【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-71 田中河内介・その70 (寺田屋事件ー59)
【 清河八郎の事ー15 】
慶永は松平主税助の 「 浪士を集めて一隊となし、粗暴な振舞いに走らせまいとする 」 献策を受けた。 それに続いて八郎の上書 「 急務三策 」 があった。 その上書中の 「 天下の英材を教育す 」 に示された案は、主税助の献策を具体的にするものであった。
この具体案を用いると、浪士を以て一隊を作るのも 左程難しいことではないであろう。 しかもこれを将軍の警衛として、京都の浪士に差し向ければ、彼らを制圧する事もできるし、浪士がいなくなるから 江戸は静かになるに違いない。 松平春嶽が浪士の一隊を作ることに賛成したのは、こういう結論に達したからである。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-70 田中河内介・その69 (寺田屋事件ー58)
【 清河八郎の事ー14 】
(頼三樹三郎 『 絶命詩 』 余録ー2)
「 悪謀の四天王 」 の一人と見なされ、処刑された 頼三樹三郎の 有名な辞世の詩 『 獄中作 』 は、三樹の 『 絶命詩 』 として、大橋訥庵(とつあん) が、小塚原 回向院 の境内、三樹の墓碑裏面に 刻したものである。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-69 田中河内介・その68 (寺田屋事件ー57)
【 清河八郎の事ー13 】
安政の大獄で、井伊側から梁川星巖、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内陶所(通称は大学)は、「悪謀の四天王」と見なされた。その四天王の最期はそれぞれに異なったものとなった。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-68 田中河内介・その67 (寺田屋事件ー56)
【 清河八郎の事ー12 】
(吉田松陰 『 留魂録 』 余録)
身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士(もうし)
吉田松蔭が 処刑の二日前から書き始めた遺書 「 留魂録(りゅうこんろく) 」の冒頭である。 これは塾生などに宛てたもので、取り調べの様子や松蔭の気持ちが静かに語られている。 家族を思い、国の将来を考えて、冷静な気持ちで書かかれている。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-67 田中河内介・その66 (寺田屋事件ー55)
【 清河八郎の事ー11 】
(千住小塚原ー下)
安政の大獄で殺戮された人材のうち、最も惜しまれるのは、橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰であろう。 三人とも江戸伝馬町獄舎内で斬刑に処せられ、遺体は千住小塚原回向院に葬られた。 小塚原との係わりをこの三人の最期の状況を例に述べて見よう。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-66 田中河内介・その65 (寺田屋事件ー54)
【 清河八郎の事ー10 】
(千住小塚原ー中)
小塚原回向院に埋葬された人びとの大半は重罪者の死骸である。しかし、幕末になると、多くの志士たちが政治犯としてここに葬られた。 何故幕末維新の志士たちはここに葬られるようになったのか。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-65 田中河内介・その64 (寺田屋事件ー53)
【 清河八郎の事ー9 】
(千住小塚原ー上)
千住小塚原の刑場には 徳川幕府初期に開設されて 明治初年に廃止されるまでに、二十万人余がうち捨てられたといわれている。 また この地は、明和八年、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵等が 刑屍の腑分(ふわ) け ( 解剖 ) を見たことが契機となり、それが解体新書の大成に繋がったことでも有名である。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-64 田中河内介・その63 (寺田屋事件ー52)
【 清河八郎の事ー8 】
八郎は松平慶永に再び上書した。
その建白書の冒頭に言う、
『 臣聞く 国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり、 其の将に亡びんとするや、必ず此の機会を失う・・・・ 機会は勢なり。 勢の至るは、至るの日に至るに非ず、必ずや漸積して然るのみ。 故に勢至るの日は、方に機会 既に極まるの時、一日之を失へば必ず他人の有となる、深く察せざる可からざるなり。 ・・・・故に敢(あえ) て當今の急務三事を陳ぶ。 』
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-63 田中河内介・その62 (寺田屋事件ー51)
【 清河八郎の事ー7 】
山岡と間崎は早速八郎の意を受けて、まず罪を国事に得た志士たちを大赦させようと動いた。 二人の努力もあって、情勢は次第に好転したが、まだ完全ではなかった。
江戸に出た八郎は山岡や松岡、間崎と打ち合わせを繰り返し、常人では考付かないような大きな策を決行することにした。 それは島津久光が実行した卒兵上洛、卒兵出府とよく似たことを江戸でやろうというのである。 八郎は再び松平慶永にあてた上書を執筆し、これを山岡・間崎に托し、自分は水戸に戻って吉報を待つことにした。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-62 田中河内介・その61 (寺田屋事件ー50)
【 清河八郎の事ー6 】
八郎の脳中からつねに離れることのない苦悩は、獄中にある同志のことであった。
かくて八郎は、幕府を動かして 罪を国事に得た志士たちを 大赦せしめねばならぬと考え、松平春嶽に上書した。 八郎が上書を書き始めた 閏八月の上旬、八郎の最愛の妻 お蓮が庄内藩の牢中で死んだ(毒殺されたといわれる)。二十四歳であった。 八郎の無礼人斬りに連座して、無実の罪で牢中に囚われていた蓮のことを思うと 八郎の心は張り裂けんばかりであった。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-61 田中河内介・その60 (寺田屋事件ー49)
【 清河八郎の事ー5 】
寺田屋事件、勅使大原重徳の関東下向などが効を奏して、井伊直弼時代の派閥は一掃され、政局は一変、世の中は転換期に入った。 西国有志を糾合した京都義挙に失敗した清河八郎は、今度は東北有志の糾合による関東再挙を目指す。 それは常人では考えられない、とてつもなく大きな策の実行である。
藩の後ろ盾も、何の背景となる勢力もなしに、単身よく水戸・仙台・京都・九州を遊説して、多くの志士を動かし、かつ結びつけた力と情熱は凡人では到底不可能な事である。
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