日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー156  『水戸史学』掲載  「天領日田の一風景」 ・三絶僧・平野五岳と明治維新-2

2011-06-27 16:50:14 | 幕末維新


人世無事を尊ぶ

 慶応三年(一八六七)十月十五日の大政奉還、十二月九日の王政復古の大号令を経て、徳川幕府はその二百六十余年の歴史を閉じた。 そして、翌慶応四年一月三日には鳥羽・伏見の戦いが勃発、一年半に及ぶ戊辰戦争が始まり、旧幕府の直轄領は 新政府直轄となって、そこに県府が置かれた。
 封建社会の崩壊は、当然幕府との関係が深かった日田や東本願寺、日田の豪商達の立場を一転させた。 そして、世の中に、没落する者、成り上がる者、名利に狂奔する者など様々を生み出した。 五岳の心境も複雑であったに違いない。

 四月二十五日、日田に県府が置かれ、六月十一日、初代県知事として、長崎裁判所から 松方助左衛門正義(すけざえもんまさよし) (当時三十四歳、一八三五~一九二四、元薩摩藩士。のち首相) が赴任して来た。
 日田県は 旧幕府の天領であった為、如何にして新政府に人心を引き付ける事が出来るかが、施政の最大のポイントであった。 長崎から松方が赴任するに当って、日田に暴徒が蜂起、近藩から鎮撫の兵が乗込んで来るという事態が発生。 松方の知人は、危害を避けるために 長崎の兵を伴って日田に赴くようにと忠告したが、松方は、自分には考えるところがあると言って、単身で乗込んだ。
 意表をつかれた日田の人々は 松方の行動を賞賛した。 さらに松方は、県の役人に土地の人材を広く採用する等、誠意をもって政治を行い、短期間に 人心を収攬(しゅうらん) することに成功した。 一方、五岳は 広瀬林外(りんがい) (一八三六~一八七四、旭荘の長子、淡窓の嗣子(しし)、咸宜園塾主) 等 数人と共に、この誠実な知事の 政治顧問となって活動することになった。

 成立当初の新政府には、収税の組織も 直轄する土地や人民もなかったので、倒幕や東北征討の軍資金、新制度移植に要する莫大な経費は、主に旧天領の年貢や富豪に対する御用金と 太政官札の発行によって調達されていた。 この年の九月に行われた明治天皇の東京行幸(実は遷都) に必要な旅費も、ようやく三井一家に依存して凌(しの) いだ程である。
 当然、松方の一番の任務は、新政府に必要な資金の調達(具体的には 十万両の借款(しゃっかん)、いわゆる掛屋(かけや) の 日田金(ひたがね) の吸収)となる。 「金借知事」と呼ばれた所以である。 旧幕府の天領であった日田県は 比較的裕福な地であった。 松方は、政府(知事)に対する信認を 取り付けることを重視し、自発的な拠出により 借款の調達を無事に成し遂げた。
 また、赴任当初より、堕胎や捨子対策等にも取り組み、自ら養育館(よういくかん) を創設して、育児事業に乗り出した。 まず私財を投じ 官民の寄付を募って基金を作り、種々の具体策を実施する等、日田の民生の安定にも 積極的に取り組んだ。
 一方、五岳は知事に日田の事をよく理解してもらう為に尽力し、知事も五岳に絶大な信頼を寄せるようになった。 ある時 知事は、友人に、日田での今の生活の様子を聞かれた時、「・・・例えつらいことがあっても、そこに五岳が居る限り、そんな事はつい忘れてしまう。 あの人は、実に不思議な人だよ。」 と言ったと言う。(『五岳上人さま』川津信雄 著 )

 明治二年、五岳は還暦を迎えた。 日頃から、五岳の画を見ると心がなごむと絶賛していた松方は、三月に会議のために 東京に向う折、五岳の画幅を持参し、大久保利通(一八三〇~一八七八) に贈り、五岳の優れた人柄を話した。
 その画幅は 激動する政治の渦中に居る大久保に、一服のくつろぎと新たな活力を与えたのだろう。 大久保は松方知事の帰任に際し、五岳への恵贈品と 五岳に大幅を描いてもらう為の 唐紙(とうし) (書画用に適す) 八枚包とを託した。 七月中旬に日田に帰りついた松方は、その画が出来上がると、早速それを東京の大久保に送った。

 この事がきっかけで、五岳は 松方知事の信望をより厚くし、大久保利通や木戸孝允(たかよし) (木戸も五岳の画を珍重した) 等の 明治の元勲たちとも 交流を持つようになり、その後も、彼らに度々書画を贈ることになった。 なお、五岳は 西郷隆盛とは 以前より交遊があった。 それまで一地方の南画家であった五岳は、ここに中央にも知られるようになったのである。
 また後に、五岳の画は 大久保卿等の手を経て、明治天皇にも献上された。 それは、明治九年四月十九日、明治天皇が 大久保利通邸に御臨幸の折、壁間の五岳の画幅を天皇がお気に召されたので、大久保は そのうちの二幅(明治八年に描いた大作) を 陛下に献上した。 この時、天皇は 大久保が申上げた功名心の無い高潔な五岳の人柄にも 好意を持たれたという。
 大久保が御臨幸に際し、五岳の画幅を撰んだ事も、それを天皇がお気に召された事も、それは、単に五岳の画が優れていたからという事よりも、画に滲(にじ) み出ている五岳の人柄のなせる事であったろう。 ちなみに この年は、三月に廃刀令が布告され、各地で反政府の反乱が頻発した年で、しかも、西南戦争の前年でもあった。

 明治三年十月、松方は、日田県知事としての業績と 大久保の推薦(すいせん) により、民部大丞(みんぶだいじょう) として中央政府に栄転した。 しかし、松方は どうしても、信頼する五岳を役人として東京に呼びたく思い、大久保に相談して五岳を推挙した。 そして明治四年、内閣諸公から再三にわたり、五岳に対し中央政府への出仕要請が来た。 また、親友の長三洲(ちょうさんしゅう) (三十九歳) も、別に、五岳に東上を勧めてきた。 なお、長三洲は 弘化二年、十三歳の時に咸宜園に入り、同門の第一才子と呼ばれた。 安政二年、大坂の広瀬旭荘の塾に 都講(とこう) (塾頭) として迎えられ、その後、尊攘の志士と交わり、長州奇兵隊に入隊、そして 元治元年 四国連合艦隊との馬関戦争で負傷した。 のち帰国して 父や弟と協力して同志を募ったが、日田代官から追われ、三洲は 父 梅外(ばいがい) と長州に逃れたが、弟で医者の春堂(しゅんどう) (一八三六~一八六六、咸宜園門人) は 捕われて 日田の獄中で病死した(三十一歳)。 三洲はその後、各地での倒幕戦に参加、木戸孝允(たかよし) の知遇(ちぐう) を得て、明治三年に新政府に出仕していた。

 五岳はこれ等の厚意を辞退するのに、次の詩(原漢文) を用いたと言われている。 なお、この詩は後に天聴にも達した。

   人世(じんせい) 無事(ぶじ) を貴(たっと) ぶ、 名(な) と功(こう) とを争(あらそ) わず。
   鳥(とり) 喬木(きょうぼく) に遷(うつ) りて後(のち)、 幽谷(ゆうこく) も亦(また) 春風(しゅんぷう)。


〔通釈〕人の世は、何事もなく過ごす日々が一番貴い。 とりわけ名声や功績などは争わない方がよい。 鳥が高い木に移り去るように、
  周りの者が皆偉くなって飛び立った後でも、春が廻(めぐ) って来れば、山奥の谷間にも暖かい風が吹きます。

          

          「人世無事を貴ぶ・・・」
          五岳上人 画賛 65歳の作

 大久保たちが 五岳を推挙した理由は、権力に媚(こ) びない 泰然自若とした頼り甲斐のある人柄に、大きな魅力を感じたからであろう。 そしてそれは 新政府成立当初の混乱期には、是非とも必要とされた人物ではなかったろうか。
 一方、五岳が東上を固辞した理由には、種々の要因が重なっているものと考えられる。 例えば、旧幕時代に対する想い入れもあったかも知れない。
 しかし、一つ言える事は、五岳は支那の古典を学び、道人・隠士の思想に強く引かれていた。 三、四十歳代の詩を見れば、既にその頃には、俗世間での名利を争わず、南画の世界に遊ぶという確固とした人生観・処世観を持っていた事が分かる。 そしてそれは、『孟子』 の中の一文 「富貴(ふうき) も淫(いん) すること能(あた) はず、 貧賤(ひんせん) も移すこと能はず、 威武(いぶ) も屈すること能はず。 此れを之れ大丈夫(だいじょうぶ) と謂ふ」 (原漢文) の如く、何物をもってしても 動かすことが出来なかったと言う事であろう。
 また、五岳の作品には山水画が多い。 詩中の幽谷とは、五岳にとっては日田の地であると同時に、山水画の中の世界(仙境) でもあったのだろう。
 さらに、この頃、別に五岳は 、「内務 外交 王事(おうじ) 紛(ふん) たり、 人材登用して 職相(あい) 分つ。 旧交 多く神京(しんきょう) に向かって去り、 独り空山に坐(ざ) して 白雲を見る。」 (原漢文) とも詠っている。 なお、詩中、「王事」 は 国事。 「神京」 は 東京。 「空山」 とは 人気の無い静かな山の事である。

 「人世無事・・・」 の詩は、五岳の確固とした信念に基づく人生観であり、自信でもあったろう。 おそらくこれは、師 淡窓の生き方に強く影響を受けたものであると思われる。 五岳は、師を讃(たた) えて詠じた詩 「広瀬淡窓先生の肖像に題す」 の中で、 「官途(かんと) 早(つと) に絶(た) つ 折腰(せつよう) の縁(えん)、 寵命(ちょうめい) 猶(な) お来(きた) る五柳(ごりゅう) の辺(へん)・・・」(原漢文)、つまり 「人にへりくだる様な仕官のみちは、早くから断ち切っておられたが、それでも、天子様の思し召しは、先生の所にもたらされた・・・」 と詠っている。
 淡窓は日田の地をほとんど離れなかったが、その門人は全国各地から集まり、咸宜園は近世最大の私塾となった。 また、多くの文人・墨客・名儒・名僧の来訪も絶えなかった。 中央に出なくても、魅力ある存在であれば、どんな片田舎に居ても、人は各地から集まって来る事を、淡窓は身を持って示したのである。


 明治五年十月、六十四歳の五岳に、オーストリアのウイーンで開かれる万国博覧会 (明治六年五月一日~十一月二日) への南画の出品依頼が、万国博覧会事務局から来た。 恐らく長三洲や松方、大久保、木戸などの推薦によるものと思われる。
 我国の海外の博覧会への参加は、慶応三年(一八六七) の パリ万国博 が最初で、この時、日本からは幕府も出品したが、薩摩藩も 「薩摩琉球国」 の名で参加した。 そして、明治政府が初めて参加したのが、このウイーンの万国博であった。
 万国博覧会は 世界中の国々が自国の文化や技術を発表し合う場である為、これに参加する事は、我国の事を世界中に知ってもらう絶好の機会となるので、政府は事務局を設けて参加の準備を進めた。
 そして、日本の伝統文化を紹介する部門の一つに南画の部が設けられ、五岳や 帆足杏雨(ほあしきょうう) (一八一〇~一八八四、豊後戸次(へつぎ) の人。 咸宜園門人。 南画家。 明治十七年没、七十五歳) に出品依頼が来た。 杏雨は 五岳より一歳年下であったが、南画の大家 田能村竹田(たのむらちくでん) の直弟子でもあり、五岳は杏雨を尊敬していた。
 その後、五岳は日田を訪れた杏雨と一緒に、以前にも共に遊んだ耶馬渓(やばけい) に行った。 そこは、五岳が 「我が師 耶馬渓山(やばけいさん)」 という詩の一節で「・・・南宗画の諸君、説(と) くことを休めよ、耶馬溪山は 是れ我が師なり。」 (原漢文)と、南画の師と仰ぐ地であった。
 そして万国博には、五岳は 「紅葉山水(こうようさんすい)耶馬渓(やばけい)の図」、杏雨は 「耶馬溪図」 を出品、共に画家としての名声を高めた。
 ところで、 「耶馬溪」 の名付け親は 頼山陽(らいさんよう) (一七八〇~一八三二) である。 山陽は 文政元年(一八一八)、豊後国の 山国(やまくに) 川の渓谷を訪れ、その絶景に感動して、これを耶馬渓(やばけい) と名付け、後に図巻に仕上げた。 この図巻の評判は 山陽の名声と共に全国に伝わった。
 また、山陽は耶馬渓を詩にし、文にした。 その紀行文 「耶馬溪図巻記(ずかんのき) 」 は、すばらしい名文であったので 大評判となり、それまで人に知られなかった九州の僻地(へきち) ・山国渓谷が 耶馬溪と言われて、一躍天下の名勝として世に喧伝(けんでん) され、やがて田能村竹田、梁川星巖(やながわせいがん) など、多くの文人墨客の訪れる処となった。

                   つづく 次回

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