日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー149  『日本』掲載 「天領日田の一風景・1」  広瀬淡窓と咸宜園ー2

2010-10-14 16:26:39 | 幕末維新
  「天領日田の一風景」 広瀬淡窓と咸宜園

                             矢 野 宣 行
                               「博士の家」代表
  


   何故志士の輩出がなかったのか

 このように盛況であった咸宜園も、幕末の動乱期に志士の輩出が無かったとよく言われて来た。 そのあたりの事を少し考えてみよう。
 日田は天領だったので、尊王と言うことをあからさまには言いにくい土地柄であったが、淡窓はその根本思想の 「 敬天 」 から出た強い尊王思想を持っていたので、門弟にも常にこれを鼓吹(こすい) した。 その為咸宜園では多くの勤王家が育った。 
 しかし、淡窓は生来大声疾呼(しっこ) して 天下に呼号(こごう) するというような性格の人ではなかった。 そして 「 敬天 」 をモットーとしていた淡窓は、自身の毎日の生活の中にも常に善を積み重ねる努力を続けていた。 その意味では中正穏健な思想を持った人格者的な教育者・儒者であったと言える。

 儒学はもっとも現実に即した倫理 および政治に関する教義であるため、漢学塾では 経世的な事に関心を持ちやすく、時勢が進むと志士が生れ易い。 しかし、幕末の時弊に対しての淡窓の考えは、「 封建の弊風を除くことがまず第一で、それには文盲を無くさねばならない。 塾生はこのような混乱期にこそ、他日に備えてじっくりと学問に打ち込むべきである。」 というもので、塾生の突出を押えた。
 また淡窓自身も 政治的問題には慎重で、使う教科書も当時の漢学塾にごく普通のものであった。 このように慎重であったのは、淡窓の咸宜園と 掛屋を営む淡窓の生家 「 博多屋 」が、代官所と密接な関係にあった事が大きく影響しているだろう。 
 また 淡窓の時代、時勢がそこまで進んでいなかった為とも言えようが、時勢の切迫に関係なく、病身の淡窓には 積極的な行動は 到底不可能な事であったに違いない。 しかも病身は 淡窓に思うような遊学・遊歴を許さなかった。 その為 高山彦九郎、梅田雲浜(うんぴん)、平野國臣(くにおみ) などの多くの志士たちが、京都と江戸の双方の地を踏んだことで、幕府の驕侈(きょうし) を憎み、朝廷の式微(しきび) を憂う気持を一層募らせ、純粋無二の勤王論を 抱懐(ほうかい) させていったような機会にも 当然恵まれなかった事も、少なからず影響しているものと考えられる。

 確かに 淡窓の時代、時勢の切迫はそれほどでもなかったであろう。 しかし、時勢がより切迫した淡窓より後の塾主時代になっても、咸宜園が政治的に慎重であったのはどうしてであろうか。

 まず この理由を考える前に、時勢が進んだ次世代に 志士の輩出をみた例として、春水 ・山陽 ・三樹三郎 という 頼家三代、 水戸藩の 幽谷 ・東湖 ・小四郎 という 藤田家三代の場合を見てみよう。 これらの例は、時代が進み時勢が切迫するに従い、祖父 ・子 ・孫 各世代の段階が、倫理の設定(学問) ・感情の注入 ・行動 へとエスカレートしていった典型的な例である。

 歴史家、憂国の経世家でもあった頼山陽は、父 春水( 広島藩儒 )の 修史の宿志を継ぐため、何ものにも束縛されず、一管(いっかん) の文筆をたよりに 天下に呼号(こごう) する為、広島藩を 脱奔(だっぽん)、処士( 草莽の臣(そうもうのしん) )となって京都で私塾を開いた。 そして『 日本外史 』 ・『 日本政記(せいき) 』 ・『 通義(つうぎ) 』 などの著述を通して天下に呼号、感情の注入をした。 山陽は目的達成の為に脱藩という危険を犯し、廃嫡(はいちゃく) という悪評を買うという 大きな犠牲を払ったのである。 また山陽における学問の二大柱は、まず 大局・大義 に通ずること、そして実用に適することであった。

 一方、水戸には光圀公以来、『 大日本史 』の編纂過程において形成されて来た学問の伝統、所謂(いわゆる) 水戸学 なるものがあった。 そして、幕末に水戸藩が天下の人材を鼓動した尊王攘夷のスローガンは 藤田幽谷に胚胎(はいたい) した。 そして幽谷の大なる遺産は、会沢正志斎(あいざわせいしさい) と 子息の藤田東湖であった。 会沢は専ら学者として幽谷の思想を発展させ、東湖は専ら経世家として幽谷の遺志の実践に努めた。 東湖は山陽より二十四歳年下であったので、山陽の時代よりはるかに世運は切迫していた。 会沢は代表的な著述として『 新論 』、 東湖は 『 弘道館記 』 ・『 回天詩史 』 ・『 正気歌(せいきのうた) 』 など 多くの著述をもって天下の人心を鼓動した。

 この山陽と 東湖に共通する事は、その学問が 国史に根ざした大義名分の学問であり、しかもそれを著述などを通して、世の中に強烈に 感情の注入を行った事である。 そしてそれらは 多くの志士間で愛読され、感奮興起させ、やがて時勢が進むと、その中から多くの行動する志士を生んだ。 安政の大獄での犠牲者・頼三樹三郎、 天狗党の乱での犠牲者・藤田小四郎は、実に彼らの子息であった。 人に居ても立っても居れない、行動に走り出したくなるような衝動を与えるものは、やはり民族のエネルギーに根ざした学問(思想)と、強烈なる感情の注入であろう。

 一方、淡窓は 大義・尊王思想は持っていたが、強烈な感情の注入はしなかった。 淡窓は子供が無かったので 三人の養子をむかえている。 旭荘(きょくそう) ( 一八〇七~一八六三 )は 淡窓より二十五歳年下の末弟で、文政六年、十七歳の時に 淡窓の義子となり、二十四歳の時に家事及び塾政一切を淡窓より譲り受けたが、代官所の度重なる塾政への介入などに嫌気を感じ、三十歳の時に 日田の地を離れ上坂、堺に開塾した。 旭荘は もとより憂国の士で勤王の志に厚かった。 このような事も東上の原因の一つであったかも知れない。 後に旭荘は 佐久間象山(しょうざん) ・桂小五郎 ・吉田松陰 ・僧月照(げっしょう) 等の 志士たちと交流して活躍している。 
 淡窓は その後、旭荘の長子 林外(りんがい)を 嗣子(しし)として、咸宜園を伝えようとしたが、林外がまだ幼少であったので 一時延期し、門弟中より 矢野青邨(せいそん)(二十六歳)を選んで 義子とし 広瀬青邨とした。 青邨は 安政二年、三十七歳の時、淡窓より熟政を継承し、文久二年にそれを 林外(二十七歳)に譲った。 そして林外は明治四年までの十年間育英事業に専念した ( 門弟には 後の首相清浦奎吾が居る )。
 このように塾主は、淡窓の後に弟 旭荘、義子 青村、嗣子 林外へと引き継がれていったが、彼等は皆 咸宜園の教育システムでの超優等生であった。 その為 学力偏重主義を引継ぎ、また 政治問題にも概して慎重であった。 幕末に至っても咸宜園が比較的平静であったのは、このようなところにも 原因があったのであろう。 その後、咸宜園は その高弟が順次監督しながら、明治三十年代半ばまで続いた。

 淡窓の教育観が最もよく表れていると言われているものに、塾主を旭荘に譲る時、旭荘に与えた戒告書 『 申聞書(もうしきかせしょ) 』 というものがあるので、その内容の一部を紹介する。( 原漢字に仮名交じり文 ・意訳 『 日本の私塾 』「 咸宜園 」高野澄(きよし)著 参考 )

  「 儒家にとって門人とは、お寺にとっての檀家に似ている。 檀家がなければお寺は成り立たない。 ただ、お寺の檀家は離れて
  いくことはめったにないが、儒家の門人は来るも去るも全くの自由でまことに扱いにくい。 その為 門人が居着くように心掛ける
  ことが一番の大事である。 わが家のやり方は他家とは違い、英気盛んな塾生が師家に対して難題を起さないように、その根源を
  おさえる方法をとっている。 その方法とは 「 英気を消し圭角(けいかく) を除き柔弱にして律令に従わしむる 」 ことを主眼
  にしている。 禁止事項を厳しくする以上、そのほかのことはどんなことでも放置しておけばよい。 この方法を貫いてきたから、
  わが家ではこれまで一度も大問題は起らなかったのだ。」

 咸宜園を紹介するには、この文章を引用説明すれば十分であるかも知れない (『 日本の私塾 』「 咸宜園 」高野澄(きよし)著 ) とまで言われている一文であるが、果たしてこれだけで十分だろうか。


 幕末の私塾を考えるに、海防僧と言われた月性(げっしょう)の時習館 ( 周防 遠崎村 )や 吉田松陰の松下村塾 ( 長門 萩(はぎ) )のように、師自らが行動を起し、感情の注入をし、それに適した教科書を使うような政治結社的な私塾からは、志士が輩出する事は十分納得出来る。 
 しかし、咸宜園と同じように、塾主が政治的問題に触れることを極力避け、もっぱら教科書中心の授業に終始した私塾であっても、志士が輩出した例もある。 それを 但馬(たじま)聖人 と言われた 池田草庵(そうあん) の 青谿(せいけい)書院と、文久三博士の一人である 安井息軒(そっけん) の 三計(さんけい)塾 の場合で見てみよう。  以下、『 近世私塾の研究 』 海原 徹著 を概略引用 )

  『 山陰地方切っての漢学塾であった池田草庵の青谿書院 ( 但馬養父郡宿南村 )では、幕末の最も混乱期でも、政治問題に直接
  関わるような教育はなかった。 これは、「 国事に貢献すること自体は悪くはないが、その前にまず人として学問をしっかりと身につけ
  なさい。」 という草庵の考えからである。 草庵は 
  「 外夷(がいい) の国を奪うは、毎(つね) に輙(すなわ) ち妖教(ようきょう)を以て其の人心を収(おさ) む。 されば 文を崇(とうと) び、
  道を講じて、綱常(こうじょう) を明かにし、士風を(と) ますことは、当今の急務なり 」(『 但馬聖人 』 豊田小八郎著 )
  と考えた。
   また、当時の学生が学問を中途で放り出して、軽々に国事に狂奔する傾向があったことも、塾生が政治問題に関与することを 草庵
  が嫌った理由であった。 しかし、幕末の時勢の大きなうねりは、このような草庵の考えとは関係なく塾生たちを飲み込んで行く。
  これは 草庵が早くから、その政治的立場こそ異にしていたが、大橋訥庵(とつあん)、 春日潜庵(せんあん)、 梁川星巖(せいがん)
  らの 名だたる尊攘運動家と交際していた事が、塾生たちに影響を与えた為と言われている。
   塾生中で一番の活動家は、生野義挙の幹部 北垣晋太郎であった。 草庵は 北垣の影響が 塾中に広がる事を恐れて 北垣を破門に
  したが、生野義軍の中枢には 北垣ら三名の塾脱走者がいた。

   このように、私塾では志士的人間を放置すれば、処士横議(しょしおうぎ) ( 人民の政治に関する論議 ) の場となり同調者が生れ
  易い。 特に 江戸や京都のような、政治的中枢(ちゅうすう) の地での漢学塾ではこうした傾向が強かった。 その例を 江戸麹町
  (こうじまち) にあった安井息軒の 三計塾 の場合で見てみよう。 息軒自身は政治的に積極的に活動する事を好まなかったが、三計塾
  からは 実に多くの志士が輩出した。
   この塾での授業は 師の講義と輪講とに分けられる。 輪講には 表会と内会があり、内会は 五六人からなる自主ゼミで塾ではこれを
  重視した。 これには塾主の出席はなく、教科書も普通で 運営は全て塾生の自治にまかせられていた。 そしてここでは お互は平等
  で、かつ自由にディスカッションが出来た。 
   カリキュラムが政治教育を目指していなかったにもかかわらず、多くの志士の輩出をみた秘密は、全国各地から集った活発有為の
  青年達が 互に交流して自由闊達に政治的論議を闘わせる場があった事にあったと言われている。 塾生には 長州( 桂小五郎、
  時山直八、品川弥二郎、世良修蔵等 )と 土佐( 谷干城(たにたてき)、池 内藏太(いけくらた) 等 )出身者が多く、特に松下村塾からは
  五名が相次いで来た。 また塾は 土佐勤王党結成の土壌にもなった。
   国難に対する彼らの熱き思いが、多数の志ある若者の交流を促がし、孤立した志士の連係、集団化へのチャンスを提供した。 彼等
  にとって私塾は、生国や身分の差をこえた自由な立場で、自らの出処進退を明らかにすることが出来た初めての場でもあった。 』

 この二つの塾の例で言えることは、師の感情の注入がなく、また適した教科書を用いなくても、師が国事に奔走するような人物と接触していた事や、また塾生同志が自由・平等な論議の場を持てたことが志士の輩出に繋がったという事である
 このような事から考えると、咸宜園から志士が輩出しなかった一番の要因は、塾主の姿勢や教材ではなく、月旦評を代表とする実力万能主義の教育システムにあったと思わざるを得ない。 それは塾生たちに 時事問題に関心を持つような時間的、心理的なゆとりを与えなかったにちがいない。

 しかし、淡窓が政治問題に慎重であったのは、あえて韜晦(とうかい) していたとも考えられなくはない。 なぜなら漢学者で経世家でもあった淡窓が、内憂外患の時に、国事に無関心であったとは到底思えないからである。

 門人の谷口中秋によると、いみじくも淡窓は 後に回想して次のように言ったという。
  「 吾門に出入せる者が数多いけれども、一飯の間と雖(いえども)、国家を忘れざる者は、高野生只一人のみである。」
  (『 高野長英伝 』 高野長運 著 )
と。 高野長英 ( 一八〇四~一八五〇 ) は 文政十二年、二十六歳の時に、短期間であったが咸宜園に足を止めている。
 また淡窓は、強い憂国の念を抱いていた弟で義子、しかも咸宜園の塾主であった旭荘が、日田を去ってその本拠を上方に移すのを容認している。
 さらに淡窓は その死に直面して作った自撰の墓銘 「 文玄(ぶんげん)先生の碑 」 の最後に、「 わが志を知りたければ、わが遺著を見よ 」( 原漢文 )と、後世に向って書き残している。
  淡窓には、きっと遠き慮(おもんばか) りがあったに相違ない

                           つづく 次回


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1 コメント

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北垣国道等の生野の義挙 (下田誠一)
2012-07-08 07:02:48
北垣等の生野の義挙が来年に150年となり、但馬の義挙関係者の子孫等を探しています。ほぼ、探しました。
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