれども、雲浜の心中は 頗る心苦しいものがあった。 雲浜の士籍を 剥奪する旨の通知は、矢部三五郎から、七月二十八日に 雲浜のもとに着した。
 雲浜は 八月一日、高尾を去って、比叡山の麓にある 一乗寺村へ転居した。 雲浜は、八月三日付で 三五郎へ出した手紙の中で  「 ・・・・・固より覚悟のことであるが、実に以て 恐れ入り候次第、御国之為、長大息に堪えない。 古今和漢、衰世(すいせい)にて 言路(げんろ)が塞った時には、珍しからざる事である。・・・・ 」  と、藩当局の固陋(ころう)頑冥(がんめい)な態度に、憤りと無念さを現している。 変転する時勢に対して、藩を善処させようとした雲浜の誠意が、却って仇となり、雲浜は 心ならずも 浪人の身になってしまったのである。
 その後、年月は定かではないが、雲浜は、藩主から見放された身となっても、なお 重役や知人に、天下の形勢を説くため、また自分のために罰を受けた人々を慰めるため、小浜へ帰った。 故郷には 親族や幼なじみ、知人も多い。 然るに そこには、 雲浜の憂国の至誠を知る者はなく、藩主や 重役に遠慮して、雲浜を快く迎える者はいなかった。 「 預言者故郷に容れられず 」 ということであろう。 雲浜は慨然として 次の歌を詠んだ。
      
      かへりきて 草のみわれを しりがおに
                    こぼれかかれる 露のふるさと


一条寺村転居

 雲浜等親子三人は、高雄村に万事不自由がちに 細々と暮していたが、何しろ、この地はあまりにも辺鄙(へんぴ)で 不便であった。 そこで、嘉永五年八月一日、高雄より 比叡山の麓にある 洛北 一条寺村 に移り、葉山の観音堂( 一燈(とう)寺 )境内の一茅屋( 堂守小屋 )を借りて、そこに住むことにした。 ここは、あたりに人家も無く、淋しい山の麓である。 この一条寺村は、石川丈山(じょうざん) 閑居の 詩仙堂(しせんどう) があることで知られている。 石川丈山は、家康に仕え 武勇高かったが、大坂夏の陣で 軍令に背いて 先駆けしたことで咎めを受け、後に武士をやめた。 詩仙堂は 丈山が 寛永十八年( 一六四一 )に造営し、九十歳で没するまでの 三十一年間隠棲した庵である。
 雲浜は、小浜の行方兄弟に与えた八月十日付の書翰の中で、 「 ・・・彼( 丈山の事 )ハ 先登( 抜駆けの事実 )ニヨッテ放ナタレ。 是( 雲浜の事 )ハ 直言( 建白書事件 ) ニヨッテ放タル。・・・・・ 」  と述べている。
 雲浜は、この石川丈山閑居の地に 隠栖の所を見出し、丈山と自己の今の境遇の似ている点をしみじみと思い、しばらくは、ここで風月を友として暮そうという気になった。 しかし、胸中に満ちる憂国の至情は、何時までも彼をこのような僻地に 隠棲させることを許さなかった。
      
      たとへ身は いづくの里に くらすとも
                   赤き心は いかでおとらむ

 というのが、彼の偽らない心境であった。

          

          
              石川丈山 閑居の 詩仙堂 ( 2009.12.25 )


信子の家計上の努力

 然しこの一乗寺村閑居と云い、先の高雄村転居と云い、それによって 信子の家計上の苦労は 決して軽減されることはなかった。 雲浜は、毎日大方を書見に過し、時には訪客があると、よく酒を飲み、酔えば国事を論じ、興にのれば、 「 楠公父子訣別 」( 浅見絅斎の作ったもの) の謡曲などを大声で朗吟した。 特に 一乗寺村に転居してからは、訪問客は、毎日のようにあった。 こうした雲浜自適の生活の蔭で、信子は 仕立物をなし、或は 村の子供には手習、娘には裁縫などを教えて、懸命に生計を助けた。 雲浜は、始終貧乏であったが、この一乗寺村時代の困窮は 格別であった。 この時の信子さんの和歌にいう。

          拾ふ木葉
      樵(こ)りおきし 軒のつま木も たきはてゝ
                    拾ふ木の葉の つもる間ぞなき
   
          題知らず
      事足らぬ 住居(すまい)なれども 住まれけり
                    われをなぐさむ 君あればこそ

 このような貧苦の中にも、この年、嘉永五年、長男繁(しげ)太郎が生れ、雲浜夫婦の喜びは深いものがあった。

                                つづく 次回


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