日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー152  「 天領日田の一風景 ・2 」  三絶僧・平野五岳と明治維新-2

2011-03-15 16:42:22 | 幕末維新
   人世無事を尊ぶ  

   五岳と南画

  慶応三年(一八六七)十月十五日の大政奉還、十二月九日の王政復古の大号令を経て、徳川幕府はその二百六十余年の歴史を閉じた。 そして、翌慶応四年一月三日、鳥羽・伏見の戦いが勃発、一年半に及ぶ戊辰戦争が始まり、旧幕府の直轄領は新政府直轄となり、そこに県府が置かれた。 
  封建社会の崩壊は、没落する者、成り上がる者、名利に狂奔する者などを生み、世の中は騒然となる。 当然幕府との関係が深かった日田( 旧幕府の天領 )、東本願寺( 徳川家康が一向宗の本願寺の勢力を分割する為、慶長七年に本願寺から独立させる。 爾来(じらい)、幕府に対して、隷属的な関係にあった。 専念寺の本山 )、日田の豪商達の立場も一転する。 五岳の心境も又複雑だったに違いない。

  四月二十五日、日田に県府が置かれ、六月十一日には初代県知事として、松方助左衛門正義(すけざえもんまさよし) ( 一八三五~一九二四、元薩摩藩士、後首相 )三十四歳が赴任して来た。
  日田県は、旧幕府の天領であったので、如何にして新政府に 人心を引き付ける事が出来るかが、施政の最大のポイントであった。 松方が赴任するに当って、日田に暴徒が蜂起し、近藩から鎮圧の兵が動因されるという事態が生じた。 松方の知人は、危害を避けるために 長崎の兵を引率して日田に赴くようにと忠告したが、松方は、自分には期するところがあると言って、単身で日田に入った。 日田の人々は、意表をつかれ、松方の行動を賞賛した。 さらに、県の役人に、土地の人材を広く採用し、誠意をもって政治を行った。 こうして、短期間に 人心を収攬(しゅうらん) することに成功した。
  五岳は、広瀬林外(りんがい)( 旭荘の長子 ・淡窓の嗣子(しし) ・咸宜園塾主 )等数人と共に、この正直で実直な知事の政治顧問となって活動することになる。

  成立当初の新政府には、収税の組織も、直轄する土地や人民もなかったので、倒幕や東北征討の軍資金や新制度移植に要する莫大な経費は、主に旧天領の年貢や富豪に対する御用金と太政官札の発行によって調達されていた。 その窮乏振りは、明治天皇の東京行幸( 実は遷都 )に必要な旅費も、ようやく三井一家に依存して凌いだ事でも分かる。
  当然、松方の一番重要な任務は、新政府に必要な資金の調達、具体的には十万両の借款(しゃっかん) となる。 「 金借知事 」と呼ばれた所以である。

  旧幕府の天領であった日田県は比較的裕福な地であった。 松方は、政府(知事)に対する信認を取り付けることを重視し、自発的拠出によって借款の調達を無事に成し遂げると共に、捨て子を救うための我国初の施設、養育館(よういくかん) を創設する等、日田の民生の安定にも積極的に取り組んだ。
  一方、五岳は知事に日田の事をよく理解してもらう為に尽力し、知事も五岳に絶大な信頼を寄せるようになった。 ある時知事は、友人に、日田での今の生活の様子を聞かれた時、「・・・例えつらいことがあっても、そこに五岳が居る限り、そんな事はつい忘れてしまう。 あの人は、実に不思議な人だよ 」(『五岳上人さま』川津信雄 著 )と言ったと言う。

  
  明治二年、五岳は還暦を迎えた。 日頃から、五岳の画を見ると心がなごむと絶賛していた松方は、三月に会議のために東京に向う折、五岳の画幅を持参し、大久保利通(四十歳)に贈り、五岳の優れた人柄を話した。 その画幅は激動の政治の渦中に居る大久保に、一服のくつろぎと新たな活力を与えたのだろう。 大久保は松方知事の帰任に際し、五岳への恵贈品と、五岳に大幅を描いてもらう為の唐紙(とうし)( 書画用に適す )八枚包とを託した。 七月中旬に日田に帰りついた松方は、その画が出来上がると、早速それを東京の大久保に送った。
  この事がきっかけで、五岳は松方知事の信望をより厚くし、大久保利通や木戸孝允( 木戸も五岳の画を珍重した )等の明治の元勲たちと交わりを持つようになり、その後も、彼らに度々書画を贈ることにもなった。 なお、五岳は西郷隆盛とは 以前より交遊があった。 それまで一地方の南画家であった五岳は、ここに、中央にも知られるようになった。
  また後に、五岳の画は大久保卿等の手を経て、明治天皇にも献上された。 それは、明治九年四月十九日、明治天皇が大久保利通邸に御臨幸の折、壁間の五岳の画幅が天皇のお気に召したので、大久保はそのうちの二幅(明治八年に描いた大作)を陛下に献上した。 この時、天皇は大久保が申上げた功名心の無い高潔な五岳の人柄にも好意を持たれたという。
  大久保が御臨幸に際し、特に五岳の画幅を撰んで飾った事も、また、天皇が御気に召された事も、単に五岳の画が優れていたという事よりも、画に滲(にじ) み出ている五岳の人柄のなせる事であったろう。 ちなみにこの年は、西南戦争の前年で、三月に廃刀令が布告され、各地で反政府の反乱が頻発した年でもあった。


  松方(三十六歳)は明治三年十月、日田県知事としての業績と大久保の推薦(すいせん) により、民部大丞(みんぶだいじょう) として中央政府に栄転した。( その後、五岳と松方は互に会う機会はなかった。)
  その後、松方は、信頼する五岳を、どうしても役人にして東京に呼びたく思い、大久保に相談して五岳を推挙した。 そして明治四年、内閣諸公から再三にわたり、五岳(六十三歳)に 中央政府への出仕要請が来た。 また、親友長三洲(ちょうさんしゅう)( 一八三三~一八九五、豊後国日田郡合田村・現天瀬町生れ、長梅外(ばいがい)の男。咸宜園門人、漢学者・書家、文部大丞(だいじょう) )三十九歳も、別に、五岳に東上を勧めてきた。
  なお、長三洲は 弘化二年十五歳の時に咸宜園に入り、同門の第一才子と呼ばれた。 安政二年広瀬旭荘の大坂の塾に都講(とこう) として迎えられ、尊攘の志士と交わり、長州奇兵隊に入隊、元治元年四国連合艦隊との馬関戦争で負傷した。 のち帰国して父や弟と協力して同志を募ったが、日田代官窪田鎮勝に追われる身となり、父梅外と三洲は逃れたが、弟春堂は捕われ、日田の牢で獄死(三十一歳)した。 以後 各地で倒幕戦に参加後、木戸孝允(きどこういん) の知遇(ちぐう) を得て、明治三年に新政府に出仕していた。

  五岳はこれ等の厚意を辞退するに、次の詩(原漢文)を用いたと言われている。 なお、この詩は後に天聴にも達した。

     人世(じんせい)無事(ぶじ)を貴(たっと)ぶ、 名(な)と功(こう)とを争(あらそ)わず
     鳥(とり)喬木(きょうぼく)に遷(うつ)りて後(のち)、 幽谷(ゆうこく)も亦(また)春風(しゅんぷう)


 〔通釈〕人の世は、何事もなく過ごす日々が一番貴い。 とりわけ名声や功績などは争わない方がよい。 鳥が高い木に移り去るように、周りの者が皆偉くなって飛び立った後でも、春が廻(めぐ) って来れば、山奥の谷間にも暖かい風が吹くでしょう。

  大久保たちが五岳を推挙した理由は、名利を求めず権力に媚(こ) びない高潔な人柄、泰然自若とした頼り甲斐のある人間の風格というものが大きな魅力 であったに違いない。 そしてそれは新政府成立当初の政治的・社会的混乱期には、どうしても必要な重鎮ではなかったか。
  一方、五岳が東上を固辞した理由は、種々考えられなくも無いが、決定的と思われる事は、五岳の三、四十歳代の詩を見れば、既にその頃には、俗世間での名利を争わず、南画の世界に遊ぶという確固とした人生観・処世観を持っていた事である。
  五岳は支那の古典を学び、道人・隠士の思想に強く引かれていた。そしてこの人生観・処世観は、『孟子』の中の一文

  「 富貴(ふうき) も淫(いん) すること能(あた) わず、貧賤(ひんせん) も移すこと能わず、威武(いぶ) も屈すること能わず。 
  此れを之れ大丈夫(だいじょうぶ) と謂う 」(原漢文)

の如く、何物をもってしても動かすことが出来なかった。

 五岳の作品には山水画が多い。 詩中の幽谷とは、五岳にとっては、日田の地であると同時に、山水画の中の世界(仙境)でもあったのだろう。 そして、このような五岳の人生観の形成には、師淡窓の考えが大きく影響しているものと思われる。
  五岳は、師を讃えて詠じた詩 「 広瀬淡窓先生の肖像に題す 」 の中で、次のように詠っている(原漢文)。

   官途(かんと) 早(つと) に絶つ折腰(せつよう) の縁(えん)、 寵命(ちょうめい) 猶(なお) お来(きた) る 
   五柳(ごりゅう) の辺(へん)・・・


つまり、「 人にへりくだる様な仕官のみちは、早くから断ち切っておられたが、それでも、天子様の思し召しは、先生の所にもたらされた・・・」と。


  明治五年十月、五岳(六十四歳)に、オーストリアのウイーンで開かれる万国博覧会( 明治六年五月一日~十一月二日 )への南画の出品依頼が来た。 恐らく長三洲や松方、大久保、木戸などの推薦によるものと思われる。
  我国の海外の博覧会への参加は、慶応三年(一八六七)パリの万国博覧会が最初で、この時、日本からは幕府も出品したが、薩摩藩も「 薩摩琉球国 」の名で参加した。 そして、明治政府が初めて参加したのが、このウイーンの万博であった。

  万国博覧会は 世界中の国々が自国の文化や技術を発表し合う場である為、これに参加する事は、世界中に我国を知ってもらう絶好のチャンスでもあった。 その為政府は事務局を設けて参加の準備を進めた。 そして、日本の伝統文化を紹介する部門の一つに南画の部が設けられ、五岳や帆足杏雨(ほあしきょうう)( 一八一〇~一八八四、豊後国戸次(へつぎ)出身、咸宜園門人、明治十七年没、七十五歳 )に出品依頼が来た。
  帆足杏雨は、南画の大家田能村竹田(たのむらちくでん) の直弟子で、その竹田の教えは「 画を商売と考えるな 」というものであった。 彼は五岳より一歳年下であったが、五岳は杏雨を尊敬していた。
  その後 五岳は、日田を訪れた杏雨と共に、以前にも共に遊んだ耶馬渓(やばけい) に行った。 耶馬溪は、五岳が「 我が師耶馬渓山 」という詩の一節で、「 南宋画を志す諸君、どうか批判しないでほしい。 自分が我が師とするのは、ただ大自然の耶馬溪山のみである。」(原漢文・意訳)とまで言う地であった。 そして、万博には、五岳は「 紅葉山水耶馬渓(こうようさんすいやばけい) の図 」を、杏雨は「 耶馬溪図 」を出品した。 この事で、画家としての二人の名声は更に高まったのである。

  「 耶馬溪 」の名付け親は 頼山陽(らいさんよう) である。 山陽は 文政元年(一八一八)、豊後国の山国(やまくに) 川の渓谷を訪れ、その絶景に感動して、これを耶馬渓(やばけい) と名付け、後に図巻に仕上げた。 この図巻の評判は 山陽の名声と共に全国に伝わった。 また、山陽は耶馬渓を詩にし、文にした。 その紀行文「 耶馬溪図巻記(ずかんのき) 」は、すばらしい名文であったので、大評判となり、それまで人に知られなかった九州の僻地(へきち)・山国渓谷が 耶馬溪といわれて、一躍天下の名勝として世に喧伝(けんでん) され、やがて 田能村竹田、梁川星巖(やながわせいがん) など、多くの文人墨客の訪れる処となった。

                    つづく 次回




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