日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー154  「 天領日田の一風景 ・2 」  三絶僧・平野五岳と明治維新-4

2011-03-30 17:41:09 | 幕末維新


   幽谷もまた春風

   そろそろござれ後の連中

  王師(おうし) 東伐(とうばつ) 又征西(せいせい)  烟塵(えんじん) を掃蕩(そうとう) して 天地(てんち) 清し・・・」。    これは明治十二年の新年に五岳が作った詩(原漢文)の一部である。 西南戦争が終って、明治も 「建設の時代」 に入る。 そしてこの期間に、近代日本の進む方向が決定される。

 しかし、何と言っても、五岳の悲しみは 敬愛する西郷を喪った事である。 西郷落命後の五岳は大酒を飲むようになり、また、しばらくは、西郷欽慕(きんぼ) の詩を作るのに、ストレートにそれと知られないような工夫を凝らした。 例えば、次のような詩(歳寒の句)がある(原漢文)。

   宛然(えんぜん) 磊落(らいらく) たる大(だい) 男児。 曾(かっ) て秦官(しんかん) を受く彼(かれ) も 一時(ひととき)。
   只(ただ) 恐(おそ) る人々棟梁の質を知るを。 青山(せいざん) 深く護(まも) る歳寒(さいかん) の姿。


 『五岳上人詩集』五岳会発行 による この詩の〔通釈〕は、以下の如くである。
 「〔通釈〕ここに一人の大男児がいる。 彼はさながら小事にこだわらぬ大きな心をもち、かって秦(しん) の役人となったのは一時的であり、野に下り秘かに過ごしている。 ただ恐れているのは 人々から国家の重要人物と知られ、担ぎ出されることである。 早くから青く樹木の茂る山を深く守り、寒い冬がきて多くの樹々が落葉したとき、ひとり松柏が凋(しぼ) まないように 堅節を持し自分の道を守っている。
 〔補〕一人の偉丈夫を仮定し、隠逸(いんいつ) 生活の中に高節を堅持している姿を詠じた自画像である。 ただ「棟梁(とうりょう) の質 を 持ち出したので、「曾(かっ) て秦官(しんかん) を受く」と 他人の事としている。 五岳は長三洲を通じ要人に推されて辞退した経緯もあった。 歳寒の句には深く己の財を蔵しつつんでいたことを思わせる。」

 おそらく この句は、西郷の事を重ねていると思われる。


 松方は 明治十一年二月、パリ万博の副総裁として事務取扱を命じられ、初めての外遊としてフランスへ派遣されていたので、大久保が暗殺された時には、日本にいなかった。 翌明治十二年三月に帰国した松方は、明治十三年に内務卿に就任して、大久保の産業育成策を踏襲した。 そして、明治十四年に東京上野で開かれた第二回内国勧業博覧会には、副総裁として事務を統括した。
 五岳(七十三歳)は、この博覧会に南画「山水」を出品、二等妙技賞(みょうぎしょう)を受賞した。 ところが五岳が知らないうちに、五岳の書いた「熊本城下作」の書を、中尾松塢(しょうう) が額装して出品していた。
 熊本城攻防戦を詠んだこの詩は、真に迫るものがあり、入場したかっての西南の役従軍兵士達を感激させ、その前は人だかりとなり、中には感涙にむせぶ者、口々にこれを吟じる者さえ出た。
 この為、それまで作詩に対する賞は無かったが、審査官は特別に上人に作詩賞を、また松塢(しょうう) には特別に賞を与えた。 この事で五岳は画家以外に、漢詩人、また書家としてもその名が全国に知られ、三絶僧と呼ばれるようになった

 またこの事が起縁で、翌明治十五年には、十名の兵士達(多分熊本鎮台関係者)が、それぞれ五岳を訪れ、潤筆料を拂って書画の揮毫を頼んでいる。 そして、明治十六年九月には、時の熊本鎮台司令長官谷干城少将が、耶馬溪を経て専念寺に上人を訪ね、次のような一詩(原漢文)を賦し、それを揮毫して残した。

   久しく聞く耶馬(やば)の勝(しょう)。 又聴(き)く老僧の名。
   一見すれば 共に雙絶(そうぜつ)。 世人(せじん) 誰か肯(あえ) て争(あらそ) わん。

              耶馬溪を経て遂に五岳上人を訪う  干城

 
 さらに、明治二十年十二月には、明治から大正にかけて、日本を代表する書道の大家、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)(四十九歳)も上人を訪ねて一詩を賦し、これを揮毫して五岳に贈り、これに対し五岳も二詩を賦し鳴鶴に呈している。

 ところで、維新政府が維新を成功に導いた要因は、「 維新政府には言路を洞開する意欲があり、有為の人材を要路にひき、その人材に充分に才腕を揮(ふる) わせる為に、封建的な障害に大鉈(おおなた) をふるい得た( 版籍奉還・廃藩置県など )ことである。」(『明治維新の源流』安藤英男 著 )と言われている。

 五岳は要請されても、中央には行かず 郷里を離れなかったが、新政府からの種々の要請に応える事で、広く世の中に認められて三絶僧と言われるまでになった。 そして、その名声・徳望を慕って多くの人の訪れるところとなった。 五岳は地位や肩書きではない真の功名を手にしたのである。
 まさに、「 鳥喬木(きょうぼく) に遷(うつ) りて後、幽谷もまた春風 」である。 これも明治という時代の賜物と言えようか。


 五岳は三十八歳の詩の中で、画を論じて、
   ・・・夫れ画は心を以て画くべし、手を以て画くべからず。 心を以て観るべし。 目を以て観るべからず。
   手を以て画き、目を以て観れば、則ち但其の形を得るのみ。 心を以て画き、心を以て観れば、則ち能く
   其の精を得と。・・・
」(原漢文)
と悟っている。
 人の感情を動かすものは、やはり感情である。 五岳は作品に心を込めた。 そして、それに共鳴する者は、やはり同じような心の持ち主であろう。

 五岳の詩には、その人柄がよく表れていて、読む人に共感を与えるものが多い。 また、時勢を詠じたものも多く、それを直接、又は風諭しつつ、世情を憂い、自然を称え、自分も 清廉潔白な人物に倣(なら) いたいものだとも言い、様々であるが、最後には読む人を、笑いにさそうようなユーモアもある。
 さらに、山水画などに賛として書かれた詩文は、画(視覚)との相乗効果で、その訴える力が一層効果的になる物が多い。 そして、そこに展開する閑雅な世界は、波瀾の時代を生きて来た五岳が 絶え間なく求め続けた癒しの世界でもあった。


  我が好きは、酒と肴(さかな) と碁と相撲、金と女は言うまでもなし。」  これは五岳戯作の狂歌で、五岳の特技とその豪放磊落な人間性がよく表現されているという。
 酒好きの五岳に対し、松方は、知事時代に長崎から酒を贈り、また、五岳八十一歳(明治二十一年)の画の返礼に、「灘の酒一樽」を 神戸から送り届けさせたりした。
 
 また、五岳には次のような逸話もある。

   「 ある時学友達が、カニか、ガニかで喧々顎々の論争をしていた。 決着がつかないので五岳の所に聞きに来たところ、
   五岳は絵筆を取って、岡の上と、水の中にカニの絵を描いた。 学友達がその意味する所を尋ねると、「岡の上がカニ、
   水の中は、水をかき混ぜて濁らすから濁って呼ぶからガニ」と答えたと言う。 」(『三絶僧 平野五岳』中野 範 著)

 五岳は、このような達観した洒脱さと、人なつこい性格などから、「 東の良寛、西の五岳 」 とも言われた。 また、貴賎貧富を問わず 巾広い人々から慕われ、乞われるままに多くの書画をかいた。
 また、近くの豆腐屋(とうふや) に 五岳の書画の贋物(がんぶつ) を巧に描く者がいたが、五岳はその者の願いを入れて、偽物に本物の五岳の印章を押してやったり、印章を貸してやったりした。 世間ではその豆腐屋を 豆腐屋五岳と呼んだが、他にも豆腐屋五岳の如き、五岳の贋物作品は非常に多い。 「 見る人が見れば、本物と偽物の区別位はつくものだ 」 と五岳は言う。


 明治二十五年の秋、五岳は突発した中風のため半身不随となったが、詩作は続けた。 そして、翌明治二十六年二月には危篤に陥ったが、西光寺の僧雪叟の見舞いを受けた時、一時蘇生。 五岳は詠む。

   邪魔(じゃま) になる自力(じりき) を捨てて今ははや、弥陀(みだ) の御台のたのもしき哉。
また、
   出かけてはまた立ち返(かえ) る時雨(しぐれ) 哉

そして、三月三日

   いざ西へ向かいて先に出かけ候(そうろう)、そろそろござれ後(あと) の連中(れんちゅう)。

という辞世を残し、家族や友人達に温かく見守られながら旅立った。 八十五歳の眠るような大往生であった。 死に臨んでも、ユーモアーを忘れなかった五岳さんは、さすがに「 詩(死)に上手 」であったと言える。 そして、この垂死の句こそ、五岳さんの到達した人生観であったろう。
 葬儀は 竹田川原(たけだごうら) の広場で行われ、参列者の列は専念寺から式場までの道に切れ間なく続き、その数は師の淡窓先生の時よりも多かったという。


 上人逝って六年後、明治三十二年(一八九九)一月、当時熊本第五高等学校の教授で漢詩人でもあった夏目漱石(なつめそうせき) ( 一八六七―一九一六、漱石も上人の詩を愛好した。)が、雪の降る日、耶馬渓より守実(もりざね)峠を超えて日田に入り、故五岳上人を専念寺に訪ねている。

   吹きまくる雪の下なり日田の町
                漱石

 
 現在専念寺には、五岳上人の銅像や 「 人世貴無事・・・」 の詩碑などと共に、漱石の上人を偲(しの) んだ 次のような句碑が黙して建っている。

      五岳上人を偲び
   詩僧死して 只(ただ) 凩(こがらし) の 里なりき
                      漱石


 なお、親友長三洲は、明治四年、学制取調掛に任ぜられ、明治国家の学校制度に、咸宜園教育の精神を大いに生かした。 そして明治十年、知遇を得ていた木戸孝允が亡くなった為、一時退官したが、明治二十七年には東宮侍講となった。
彼は書画 及び和歌をよくしたが、書家としては特に名高く、明治天皇の書道の指導にも当たった。 明治二十八年三月、六十三歳で没した。 実直で正義感の強い人であった

 五岳の人柄と作品を愛した松方正義は、日田を去って後、五岳と再び会う機会はなかった。
 維新以降、有為の人材の多くは、軍事や政治部門に集まり、財政や経済部門には集まらなかった。 その中で、財政の天才とも言うべき松方が、明治政府の中枢に居たことは、我国にとって大変幸運であった。 彼は 財政家として、西南戦争後、悪政インフレと巨額の貿易赤字に悩み崩壊の淵に立った日本経済の危機を救い、日本を金本位制度に導き、近代経済発展の礎を築いた。 
 松方は 明治十四年以来、各内閣に大蔵卿または大蔵大臣として在職すること十年に及び、明治二十四年と二十九年には内閣を組織、また、元老として日英同盟を推進した。
 大正十三年七月二日、九十歳で死去。 松方をおくる国葬は三田の本邸斎場で質素に行われた。 彼は 政治的野心を持たず、一貫して財政経済問題に取り組んだ。 「正直」と「信義」が彼のモットーであった
 「 一叢(いつそう) の古竹(こちく) 中に高僧有り・・・ 」(原漢文)。 「 ひとむらの古い竹林、その中に高僧が住んでいる・・・」 と、松方の賛詩(褒め称える詩)が書きつけられた「 五岳上人の肖像画 」(手島靖三作)が専念寺に蔵されている。

 上人逝って百数十年、現在でも日田では、その節目に、五岳上人の遺墨展などが開催されている。 喬木(きょうぼく) に遷(うつ) った人々に関する記憶は次第に薄れて行っても、五岳さんの生き方と、その残した作品の数々は、これからも、殺伐(さつばつ) とした時代に生きる人々の心に、温かく語りかけて行く事であろう。


   おわりに 
  
   武士(もののふ) の道さまたげの 花(はな) いばら 茂(しげ) りまされど刈る人ぞなし

 
これは、最初の倒幕挙兵である「 天誅組の乱 」で国事に殉じた、歌人で国学者の 伴林光平(ともばやしみつひら)  ( 一八一三~一八六四、獄中にて大和挙兵参加の顛末(てんまつ) を記録した『 南山踏雲録(なんざんとううんろく) 』 を著わす。 京都六角獄にて斬られる ) が、坊門清忠(ぼうもんきよただ) の事を詠ったものである。
 坊門の藤原清忠は、延元元年(一三三六)、百戦の名将楠木正成(くすのきまさしげ) の献策を一蹴(いっしゅう) した公卿で、為に正成は兵庫湊川に覚悟の戦死を遂げた。 光平は「刈る人」たらんと立ち、そして斃れた。

 近代資本主義・民主主義・自由主義の弊害の行きつく先に、まっしぐらに突き進む日本。 日に日に人間関係は希薄に、拝金万能主義が蔓延し、総衆愚化して、国家の基本が忘れ去られて行く現在、敗戦によって仕掛けられたこの破滅への仕組(花いばら)を、取り除こうとする者はいない。 まさに「 茂(しげ) りまされど刈る人ぞなし 」である。
 このように、日本人の襟度(きんど) と 誇りが急速に失われて行く現代に向かって、幕末から明治にかけての動乱・転換期を、功利・功名に走る世情や中央に背を向けて、心豊かに生きた五岳上人は、その生き方と、残した多くの詩・書・画を通して、「 名利を争わず、実のある人生を生きよう。」 と、静かに語り掛けている。

 五岳、三十二歳(天保十一年)の画に題(だい) した詩(原漢文)に言う。

   瀑泉(ばくせん) 声(こえ) 落つ 乱松(らんしょう) の間(かん)、暮嶺(ぼれい) 雲還(かえ) り 鳥も亦(また)還る。
   若(も) し 斯(この) の心をして 斯(この) の裡(うち) に 在(あ) らしめば、何ぞ城市(じょうし) の 深山(しんざん) ならざるを知らんや。

 功利に狂奔する人間で溢れる喧騒(けんそう) の都会の真っ只中に居ても、己が心に仙境があれば、深山幽谷に居るのと同じであると。


                   つづく  次回




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