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ものすごい先生たちー151  「 天領日田の一風景 ・2 」  三絶僧・平野五岳と明治維新-1

2010-12-02 00:00:53 | 幕末維新
  
   はじめに
 
 今回は 広瀬淡窓(たんそう) の門人で、詩・書・画の三つに絶(すぐ)れた「 三絶僧 」 として有名な 五岳上人(ごがくしょうにん) (平野五岳)の話です。

  私が上人を知ったのは、近世最大の私塾であった 広瀬淡窓(たんそう) の 咸宜園(かんぎえん) を尋ねて、日田(ひた)(大分県)を訪れた時に、宿泊したホテルのロビーで放映されていた 日田を紹介するビデオによってである。
  この時私は 上人の生き様に強く心を打たれた。 そしてそれは、当時会社勤めであった私の人生観にも影響を与え、上人の作品にも魅せられる事にもなった。
 詩・書・画には、その作者の人柄や人生観などが 色濃く反映されるという。 幕末の志士のそれからは、その志や力強さを感じる。 一方、高潔な人柄の五岳上人の作品は、見る人に何とも言えない心の安らぎを与える。 明治の高官達からも好まれ、また、現在でも愛好者が絶えない所以である。

  咸宜園からは多くの優れた人物が輩出した。 そして、その多くが 政治家・経世家・学者・教育者等として 明治の世に活躍したが、上人は新政府からの要請にもかかわらず、中央に出ることを拒み、一生を日田の地で過ごした。

 彼が生きた江戸の六十年と 明治の二十五年は、回天の激動期である。 彼は僧籍に身を置き、生涯娶(めと) らず、名利(みょうり) に狂奔する時流に背き、詩・書・画の世界に遊んだ。 そして、今日でも 日田では、「 五岳さん 」の名で 親しまれている。 このような上人の生き方を、主として明治の高官達との関わりを通して覗(のぞ)いてみよう。



生い立ち

 平野五岳は、文化六年(一八〇九)三月二十六日、豊後国 日田郡 渡里(わたり) 村( 現、大分県日田市吹上町 ) 長善寺(ちょうぜんじ) の前房(ぜんぼう)(門徒(もんと) を持たない寺)正念寺(しょうねんじ) の僧、小松恵禅(けいぜん) の子として生れた。 幼い頃の名前を聞恵(もんえ)(呼び名をモンネ)と言った。
八歳の時、隈町(くままち)( 現、日田市亀山(きざん)町 )の専念寺(せんねんじ)(その頃は 願正寺(がんしょうじ)の前房)の僧 平野恵了(けいりょう) の養子となった。 恵了(けいりょう) の父 智英(ちえい) は 聞恵を大変に可愛がった。 聞恵が養子に入った翌年には、それまで子供の出来なかった平野恵了(けいりょう) 夫妻に、無染(むぜん)(聞恵の弟)が生れている。


勉学と修業

咸宜園に入門

 聞恵(もんえ)は、十一歳(満九歳)の文政二年(一八一九)三月、祖父 智英(ちえい)に連れられ、広瀬淡窓(ひろせたんそう)(三十八歳)を訪ね、「 咸宜園(かんぎえん) 」への入門手続きをした。 入門簿の本人の覧に釋(しゃく)聞恵(もんえ)、紹介者の覧に釋(しゃく)智英(ちえい) と祖父の名を書き、二百九十一人目の入門者となった。 しかし、その頃の専念寺は 門徒が無い貧しい寺で、無染(むせん) を育てながら、聞恵の学費を出すのは苦しく、聞恵は寺の仕事などで度々塾を休んだ。
  文政六年七月、聞恵(十五歳)は月旦評(げったんひょう)(成績表)二級上となったが、その秋、最も頼りとする祖父智英が亡くなった為、十一月七日付けで聞恵の塾生としての生活は終る。
  しかし、淡窓先生は「 聞恵に学問を続けたい気があるなら、客席に移してあげよう。」と言った。 客席とは、特に先生の目にかなった者だけに許された特別な制度で、月旦評(げったんひょう) の対象にはならないが、都合の良い時に塾に来て受講出来た。  かくて聞恵は淡窓先生の心遣いや、親友の謙吉(広瀬旭荘(きょくそう)、淡窓の末の弟・義子、のち大坂に開塾、尊攘の志士と交わる。 五岳より二歳年長)、先輩たちの助けで、塾生で無くなっても、師の教えを受け続ける事が出来るようになった。


詩・書・画の研鑽

  当時、地方の名士たちが、文人墨客を招いてその世話をし、自分達の教養を高め、同時に地方の学問・文化の向上に貢献する事は、彼らの一種のステイタスシンボルでもあった。
 聞恵が十七歳の文政八年(一八二五)二月、日田の豪商の一人、森春樹(はるき) の計らいで、南宋画(なんしゅうが)(南画・文人画)で有名な 田能村竹田(たのむらちくでん)( 一七七七~一八三五、豊後国直入郡竹田(たけだ)村・現竹田市出身。 詩・書・画に秀でる。 頼山陽と親しく交歓した ) 四十九歳が 森家に逗留(とうりゅう) した。 春樹は 聞恵を小さい時から可愛がっていたので、この時、聞恵を家に呼び、竹田の話を聞かせたり、絵を描くところを見せたりした。 これが、聞恵が南画に興味を持つきっかけとも言われる。
  しかし、南画には賛(さん) といい、その画の余白に自分で作った詩を書き入れる必要がある。 その為、支那の古典などの多くの書物の勉強や、字も上手に書けるようにならねばならない。 聞恵には勉強する事が増えた。

 文政十年(一八二七)五月、今度は聞恵(十九歳)が紹介者となり、十一歳になった義弟無染を咸宜園(かんぎえん) に入門させた。 自分が十一歳の時に、祖父に連れられ、入門手続きをした時の事を しっかりと心に刻んでいたからである。

  文政十一年(一八二八)七月、聞恵(二十歳)は、淡窓の勧めで初めて詩会に出た。 この頃になると、無染も、時には寺務を手伝うようになっていたので、五岳も安心して先生のお供が出来るようになり、あちこちの詩会にも出て、作詩の力を伸ばしていった。 また 淡窓は、塾の遠足や自分が散歩する時にも、よく聞恵を誘った。
 後に淡窓は、『 懐旧樓筆記(かいきゅうろうひっき) 』巻十九 の文政二年の咸宜園入門者に対するコメントで、
「 聞恵ハ虚泊(きょはく)カ甥(おい)ナリ。 後年詩ヲ善(よ)クシ。 其(その)名(な)日々ニ高シ。」 と書いている。 なお同書は、『 淡窓日記 』の事項を、後日整理して 追記補強したもので、虚泊(きょはく) とは、聞恵の実父の兄 小松恵灯の事である。
 天保九年(一八三八)、五岳( 聞恵は二十五歳の頃、名前を「 五岳 」と改めた。) 三十歳の時、その実力が認められて『 宜園百家詩(ぎえんひゃっかし) 』 の編纂(へんさん) に参加。 そして、天保十二年刊行の巻三には、五岳の詩十三首が載せられ、その声価を高めた。 淡窓はその五岳の詩の最初の評に、
 「 釋五岳は、竹村(ちくそん) と号し、又、滴水楼(てきすいろう) とも号す。 豊後日田の人なり。 五岳の詩は、巧緻(こうち) 精密、情を写し景を模して、点水も漏らさず。 いまだ古人の中の誰にか、比するを知らず。」
と書いている。

 また別に、淡窓は五岳の人物を評して、
 「 僧岳は篤志(とくし)(親切な心ざし)の人なり、しかし天之にひまをかさず、惜しむべきの甚(はなは)だし。 然れども才学ここに至る。 師友無しといえども亦(また) 以て、独り進むべし。之を勉めん哉 」
と述べており、門弟五岳の詩才とその人物を高く評価している。

  一方、五岳は天保四年(一八三三)、二十五歳での初めての上京から、文久元年(一八六一)春、五十三歳での最後の上京までの間に、十二回も京に上っている。 これ以降の上京記録は、今のところ見つかっていない(『五岳上人さま』川津信雄 著 )。 そして、その都度に、東本願寺を主とした僧侶としての修業の傍ら、書道や南画などの勉強をした。 特に貫名海屋(ぬきなかいおく)(一七七八~一八六三、儒学者・書家・画家。菘翁(すうおう) )からは、書画を習うと共に、その正しい見方や鑑定の仕方なども教わった。 このように度々上方に上り、多くの人や書物、文物に接した事は、五岳に大きな影響を与えたに違いない。

  弘化三年(一八四六)、五岳(三十八歳)が描いた山水画の賛に、次のような句(原漢文)がある。 そこには既に、山水の心と一体となって作画に打ち込む五岳の姿がある。

  山を写せば心山となり、水を写せば心水となる。
  山水の外(ほか) 我(われ) 無し、安(いず) くんぞ知らん 我が画 似(に) たるを。


  五岳の生まれ育った時代は、将軍家斉の時代、幕府はその最盛期で、まだ馬脚を現していなかったが、その裏面に於ては、知らず知らずに幕末への暗流が動き出していた。 そして、五岳四十五歳の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー艦隊が浦賀に来航、時代は幕末の混乱・動乱期へと向う。 世情騒然たる中で、五岳は静かに自分の世界(南画の世界)を守る事の難しさに悩みながらも、その研鑽に打ち込んだ。

  五岳の画は、当初は密画が多かったが、五十歳代半ば頃より、次第に簡略化に向う。 また、この頃より嘱望(しょくぼう) されて描く作品も多くなる。 そして、六十歳の時に、明治維新(一八六八年)を向えた。

  一般的には、五岳の作品は、詩は白楽天に私淑、書は独学、画は田能村竹田の画風を学び、山水画は貫名海屋の啓発によると言われる。
  五岳は咸宜園在塾中には、寺務に時間を取られ、その才能を充分に発揮出来ずにいたが、南画との出会いは、その才能を開花させることになった。 その意味で、森春樹や淡窓は恩人である。 その春樹は、五岳が二十六歳の時に六十四歳で、淡窓は、五岳が四十八歳の時に七十五歳で亡くなった。


                     つづく 次回









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1 コメント

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平野五岳上人 (梅津三男)
2012-09-21 17:44:18
郷土の偉人村上姑南の昔話を先達の方が50年ほど前執筆し、文化伝承のお手伝いとしてWeb公開しようと準備しています。その話に咸宜園で懇意にした一人として平野五岳上人が出てまいりますが、矢野博士のまとめられた記事は上人の人間像を深く掘り下げ感動いたしました。是非、村上姑南の昔話の中で、上記の記事を転載させていただきたくお願いします。m-umezu@ka2.so-net.ne.jp
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