日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー157  『水戸史学』掲載  「天領日田の一風景」 ・三絶僧・平野五岳と明治維新-3

2011-06-28 01:16:52 | 幕末維新

名と功とを争わず

 明治も初年の戊辰戦争から十年の西南戦争までの間は、国内各地に騒乱が頻発した。 特に明治二年の凶作は、全国各地に百姓一揆を捲き起こし、その数は幕末よりも多かった。 日田でも、明治三年十一月、過去最大規模の大一揆が発生して、官舎・庄屋・豪商などが襲われた。 加えて不平士族等を中心とする反乱、長州諸隊の反乱・久留米藩難・佐賀の乱・熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが、九州地域とその周辺で頻発した。 そしてその最大のものが西南戦争であった。

 明治九年十月十一日、五岳は鹿児島に向った。 この時、大久保利通から、西郷隆盛説得の内命を帯びていたと言われる。 これは大久保の西郷説得に賭(か) けた最後の使者であった。 但し、五岳にとっては、十一月十日に行われる鹿児島東本願寺別院の開業式に出る事が表向きの主目的であった。

 西郷は豪放磊落(ごうほうらいらく) な大丈夫であった。 特に沖永良部(おきのえらぶ) に流罪中には、逆境に処して静かに書を読み、書を習い、詩を作り、また思索して人間的に大いに成長を遂げた。 その為、詩境は大いに昂進(こうしん) し、また、隠逸(いんいつ) の思想 (俗世間から離れて、静かに暮らす隠遁(いんとん) の思い) と、モットーとして、「敬天愛人」、「正直」を 持つようになった。
 さらに、私利私欲も無く、戊辰戦争に勝利して維新なるや、功名に走る世相を快く思わず、一時鹿児島に帰っていた事もある。 そして、明治六年のいわゆる征韓論政変後にも下野して故郷に戻っていた。
 五岳はこのような西郷を、他の誰よりも敬愛し、交遊し、西郷敬慕の詩も多く作った。 そして、大久保もこのような五岳なればこそ、説得を依頼したのだろう。

 五岳と西郷の交遊、及び 五岳の鹿児島行の顛末(てんまつ) に関しては、河内昭圓氏が 『平野五岳詩選訳注』 の中で次のように述べている。 (筆者の意訳・要約)

    両者の交遊は少なくとも文久二年(一八六二 )冬以前あたりから、京都で始まったと思われる。 また、維新後も、西郷が日田に立
   寄った時 (多分、明治三年七月の福岡藩贋札事件斡旋の折)、専念寺で互に酒を酌み交わしながら半日を過ごしている。
    一方、明治九年の鹿児島での五岳と西郷との接触に関しては、近頃迄全く不明で、多分会えなかったであろうと言われて来たが、
   近年発見された五岳の西郷を描いた肖像画や 詩 「鹿児城中(ろくじじょうちゅう) 累月(るいげつ) 留(とど) まる。 杯(さかずき)
   を把(と) りて日日(にちにち) 桜洲(おうしゅう) に対(たい) す。・・・」
(原漢文) 等 から推測するに、五岳は西郷に会い、二ヶ月
   程鹿児島に留まっていたらしい。 なお、詩中、「鹿児城中(ろくじじょうちゅう) 」 とは 鹿児島市内。 「累月(るいげつ) 」 とは 多くの月
   をかさねる。 幾月も 桜洲(おうしゅう) 」 とは 桜島である。

 右に言われているように、両者の交遊が文久二年冬以前あたりから、京都で始まったとして、現時点までに明らかになっている五岳の 「年譜」 等を 活用するならば、交遊の始まりは、安政四、五年あたりであろうと思われる。 西郷が 主君 島津斉彬(なりあきら) の命を受け、将軍継嗣(けいし) に 一橋慶喜(よしのぶ) を推すべく奔走していた時期である。
 京都では、安政五年(一八五八)九月七日、梅田雲浜(うんぴん) が 逮捕されて安政の大獄が始まった。 七月末に上洛していた五岳は、九月六日、京都からの帰路に大坂の広瀬旭荘を訪い、七日に大坂を発して帰国した。
 一方、西郷は九月二十四日、幕府に追われる僧月照を保護して大坂を発し、鹿児島に向った。 そして、月照と死別後、幕府の追及から身を隠す為に、奄美大島に潜伏した。 その後、文久二年(一八六二)三月に一時上洛したが、それも束の間、沖永良部島に遠島処分になった。 そして、上洛出来たのは、元治元年(一八六四)三月になってからである。

 やがて 明治十年二月十七日、「今般政府へ尋問の筋これ有り」 と、西郷は兵を率いて鹿児島を進発 (先鋒は十四日に進発)。 九月二十四日の城山(鹿児島市 )での西郷自刃までの八ヵ月におよぶ西南戦争が始まった。 なかでも、薩軍一万三千名と、谷干城(たてき) 少将以下三千五百余名の 熊本籠城軍の間での熊本城攻防戦は激烈で、二月二十二日から 四月十五日の薩軍の退却まで続き、城下の大半が焼失した。

 五岳は六月に、大谷法主 厳如(げんにょ) 上人に随行して肥筑豊の戦跡を慰問。 その時、熊本の戦跡を訪れて詠んだのが、次の 「熊本城下作(じょうかのさく) 」 (原漢文) である。 これは 五岳の多くの詩の中で、「夢に富岳(ふがく) に登る」、「明智左馬介(あけちさまのすけ) 湖水(こすい) を渡(わた) るの図に題す」 と供に、五岳の三長詩の一つとして 特に有名である。

    四面(しめん) 皆(みな) 賊(ぞく) 簇(むら) がって雲に似(に) たり。
   城は雲中(うんちゅう)に在って 級々(きゅうきゅう)として分(わか)る。
   満目(まんもく) 今日(こんにち) 真(しん) に火(ひ) の国。 
   市廛(してん) 邨落(そんらく) 一時(いちじ) に焚(や) かる。
   城兵は魚の釜中(ふちゅう) に在るが如きも。 
   城将の心は 泰山(たいざん) の安(やす) きに居(お) る。
   ・・・・・・
   嗚呼(ああ) 日本国中 已(すで) に城無し。 
   唯(ただ) 此の城のみ有りて 賊氛(ぞくふん) を遮(さえぎ) る。
   城を守る者は誰ぞ 谷少将。 
   城を築(きず) く者は 是(これ) 当年の鬼将軍(おにしょうぐん)。
       丁丑(ひのとうし) 夏日熊本城下の作


 ※鬼将軍=朝鮮戦役で勇名を馳せ、鬼将軍と恐れられた加藤清正。

 現在、熊本城内の月見楼跡に建てられている谷干城(たてき) 少将の銅像の台座の前面には、五岳の書体で この詩が刻まれ、そして背面の碑文には、

   「 明治十年二月二十二日、西郷隆盛大挙来リテ本城ヲ囲ム。 鎮台司令長官谷少将、寡兵ヲ以テ堅守スルコト五旬、
   ソノ情景ハ僧五岳ノ詩ニ躍如タリ・・・。」

と、書き込まれている。

          

          「熊本城下の作」
           五岳上人 書


 なお、谷干城(たてき) 少将(一八三七~一九一一) は、崎門(きもん) (山崎闇斎(あんさい) 門下) の 谷秦山(たにじんざん) (一六六三~一七一八、土佐長岡郡八幡村生まれ) の 後裔(こうえい) である。 土佐藩政の確立期、名宰相(めいさいしょう) 野中兼山(のなかけんざん) は、「南学」 を 藩政の指導理念として数々の実績を重ねたが、晩年に失脚。 この為に、土佐から学者が国外へ四散、南学は空白の三十年を迎えたが、これを再興したのが谷秦山であった。
 秦山により土佐に植え付けられた闇斎の神儒学説は、「谷門(こくもん) の学派」 と呼ばれ、「東に水戸学、西に土佐秦山(じんざん) の学」 と称せられた。 そして秦山の子垣守(かきもり)、孫の真潮(ましお) と、子孫累代よくその学統を伝え、土佐勤皇の地盤を作った。

 ちなみに、山崎闇斎(一六一八~一六八二) の学統・崎門派は 土佐南学の一分派である。 闇斎は 晩年垂加(すいか) 神道を編み出し、滔々(とうとう) たる支那崇拝の儒学者の中にあって、卓然として日本主義的な新学風を樹立、そして、その影響の及ぶ所、或は 水戸尊王論の淵源(えんげん) となり、会津武士道の母胎となり、更に王政維新の志士の思想的背景となった。
 闇斎の門弟は 前後六千人に及び、その門流は、三宅観瀾(かんらん)、栗山潜鋒(くりやませんぽう) など、その一部は 水戸に仕えて大日本史の編修に協力、また、その主流は 京都もしくは 其の附近に在って、幕府に仕えず、諸侯に仕えず、困苦して学を講じ、以て王政復古の機会を待った。 闇斎の門人 浅見絅斎(けいさい)、その門下 若林強斎(きょうさい) などである。

 この西南戦争は、五岳にとっては、最も敬愛する西郷を失うと言う、明治維新に勝るとも劣らない大きな出来事であった。 しかるに、五岳はこの詩では西郷の軍を賊と言っている。 これは、戦争の大勢がすでに決していたその時、逆賊となった西郷に対して、格別の感情を抱いていた五岳に、害が及ぶことを懸念した為であろう。 五岳と松方や大久保との関係からも、また 直前の鹿児島行きの働きから考えても、その心配は無用であったろうが、時はまだ戦争の最中であった。

 五岳の行動には 理解し難い面が多くあり、現在でも不思議な人と評される場合がある。 それは、「五岳は常に名利(みょうり) に狂奔する時流に背を向けてきたのに、どうして功名を争うその時々の為政者達に迎合し、かつ交遊を続けていたのか、まして、策を労して、敬愛する西郷を政界から追い落し、これを討つような大久保たちと・・・」 というような類(たぐい) の疑問が多く感じられるからであろう。
 しかし、言えることは、五岳は信念を曲げてまで、権力者と交遊するような人間でない事は、その強固な人生観から見ても確かである。 一方、大久保のようなタイプの人物は、一般的には誤解され易く、また、世間には理解され難い面がある。
 さすれば、五岳は彼らには私利私欲が無い事を、既に見抜いていたとしか考えようが無い。 それには、信頼する松方の存在も大きかろうが、それにも増して、その人柄の滲み出た作品を介して、五岳は相手の本質を見抜いていたのだろう。 人の感情を動かすものは、やはり感情である。 五岳は作品に感情(心) を込めた。 そして、それに共鳴する者は、やはり同じような心の持ち主であったろう。


 明治六年十月の政変で、西郷・板垣・江藤等が下野(げや) した後に、政治の主導権を確立した大久保は、十一月内務省を設立して、そこに広範な内政・経済にわたる権限を集中させ、自らは内務卿に就任して 独裁体制を確立、政府主導の積極的な産業育成策(民業の奨励 )を目指した。
 この政策は西南戦争中も進められ、大久保が総裁、松方が副総裁で準備を進めて来た日本で最初の本格的な博覧会、第一回内国勧業博覧会 も、上野公園で予定通り(八月二十一日~十一月三十日) 開催され、期間中に四十五万四千人を集め大成功を収めた。 これは、ウィーン万国博に学び、産業育成と輸出振興を目指して、大久保が力を入れて開催した国家的なイベントであった。

 翌明治十一年二月、大久保内務卿から、この年に古希(こき) (七十歳) を向えた五岳に、次のような祝詩(原漢文) が贈られて来た。 大久保は多忙な中にも、五岳が古希をむかえた事をしっかりと覚えていた。

   高年(こうねん) 自(みずか) ら許す 亀鶴(きかく) と同(とも) なるを。 
   瑞世(ずいせい) 誰か知らん 鳳麟(ほうりん) 有るを。
        明治十一年二月録して以て
        岳翁の七十の寿を祝す  甲東        


   (『五岳上人詩集』 五岳会発行)
〔通釈〕 七十歳を迎えた五岳翁は、亀や鶴のような長寿の仲間入りをしたと自認している ようであるが、現代の目出度い御代には
   聖人のいる象徴として鳳凰(ほうおう) や麒麟(きりん) が現れるということを誰が知っているであろうか。 五岳翁こそ聖僧であり
  鳳麟(ほうりん) の仲間というべきであろう。

          

         大久保利通 書 (專念寺蔵)
         五岳上人古希の祝に大久保公より贈られた

 しかし、その大久保は 同年五月十四日、麹町(こうじまち) の紀尾井坂(きおいざか) (東京 )で暴漢に襲われ、あえなくも その十七年間の政治生涯と、四十九歳 (満四十七歳 )の生涯を閉じてしまった。
 大久保は暗殺される日の早朝、大久保邸に立寄った 福島県權令(ごんれい)山吉盛典(やまよしもりのり) に次のように語った。 暗殺される一時間前の事である。

   「明治元年から この十年の日本は、ゼロからの出発であり、なにもかも最初からで、しかも兵事が多く、創業の時代であった。 
   これから先の十年は、内治をととのえ民産を興す、すなわち建設の時代で、これは不肖私の尽すべき仕事である。 さらにそれから先
   の十年は、優秀な後輩があとを継いで、明治の日本を大きく発展させてくれるだろう」 (『大久保利通文書』第九所収 「済世遺言」 )。

 大久保は、創業の十年を西南戦争で締めくくり、建設の時代を第一回内国勧業博覧会で開始していた。

 大久保を襲った犯人達 (石川県士族島田一郎以下六名) は、裁判所に差出した理由書に、 「大久保は、自分自身の出世と利益を図って、国民を苦しめて来た。」 と 書いたが、後に それが大きな誤解であったことが分かり、深く不明をわびて刑に服したという。
 大久保の死後に判明した事は、彼の葬式をするにも 家に現金が無く、しかも、財産を整理したら、八千円からの借金だらけとなり、夫人は途方に暮れたという。 そして、その夫人も悲しみのあまり 半年後に病死している。 
 大久保は私生活に於ても清潔で、公務にまで私財を投じていたのである。 しかも、彼のモットーは 「為政清明(いせいせいめい) 」、つまり、政治は清潔で包み隠しがあってはならないと言う事であった。


 西南戦争の最中の明治十年五月、木戸孝允 (四十五歳) が京都で病死、九月には西郷 (五十一歳)、そして 翌明治十一年五月には 大久保 (四十九歳) が亡くなった。
 木戸は 私費を投じて、維新を待たずに非命に斃れた志士達を 霊山(りょうぜん) (京都・東山) に葬り、自らも遺言して この地に葬られた。 西郷は 児孫(じそん) の為に美田(びでん) を買わず。 また、大久保は 公務にも私財を投じた。
 維新の成就は、有名無名を問わず、国家の為に役立ちたいと願う多くの人々の無私の献身に与(あずか) るところが大きい。 維新の三傑と称される彼らは、幕末の動乱に生き残った者達が、今を時めく高官となり、己の栄達を争う有様を見るにつけ、維新を待たずに 非命に斃(たお) れた者たちに対し、非常に申訳なく思っていた。 これ、彼らが五岳の人柄とその作品を愛した所以であり、五岳が彼らとの交遊を続けた所以でもあるまいか。


                  つづく 次回

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