アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

遊佐のホールでプロムジカ女声合唱団を聴く・観る

2014年08月06日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
"Pro Musica Girls' Choir Japan Tour 2014"と銘打って2年ぶりに行われたプロムジカのコンサートは事実上7月で終了..なスケジュールに見えるが,国内主要都市での公演を終えて,突然7/31に秋田県由利本荘市,8/1に山形県遊佐町生涯学習センターホールと,強引ぽく地元に誘引して帰国,という「スンバラシイ!」スケジュールだ。
実は一昨年もそうだったし,その前も同様。
遊佐町が,プロムジカの国ハンガリーはソルノク市と姉妹都市である関係等から,定例的に日本公演を行い,遊佐町吹浦海水浴場の花火を見たり,滅多にできない海水浴を体験して帰るそうだ(彼女らなりの「リゾート地」なのでしょう,遊佐は大好きらしい)

さて,過去に2回,酒田市民会館希望ホール(大ホール)で聴き,さらにSakata Coro a Cappellaとして遊佐のホールで「サボー氏によるセミナー」にSakata Coro a Cappellaで出演,計3回ほど接触?があったが,今回,はじめてコンサートとして遊佐のホールで聴いた。
(ちなみに,セミナーの様子はこちら)

冒頭,ユニゾン能力では世界最強クラス?のプロムジカでも,遊佐の500名ほどの簡易反響板のホールでは響かない,と直感した(以下,指揮者目線)
すると,私の「手はあるのか?」と思う間もなく,指揮者のデーニシュ・サボー氏は,続々と団員を4つある通路に降ろし,立体感ある音響を聴かせてくれた(それでも酒田市民会館希望ホールよりは響かないのだが)

けれども,私たちのすぐ側の通路に彼女たちが立って歌ってくれ,微動だにしない位の声を聴かせてくれた(人によっては,勘弁してくれと言うくらいの大声だったが..私は右耳が過敏なので困難)

さて,具体的な曲として心に残ったのは,まずハンガリーの彼女らの心臓に響く(はずの)バルトーク"Bolyongas"(さすらい),そして次の世代となるラヨシュ・バールドシュの"Szello zug"(風がうたう)...
ただ,私にとって圧巻だったのはランドル・トンプソン(Randall Thompson)の"Pueri Hebraeorum"(ヘブライの子らは)だった。

遊佐混声の時にも,コダーイやコチャール・ミクローシュの曲にあって「二重合唱においてははっきりと分割した方がステレオ感もあり,聴き手も楽しいのでは?」などと提案したが,評価は中程度だったと思う。
(特にコチャール・ミクローシュのものは,教会で待ち受ける一群と,遠方から来る葬送の一群が最後にステージで合唱するべきと思った。作者はそう思ったに違いない)

プロ・ムジカの指揮者,デーニシュ・サボーも同じ感覚を持っていて,ランドル・トンプソンの二重合唱曲を演奏したのだが,一群はステージで,もう一群は通路上で歌わせていた。
この感覚は,私も同意だったし,上記の遊佐のセミナーで,サボーも語っていたので,非常に心地よく聴かせてもらった。

酒田市民会館希望ホールでの再演なら「勘弁してください」だったが,遊佐のホールでも迷いはあったものの,聴き手としてだけでなく,指揮者の端くれとして聴かせてもらい,前売り2000円は超格安で,とても勉強になった。

長文に少し付け加えれば,客の入りの前と後で,微妙に歌い手の配列とか諸々を動かしていたのは,なかなか参考になった。
仙台の大師匠の今井先生もそうだったし,余裕のある時の私もだが,当日,現場の状況で音楽を変えるのは当然であり,それを従前に団員の皆さんに理解してもらわねば,と思う。

広報さかたの記事に釣られて行った「吉野弘朗読会-心の四季-」

2014年08月06日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
H26.7.26(土),ついつい「吉野弘」「心の四季」というワードに弱い私は,酒田市川南地区というか公益文化大奥の出羽遊心館まで熱っつあつな中,完全に釣られて行ってしまった。

そこをツッコむ意味を含めて「アンケート」には主催の酒田市教育委員会に厳しく2,3点を書かせてもらった。
・「心の四季」は合唱組曲名であり詩集や詩の題名にもない,作曲者の高田三郎氏抜きに,催しのタイトルとして使用するのはどうか?完全に釣られて来てしまった,ということ。
・司会の話が詳しすぎ,詩を味わい吉野さんの世界に思いを馳せる前に結果が分かってしまい興ざめであったこと。
・主に高校生において,リハーサルをしていないのでは?と思わせるくらいに,詩が聞こえない子が多かったこと。

私は,詩の重複は多々あるが,吉野さんの詩集は数冊持っている。
別に書く予定だが,本人公認で合唱曲を書く予定だったからだ。

現状では,音楽もだけれど,待つ,我慢する,絶えられないことをする,というのが病的に困難なので,ラストの方の「雪の日に」や「祝婚歌」などは,勿体無いことに聞けずじまいだった(ガッカリ,だけど苦しかった)

ザックリとした構成として,前半は酒田飽海地区の各高校図書委員代表(本は好きでも朗読は!?),後半は地元朗読サークルの方々。
で,司会の方が言われていたが,読むと聞くのは大違い,詩によっては自分の先入観が覆された。

それが顕著だったのは第8詩集『陽を浴びて』より「乗換駅のホームで」。
高校生では№1だった酒田E高(母校だし(笑))3年生の高田さんだった...あ,心の四季っぽい!
タイトルどおり,乗換駅のホームで見た3人の母子が並んでトイレに入った後,どのように出てくるかを観察している,というだけ,と言えば「だけ」のものだ。
あと,大人の皆さんでは,教科書などでも有名な「I was born.」の齊藤さんだった。

吉野さんの詩は,何気なく,というか平易で,かつそれを生物や自然現象に事寄せて書かれていたり,少しだけ目線をずらして他者にハッと思わせるものが多い。

ところで二人の朗読に感銘しつつ,合唱とも共通点があるなぁ,と思わされた。
それは「間(ま)」と「息(ブレス)」の重要性である。
小学生に対して,本を読むのに「。」は「口を閉じていち・に,と言って」,「、」は「口を閉じていち,と言って」と教えるそうだ。

結果,なかなか待ちきれない子供らは,その「間」をつまらせて使うことでうまく語るらしい。

上に酒田E高の子のことを書いたが,おおむね各高校にもマルをつけられる子はいたが,それらは,大きく,またはハッキリと意思を持って朗読してくれる子らだった。
歌もそうだけれど,音の大小でなく,何をどう伝えたいかが重要なのだな,と勉強させられた。