日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー158  『水戸史学』掲載  「天領日田の一風景」 ・三絶僧・平野五岳と明治維新-4

2011-06-28 16:28:24 | 幕末維新
幽谷もまた春風
   そろそろござれ後の連中

  「王師(おうし) 東伐(とうばつ) 又 征西(せいせい) 烟塵(えんじん) を掃蕩(そうとう) して 天地(てんち) 清し・・・」。  これは明治十二年の新年に五岳が作った詩 (原漢文) の一部である。 西南戦争が終って、明治も 「建設の時代」 に入る。 そしてこの期間に、近代日本の進むべき方向が決定されるのである。

 しかし、何と言っても、五岳の悲しみは 最も敬愛する西郷を喪(うしな) った事である。 西郷落命後の五岳は 大酒を飲むようになり、また、西郷欽慕(きんぼ) の詩も多く作った。 そして、それには、ストレートにそれと知られないような工夫を凝らした。 例えば、次のような詩(歳寒の句)がある(原漢文)。

    宛然磊落(えんぜんらいらく) たる 大(だい) 男児。
   曾(かっ) て秦官(しんかん) を受く 彼(かれ) も一時(ひととき)。
   只(ただ) 恐(おそ) る 人々棟梁(とうりょう) の質(しつ) を知るを。 
   青山(せいざん) 深く護(まも) る 歳寒(さいかん) の姿。


(『五岳上人詩集』・昭和六十年、五岳会発行)
〔通釈〕 ここに一人の大男児がいる。 彼はさながら小事にこだわらぬ大きな心をもち、かって秦(しん) の役人となったのは一時的であり、
  野に下り秘かに過ごしている。 ただ恐れているのは 人々から国家の重要人物と知られ、担ぎ出されることである。 早くから 青く
  樹木の茂る山を深く守り、寒い冬がきて多くの樹々が落葉したとき、ひとり松柏が凋(しぼ) まないように 堅節を持し自分の道を守ってい
  る。
〔補〕 一人の偉丈夫を仮定し、隠逸(いんいつ) 生活の中に高節を堅持している姿を詠じた自画像である。 ただ 「棟梁(とうりょう) の質」 を
  持ち出したので、「曾(かっ) て秦官(しんかん) を受く」 と他人の事としている。 五岳は長三洲を通じ要人に推されて辞退した経緯もあっ
  た。 歳寒の句には深く己の財を蔵しつつんでいたことを思わせる。

とあるが、おそらくこの句は、西郷の生前の姿を重ねたものであろう。

          

          「宛然磊落たる・・・」
          五岳上人 画賛 82歳の作


 松方は 明治十一年二月、パリ万博の副総裁として事務取扱を命じられ、初めての外遊としてフランスへ派遣されていたので、大久保が暗殺された時には、日本にはいなかった。 翌明治十二年三月に帰国した松方は、明治十三年に内務卿に就任して、大久保の産業育成策を踏襲した。 そして、明治十四年に上野公園で開かれた 第二回内国勧業博覧会 (三月一日~六月三十日)には、副総裁として事務を統括した。
 五岳(七十三歳)は、この博覧会に 南画 「山水」 を出品、二等妙技賞(みょうぎしょう) を受賞した。 ところが 五岳が知らないうちに、五岳の書いた 「熊本城下作」 の書を、中尾松塢(しょうう) が額装して出品していた。
 熊本城攻防戦を詠んだこの詩は、真に迫るものがあり、入場したかっての西南の役従軍兵士達を感激させ、その前は 人だかりとなり、中には感涙にむせぶ者、口々にこれを吟じる者さえ出た。
 この為、それまで作詩に対する賞は無かったが、審査官は特別に上人に作詩賞を、また松塢(しょうう) には 特別に賞を与えた。 この事で 五岳は 画家以外に、漢詩人、また書家としてもその名が全国に知られ、三絶僧と呼ばれるようになった。

 また、この事が起縁で、翌明治十五年には、十名の兵士達 (多分熊本鎮台関係者) が、それぞれに五岳を訪れ、潤筆料を払って書画の揮毫を頼んでいる。
 そして、明治十六年九月二十八日には、時の熊本鎮台司令長官谷干城少将が、耶馬溪を経て専念寺に上人を訪ね、次のような一詩 (原漢文) を賦し、それを揮毫して残した。

   久しく聞く 耶馬(やば) の勝(しょう)。 又聴(き)く 老僧の名。
   一見すれば共に雙絶(そうぜつ)。 世人(せじん)誰か肯(あえ) て争(あらそ) わん。
                                   耶馬溪を経て遂に五岳上人を訪う  干城


          

          谷 干城 書 (專念寺蔵)
          五岳上人を訪れた時の詩


 さらに、明治二十年十二月には、明治・大正期の日本を代表する書道の大家、日下部鳴鶴(くさかべめいかく) (一八三八~一九二二、彦根藩士の次男) も 上人を訪ねて一詩を賦し、これを揮毫して五岳に贈り、これに対し五岳も 二詩を賦し鳴鶴に呈している。

 五岳は中央政府への出仕を断わり、郷里を離れなかったが、他の要請には応え、一地方の南画家が、広く世の中に認められて三絶僧と言われ、又、その名声・徳望を慕って多くの人の訪れるところとなった。
 又、五岳の人柄の表れた作品は、人の心を動かし、時代によらず、身分や地位による障壁を突き崩し、政府高官をはじめとして、様々な人々と交遊する場をつくり出して来た。 感情の込められた作品の力が、如何に大きいかを示す例とも言える。

 感情を刺激するものは、やはり感情の力である。 赤裸々な感情の表明として、歌や漢詩、あるいは 名文ー韻文 の働きは重要であるが、ここにおいて、画(南画) も又、志操伝播の有力な手段となり得る事が分かる。
 まさに、 「名(な) と功(こう) とを争(あらそ) わず。 鳥喬木(きょうぼく) に遷(うつ) りて後、幽谷もまた春風」 である。 これも明治という御世の賜物と言えようか。
 明治政府が維新を成功に導いた要因は、「維新政府には 言路を洞開(どうかい) する意欲があり、有為の人材を要路にひき、その人材に充分に 才腕を揮(ふる) わせるべく、そのための封建的な障害に大鉈(おおなた) をふるい得たことである。 たとえば、版籍奉還・廃藩置県など。・・・」 (『明治維新の源流』 安藤英男著) と言われている。 また、維新政府が産業の育成と同時に、伝統文化の育成に力を入れた事も、その要因の一つとなろう。


 次に、五岳の作品と人柄について少し触れる。 人の心を動かすものは、やはり心である。 三十八歳の詩(原漢文) 中で、五岳は

   「・・・夫れ画は心を以て画くべし、手を以て画くべからず。 心を以て観るべし、目を以て観るべからず。
   手を以て画き、目を以て観れば、則ち但其の形を得るのみ。 心を以て画き、心を以て観れば、則ち能く其の精を得
   と。・・・

と画を論じている。

 一方、五岳の詩には、時勢を詠じたものも多く、それを直接、又は風諭しつつ、世情を憂い自然を称え、自分も清廉潔白な人物に倣(なら) いたいものだとも言い、様々であるが、最後には読む人を、笑いにさそうようなユーモアもある。
 さらに、山水画などに賛として書かれた詩文の多くは、画 (視覚) との相乗効果で、その訴える力を増している。 そして、そこに展開する山水画の世界は、激動の時代を生きて来た五岳が、求め続けた癒しの世界そのものでもあった。

 「我が好きは、酒と肴(さかな) と碁と相撲、金と女は言うまでもなし。」 これは五岳戯作の狂歌で、五岳の特技とその豪放磊落な人間性がよく表現されているという。
 酒好きの五岳に対し、松方は、知事時代に長崎から酒を贈り、また、五岳八十一歳(明治二十一年) の画の返礼に、「灘の酒一樽」 を神戸から送り届けさせたりした。

 また、五岳には多くの逸話がある。 次ぎはその一例である。
   ある時学友達が、カニか、ガニかで喧々顎々(けんけんがくがく) の論争をしていた。 決着がつかないので五岳の所に聞きに来た所、
   五岳は絵筆を取って、岡の上と、水の中にカニの絵を描いた。 学友達がその意味する所を尋ねると、「岡の上がカニ、水の中は、水
   をかき混ぜて濁らすから濁って呼ぶからガニ」 と答えたと言う。 (『三絶僧 平野五岳』 中野 範 著)

 また、近くの豆腐屋(とうふや) に五岳の書画の贋物(がんぶつ) を巧に描く者がいたが、五岳はその者の願いを入れて、偽物に本物の五岳の印章を押してやったり、印章を貸してやったりした。 世間ではその豆腐屋を 豆腐屋五岳 と呼んだ。 他にも五岳の贋物作品は非常に多い。 しかし、五岳は言う 「見る人が見れば、本物と偽物の区別位はつくものだ」 と。
 五岳はその洒脱さと、人なつこい性格などから、「東の良寛、西の五岳」 とも言われ、貴賎貧富を問わず巾広い人々から慕われた。 そして、乞われるままに多くの書画をかいた。


 明治二十五年の秋、五岳は突発した中風のため半身不随となったが、詩作は続けた。 そして、翌明治二十六年二月には危篤に陥いる。 しかし、西光寺の僧雪叟(せきそう) の見舞いを受けた時、一時蘇生して、五岳は詠む。

   邪魔(じゃま) になる 自力(じりき) を捨てて今ははや 弥陀(みだ) の御台のたのもしき哉 
また、
   出かけては また立ち返(かえ) る 時雨(しぐれ) 哉
 
 そして、三月三日、
   いざ西へ向かいて先に出かけ候(そうろう) そろそろござれ 後(あと) の連中(れんちゅう)

という辞世を残し、家族や友人達に温かく見守られながら旅立った。 八十五歳の眠るような大往生であった。 死に臨んでも、ユーモアーを忘れなかった五岳上人は、さすがに 「詩(死)に上手」 である。 そして、これ等の垂死(すいし) の句は、自分の信じる道を貫いた五岳上人が、満足の気持を表わした言葉でもあったろう。
 葬儀は竹田川原(たけだごうら) の広場で行われ、参列者の列は専念寺から式場までの道に切れ間なく続き、その数は師の淡窓先生の時よりも多かったという。


 上人逝って六年後、明治三十二年(一八九九) 一月、当時熊本第五高等学校の教授で、上人の詩の愛好者でもあった夏目漱石(なつめそうせき) (一八六七~一九一六) が、雪の降る日、耶馬渓より守実(もりざね) 峠を超えて日田に入り、故五岳上人を専念寺に訪ねている。

   吹きまくる雪の下なり日田の町
               漱石

 現在専念寺には、五岳上人の銅像や 「人世貴無事・・・」 の詩碑などと共に、漱石の上人を偲(しの) んだ次のような句碑が黙して建っている。

     五岳上人を偲び
    詩僧死して 只(ただ) 凩(こがらし) の 里なりき
                          漱石

 なお、親友の長三洲は、明治四年、学制取調掛に任ぜられ、明治学制の改革に尽力、咸宜園教育の精神を大いに生かした。 明治十年、知遇を得ていた木戸孝允が亡くなった為に一時退官したが、明治二十七年には東宮侍講(大正天皇) となった。 彼は書画及び和歌をよくしたが、書家としては特に名高く、明治天皇の書道の指導にも当った。 明治二十八年三月、六十三歳で没した。 実直で正義感の強い人であった。

 専念寺に 「一叢(いつそう) の古竹(こちく)  中に高僧有り・・・」 (原漢文) と、松方正義の賛詩(褒め称える詩) が書きつけられた 「五岳上人の肖像画」 (手島靖三作) が蔵されている。

          

          五岳上人肖像画 (60歳頃)
          松方正義 賛 手島靖三 画

 五岳の人柄と作品を愛した松方は、西南戦争後、悪政インフレと巨額の貿易赤字に悩み崩壊の淵に立った日本経済の危機を救い、日本を金本位制度に導き、近代経済発展の礎を築いた。 維新以降、有為の人材の多くは、軍事や政治部門に集まり、財政や経済部門には集まらなかったが、財政の天才とも言うべき松方が、明治政府の中枢に居たことは、我国にとって大変に幸運であった。
 松方は明治十四年以来、各内閣に大蔵卿または大蔵大臣として在職すること十年に及び、明治二十四年と二十九年には内閣を組織。 さらに、元老として、明治三十四年、日英同盟を推進した。 そして、大正十三年(一九二四)七月二日、九十歳で没した。
 松方をおくる国葬は三田の本邸斎場で質素に行われた。 彼は政治的野心を持たず、一貫して財政経済問題に取り組んだ。 なお、彼のモットーは 「正直」 と 「信義」 であった。 日田以来、松方と五岳は再び会う機会を持たなかった。

 上人逝って百数十年、現在でも日田では、その節目節目に、五岳上人の遺墨展などが開催されている。 喬木(きょうぼく) に遷(うつ) った人々に関する記憶は、次第に薄れて行くことがあっても、五岳上人の生き方と、その残した作品の数々は、これからも、殺伐(さつばつ) とした時代に生きる人々の心に、温かく語りかけて行く事であろう。


おわりに 
  
     武士(もののふ) の 道さまたげの 花(はな) いばら
                     茂(しげ) りまされど 刈る人ぞなし

 
          

          伴林光平 書 (短冊)
          坊門清忠の事を歌った句

 これは、最初の倒幕挙兵、「天誅組(てんちゅうぐみ) の乱」 で国事に殉じた、歌人で国学者でもあった 伴林光平(ともばやしみつひら) (一八一三~一八六四、河内国志貴郡生れ) が、公卿の坊門清忠(ぼうもんきよただ) の事を詠ったものである。
 坊門の藤原清忠は、延元元年(一三三六)、百戦の名将 楠木正成(くすのきまさしげ) の献策を 一蹴(いっしゅう) した公卿で、為に正成は 兵庫湊川に覚悟の戦死を遂げた。
 光平は捕えられ、獄中にて 大和挙兵参加の顛末(てんまつ) を記録した 『 南山踏雲録(なんざんとううんろく) 』 を著した。 そして 元治元年二月、京都六角獄にて 同志と共に斬られた。  光平は 「刈る人」 たらんと立ち、そして斃れた。

 近代資本主義・民主主義・自由主義の弊害の行きつく先に向って、まっしぐらに突き進む日本。 日に日に人間関係は希薄に、拝金万能主義が蔓延、総衆愚化して国家の基本が忘れられて行く現在。 敗戦によって仕掛けられたこの破滅への仕組 (花いばら) を、取り除こうとする者は まだいない。 まさに 「 茂(しげ) りまされど 刈る人ぞなし 」 である。

 このように、日本人の襟度(きんど) と誇りが急速に失われ、都会の退廃と 地方の疲弊が進行する国の大事に、依然として、「 犬洋(けんよう) と親しむ 」 現代の世相を、激動期を、功利・功名や中央に背を向けて、信念を貫き通した五岳上人は、どのように見ているのだろうか。

 五岳上人、三十二歳(天保十一年) の画に題した詩 (原漢文) に言う。

    瀑泉(ばくせん) 声(こえ) 落つ 乱松(らんしょう) の間 (かん)、
   暮嶺(ぼれい) 雲還(かえ) り 鳥も亦(また) 還る。
   若(も) し斯(この) の心をして 斯(この) の裡(うち) に在(あ) らしめば、
   何ぞ城市(じょうし) の 深山(しんざん) ならざるを知らんや。

 
 様々な欲望の溢れる都会の喧騒(けんそう) に居ても、己が心に仙境を宿せば、深山幽谷に居るのと同じであると。

                  ―この項 大尾―


     『水戸史学』 (水戸史学会発行) 第七十四号(平成二十三年六月十五日発行) 掲載 
     『 天領日田の一風景 ―三絶僧・平野五岳と明治維新― 』  矢野宣行 著


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以下で掲載記事が見られます。
http://house-summit.com/common/pdf/mito.pdf





                          

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