【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-135 田中河内介・その134
( 出島物語ー46 ) 山崎闇斎の門弟のうち、崎門の三傑と称せられたのは、浅見絅斎・佐藤剛斎・三宅尚斎で、中でも浅見絅斎が最も有力であった。 闇斎の門流は、その一部は水戸に仕えて大日本史の編修に協力し、またその主流は京都もしくは其の附近に在って、幕府に仕えず、諸侯に仕えず、困苦して学を講じ、以て王政復古の機会を待ちました。 闇斎の門人浅見絅斎、その門下若林強斎などです。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-134 田中河内介・その133
( 出島物語ー45 ) 会津の学風・士風の形成に大きな影響を与えた闇斎であったが、保科正之の死は人生の一つの転換点となった。 その後は、現実の政治的世界との関わりを断ち、京都に腰を据えて家で子弟に教授、学問・思索に専心、死までの九年間、ひたすら古典に沈潜して自らの思想を鍛え上げていった。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-133 田中河内介・その132
( 出島物語ー44 ) 会津藩 「 家訓 」十五ヶ条に関する話。 先ず山崎闇斎がその草案を作り、正之の意見によって修正を加え、更に又闇斎の意見を徴するなど、反覆論議を繰り返して出来上がった。 会津藩では家訓を金科玉条として、二百年来、上下共に之を常に心に留め、且つ之を丁重に取り扱ったので、家訓の藩士の精神上に及ぼした影響は計り知れない程大きかった。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-132 田中河内介・その131
( 出島物語ー43 ) 山崎闇斎は、土佐で野中兼山らと共に南学を研究、京都に帰り学塾を開き、その門弟は六千といわれます。 四十八歳の時には、会津初代藩主 保科正之公に賓師として招聘され、会津藩の学問士風の形成に強い影響を与えました。 . . . 本文を読む