日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー140  ( 土佐の南学ー13 ・藤田東湖ー下 ・若き志士たちと )

2009-10-02 12:28:40 | 幕末維新
田中河内介・その139

外史氏曰

【出島物語ー51】

 土佐の南学―13

天下の東湖先生

 東湖先生が自由の身となった翌年の嘉永六年( 一八五三 )六月三日、ペリー艦隊が浦賀に来航し、国内は騒然となった。 そして、ペリー退去の十日後の六月二十二日、将軍家慶(いえよし) が病死した〔 六十一歳 〕。 幕府は、家慶の遺命により斉昭に幕政への参画を要請。 七月三日、斉昭は幕府の海防参与となる。
 東湖も七月六日、水戸藩庁より出府を命ぜられ、七月九日に江戸に入った。 七月十九日に駒込邸に赴(おもむ) いて列公( 斉昭 )に拝謁(はいえつ)、実に十年ぶりの君臣の再会である。 その時、東湖は感極まって覚えず男泣きに泣いた。 この事を東湖は日記に書きつけ、「 御座(ござ)の間(ま) に於て戸田一同拝謁、十年前、五月六日のままにて謁見(えっけん)、覚えず、涕泗(ていし)( 涙と鼻しる ) 横流、海防論一時ばかりにて退出 」 と記している。 そして、翌七月二十日には、海岸防禦(ぼうぎょ)御用掛を命ぜられ、定江戸勤めとなった。

 東湖先生は、出府以来、実に多くの人々と会い多忙を極めた。 この時から、安政の大地震で死亡するまでの二年あまりの間は、藤田東湖にとってはまさしく天下の東湖先生であった。 長い監禁生活の間に培われ磨かれたその人格と学問の深さは、愈々国難に対して、その真価を発揮することになる。 またこの間、若き志士達とも積極的に交流し、その強い影響力でもって、これら青年たちを鼓舞育成した。 その代表的な人物には、橋本景岳(けいがく)( 左内 )、有村俊斎(しゅんさい)( 海江田信義(かえだのぶよし) )、西郷隆盛などがいる。 そしてこれら有為の青年たちに対する感化は、やがて明治維新の実現に向って大きく花開くことになる。


若き志士たちと東湖先生

橋本景岳( 1834~59 )

 橋本景岳という若き一大英傑を発掘し、世に送り出した功労者の一人が、藤田東湖である。 福井藩の参政( 家老に次ぐ職 ) 鈴木主税(ちから) が、ある時東湖に会って、「 福井には人材がいないので困っている 」 と、嘆いた。 東湖は言下に 「 貴藩(きはん) には、橋本左内という人物がいるではないか。 年少であるが、学才識見共に備わって居る 」 と推賞した。 鈴木主税は、直ちに同僚の中根雪江(なかねせつこう) と相談して、佐内を 藩主 松平慶永(よしなが)に奨めたところ、藩主の方も、すでに佐内の人物を知っており、抜擢(ばってき) の内意を持っていた。 然るに、橋本家は、代々藩医の家柄で、門閥の素地がない。 身分制度の厳しい時代、賢君慶永も、この点を深く憂慮していたが、先ず、江戸修業中の佐内に帰藩を命じ、そして学業上達の口実を設け、褒詞(ほうし) と印籠(いんろう) 一個を与えた。 そして、安政二年十月に 「 医員を免じて御書院番 」 とし、将来政界に馳駆(ちく) する素地をつくったと言われている。 英雄 英雄を知る、東湖先生の一言は、遂に越前藩主 松平春嶽を動かして、橋本景岳を抜擢(ばってき) させたのである。
 佐内は、東湖が亡くなった後の、安政三年四月九日付け 中根雪江宛書簡の中で、鈴木主税も私も、「 心服致し候(そうろう) 者は、水府(すいふ) 藤田子(ふじたし) ( 東湖のこと ) に止(とど) まり申し候。」 と述べており、いかに東湖先生を信頼していたかが窺(うかが) える。


有村俊斎( 1832~1906 )

 『  藤田東湖と西郷隆盛の間の橋渡しをしたのが、有村俊斎である。 有村俊斎は、薩摩藩士有村仁左衛門(じんざえもん) の長男で、同藩の日下部伊三次(くさかべいそうじ) ( 故あってしばらく、常陸国内に住み活動した。) の養子となり、のちに日下部の旧姓海江田(かえだ) と改姓し、海江田信義(のぶよし) と名乗った。 桜田門事件の計画実行に参画した有村雄助と、井伊大老襲撃に加わった有村次左衛門兄弟の実兄である。

         
        『 維新前後・実歴史傳 』 海江田信義 親話 ( 明治二十五年出版 )

 さて、「 海江田子爵(ししゃく)親話(しんわ) 」( 『 維新前後・実歴史傳 巻一 』所収 ) によると、俊斎は、嘉永五年( 一八五二 ) の冬、二十一歳の時に、茶道をもって江戸の薩摩藩邸に勤務することを許されて、大山正円(せいえん)( 綱良 )・樺山三円(さんえん) と共に鹿児島を発ち、上府して来た。 そして、翌 嘉永六年七月十一日に、俊斎は樺山三円を伴って小石川の水戸藩邸を訪ね、東湖への面会を求めた。 東湖は、二日前の七月九日夜に水戸から江戸の藩邸に到着したばかりであったので、始めは面会を断わられたが、俊斎は  「 会える時までは毎日訪ねます。」  と熱心に頼んだところ、その熱意が通じて、やっと面会することが出来た。 その時、東湖は、袴(はかま) を着け朱鞘(しゅざや) の三尺刀(とう) を手にして出て来た。 これを見た俊斎は、

      「  状貌(じょうぼう)雄偉(ゆうい)、眼光(がんこう) 人を射(い)、風采(ふうさい) 凛乎(りんこ) として
       侵(おか) すべからざるものあり、一見して 天下の偉人たるを知る。 」

と、東湖に対する第一印象を述べている。 そして俊斎が、今日の天下の形勢に関し、是非先生のお教えを頂きたいと お願いしたところ、東湖は、

      「  余(よ) は 素(もと) より 文もなく武もなく、唯顔色黒くして 眼(め) 大なるのみで、たとえ私の
      指導を受けたとしても何の益もないであろう。 しかし、私には 丹心(たんしん) ( まごころ )
       があり、常に祖国日本の盛衰を憂慮し、ことに最近、志気が失われつつあることを嘆いて
      おる。 あなた方も 私と同感であろう。 お互い年齢的には差もあるが、意気投合した上は、
      今後 交流を厚くして、共に  『 天地正大の気 』  を養おうではないか。 」

と言い、それより東湖は、実に懇切に俊斎達を指導してくれたのであった。 以後、俊斎は毎日のように東湖を訪ねて教えを受けた。 話題はいろいろであったが、ある日、東湖は

      「  今日は 国家の大計上、最要(さいよう) 最密(さいみつ) の大事を談(だん)ぜんと 欲(ほっ)す  」
と言い、

      「  これから話すことは、万一にも 幕府の役人の耳にでも入ったら、私の命の保障は無いであろう。 
      これは秘密を要することであるから、あなたの胸のうちに深くしまって、みだりに他人に告げない
      ように。 」

と戒(いまし)めた上で、重大な内容の話をされた。 その要点のみを記すと、

      「  一君(いっくん) 万民(ばんみん) の大義を明らかにし、天皇親政を 実現するとともに、将軍は
      手の指の如く、また、父に仕える子のように 天皇に忠誠を尽くせば、  『 大義明かに立ち 』、
      人心は一つにまとまって、国力は振(ふ) るい興(おこ) るであろう。 これこそが 今日の緊急
      の課題である。 」

と、まさに王政復古の理想が、東湖の口から披瀝(ひれき) されたのであった。 そして、これを実現するためには、

      「  一大賢豪(いちだいけんごう) が必要であり、その人物こそ、あなたの郷里薩摩藩の藩主
      島津斉彬(なりあきら) 公である。 斉彬公こそ、推して  『 王政恢復(かいふく) の主動者
      (しゅどうしゃ) 』 とすべき方である。 水戸や尾張では、この大計画を率先実現する国力が
      ない。 そこで、私は特に斉彬公に期待するのであるが、それを助ける有為の人材がほしい。 
      どんな人物が薩摩藩にはおるか。 」

水戸の東湖は、薩摩の一青年有村俊斎に対し、胸に秘蔵(ひぞう) の計画を 打明けたのであった。 俊斎は、東湖の大真意を聞いて歓喜(かんき) し、西郷吉之助(きちのすけ) と大久保一蔵(いちぞう) という二人の友人の名を挙げた。 すると、東湖が、
      「 二人の年齢は幾つであるか。 」 

とたずねたので、俊斎が、西郷は二十七、大久保は二十四です。 と答えると、東湖は

      「 誠(まこと) に好(よ) し、迅(すみや) かに二士の 出府せんことを望む。」

それは大変良い、急ぎ二人の志士が江戸へ出てくることを希望する、と要請した。 これを聞いた俊斎は、大いに喜び、直ちに西郷と大久保に、江戸出府を勧める手紙を送ったのであった。 』  (  『 藤田東湖の生涯 』 但野正弘著 から引用  )

 俊斎は、手紙の中で、いま自分は活きた本に出会って、有益な話を聞いているが、東湖先生は、誠に頼もしい人物だ。 就いては君方も至急出府して、活きた本の話を聞いてはどうだと勧めると、大久保の返事に、自分は今直ちに出府出来ない。 しかし水戸藩には、もう一人戸田という生きた本がいる筈だから、それにも会ってみろと言って来た。

 翌嘉永七年( 安政元年 )の正月、藩主斉彬が藩主就任第一回の参覲交代の出府の年である。 この時、西郷も 「 中小姓(なかこしょう) 」 という役目で、晴れの江戸への行列に従うことになった。 行列が藩境の水神坂上で一休みした時、斉彬は西郷を引見した。 斉彬は西郷に初めて会い、随分と頼もしさを感じたことであろう。 三月六日、西郷は江戸高輪邸に入った。 すでに出府していた樺山三円・有村俊斎・有川弥九郎・税所(さいしょ)喜三左衛門らの知友は 西郷を喜び迎えた。 その頃は、樺山三円とか、鮫島庄助とか、同藩の人物も、俊斎同様、東湖先生の許(もと)を訪ね、種々教えを受けていた。
 

西郷隆盛(1827~1877)

 出府の翌月のはじめ、西郷は  「 庭方役 」  を拝命した。 斉彬の非公式な密事(みつじ) をとりあつかう秘書的な役目であった。 そして最初の仕事は水戸との連絡であった。
 安政元年三月、俊斎は西郷と別に肥後の津田山三郎 を同伴し、東湖先生をいつもの通り訪問した。 その時西郷二十八歳、在国の大久保一蔵二十五歳、先生四十九歳、男子として、また政治家として、円熟しきった時だ。 先ず西郷の人物を先生がつくづく眺めると、まさに有村俊斎以上の人物たる事が分った。 初対面の西郷は、終始黙して、先生の言動を眺めていた。 辞して門を出ようとする時、西郷は初めて口をひらき  「 山賊の親分を見るようだ 」  と戯れて言った。
 なお、西郷が初めて東湖に面接した時の事情に関しては、双方共、英傑であるので、諸説紛々である。 西郷が東湖先生に始めて会った時の印象を 、「 東湖どんな、盗賊の親分の様な。」  と樺山三円( 資之(すけゆき) ) に語ったのは、『 桜田義挙録 』、『 樺山日記・諸氏直話 』 では、同僚の樺山三円(かばやまさんえん) と肥後の人津田山三郎と三人で東湖を始めて訪ねた帰り道であると書かれているが、『 水戸学と維新の風雲 』  では、同郷の鮫島(さめじま)庄助と 肥後の津田山三郎と三人で訪ねた時の帰り道で、西郷が鮫島に語った評だと記されている。 これらのところ 実際 よく分らない。

 爾来(じらい) 西郷は、よく先生を訪ねた。 先生も肝膽(かんたん) を披いて彼を指導した。 そうして 島津斉彬中心の尊王運動に、大に彼を資すべく考えた。 先生は西郷の態度の 自然にして素朴、虚飾のないことに、益々有為の器材なるを発見し  「 余の後を継ぐ者は、此の青年であろう 」  と、心私に許して居ると、西郷また先生を評して  「 われ、先輩に於ては、藤田先生に服し、同輩に於ては、橋本( 佐内 ) を推(お)す。」  と言い、また、 「 天下に 真(しん)に 畏(おそ)る可(べ)き者なし、唯(ただ) 畏る可き者は、東湖一人(いちにん) のみ。」  と言ったそうで、両者互に言わずして 意思が一致していた。 この時、先生四十九歳、西郷二十八歳であった。
 西郷は、之を水戸人と交わる端緒として、先生の紹介により、武田耕雲斎、戸田蓬軒(ほうけん)、原田成祐等にも交わった。 当時の西郷は、東湖先生を通じ、すっかり水戸気分になって居り、それをまた本懐と感じていたらしい。

 西郷と、先生の交誼(こうぎ)は、極めて短い期間であった。 けれどもその短い間が、他人と交わる何倍もの価値があったことは、知る人ぞ知るであろう。 先生としては、通り一遍の人物としてではなく、自分の後継者として、その赤誠を西郷に披瀝していたらしい。 西郷が先生から受けた感化の大なる事は、西郷自身の心でなければ分らぬほど大きかったのではなかろうか。


安政の大地震

 このような天下の藤田東湖先生も、安政二年十月二日夜十時頃、江戸を襲った安政の大地震の時、小石川藩邸内の舎宅において 母を助けようとして震災の犠牲となってしまわれた。 それに、安政元年六月に 用達に昇進していた 戸田忠敞(ただたか)も やはりこの地震の犠牲となった。 この両田(りょうでん)同時の急死は 奇しき因縁で、斉昭の落胆は 想像に余りある。 福井藩主 松平慶永は、自著 『 逸事史補(いつじしほ) 』 の中で、次のように述べている。

      「  水府老公の失策多くなりて、万事不都合を生し、幕府より譴責(けんせき)を受くる等の事は、
      藤田東湖・戸田忠太夫(銀次郎)両人、丑年(うしのとし)大地震に圧死せし以来也。 此二人の
      輔翼(ほよく) は別段の事なりといふ。 」


         
      小石川後楽園内 「 藤田東湖先生護母致命之處 」 碑 ( 2007.9.12 )
      元は白山通りにあったが、道路拡幅工事のため、現在地に移設された。 

 西郷隆盛は、東湖が大地震でなくなると、

      「  如何(いか)にも 痛烈之至り、何事も此(これ)ぎり。 」
と一日中、嘆き悲しんでいたという。

 橋本佐内は、東湖先生の死報を聞いた時、

      「  地変 何の罪ありて、国士の命を奪う事の速なる。 後世 藤田東湖二人なし  」
と痛哭し、哀傷の詩を作った。

 長州の久坂玄瑞(げんずい)は、東湖が没した時、まだ十五歳でしかなかったが、詩文によって東湖の謦咳(けいがい)に接し、夢に東湖に接するにいたり、東湖没後五年の万延元年、「 藤田東湖を懐う 」 という詩を賦している。 そしてこの中で 玄瑞は、東湖がいたら、時局は、こうも行き詰らなかったろうと嘆いている。

 東湖がいたら、王政一新も、流血の惨事は避けられたかもしれない。 また、水戸藩に於ける 天狗党と諸生派による血みどろな内訌戦も、無かったかも知れない。 しかるに、東湖没して、その唱道した尊皇攘夷の大看板は、一転して倒幕の一大用具に利用され、回天の事業は、同朋あい鬩ぐ内戦 ( 各地の義挙・征長役・鳥羽伏見役・戊辰役・箱館戦争など ) を伴い、また、水戸藩に於いては、多くの貴重な人材を、その内訌戦により失い、明治国家に貢献する人材が枯渇するに至ったのである。

 藤田東湖、 五十歳、 国家にとって 実に惜しまれる 突然の事故死であった。

          
           藤田東湖 ( 茨城県立歴史館蔵 )

 次回は、東湖先生の  『 正気の歌 』  の全文と、謝枋得の  『 雪中松柏・・・ 』  を紹介する。

                    つづく 次回
 

最新の画像もっと見る