アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

昨年9月,元・山形東高校,山形西高校,嚶鳴女声合唱団等指揮者の阿部昌司氏の逝去と偉大なる功績,その2

2014年03月26日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
つい最近,昨年9月,元・山形東高校,山形西高校,嚶鳴女声合唱団等指揮者の阿部昌司氏の逝去と偉大なる功績,その1という日記を書いたが,今回は山形西高校赴任以降の阿部昌司氏の実績等について書きたいと思う。

実は,その前に,山形東高校の全国制覇を機に,我が山形県では合唱文化に火がつき,我が酒田E高校の先輩達も,昭和41年度と記憶(私のちょうど10年上)しているが,唯一,県コンクールで優勝しており,このタイミングは阿部さんの山形東高校の優勝から山形西高校赴任の合間だった。
そして,それは恐ろしいことに阿部さんのような方のいない高校生の「学生指揮者」による優勝だったのである。

その後間もなく,阿部さんは前記のとおり山形西高校に赴任され,やはり教鞭の傍ら合唱の指揮もされているが,たとえば中田喜直氏の曲などを採用したりして全国大会にも出場したものの入賞どまり(一般論としては十分に立派)実力・経験の両面で,既に全国トップとなった阿部氏にとっては,決してスランプでは無いのだけれど「どうすれば全国優勝?」ということが最低条件として頭の中にあったのではないかと思う。
特に「女声はピアノ付で三部」「混声と男声は四部」という,ほとんどが日本語で歌われるべきと固定されていた時代で,実は女声合唱が最も歌うに簡単で,かつ聴いてはパターン化し深みの無いものだったと思う(今なら女声でアカペラ,4部以上が普通だから)

結果,彼の到達点は...男声で頂点を極めたベル・カントと決別し,朗々と歌いハモる,ドイツ・リート系に方向転換したと言われている。
そこで選曲を熟慮した時に遭遇したのが,高田三郎先生の合唱組曲だったのであろう。
私も数々を歌ったが,女声で言えば「水のいのち」「心の四季」「わたしの願い」「遥かな歩み」「ひたすらな道」「雛の春秋」等々。
高田先生の曲は全て,精神性の高い詩を選び,その詩が最も良く乗るように,そして自然なフレージングを誘うように作り込まれて,女声三部であっても混声四部に引けをとらない和声とピアノ遣いをされている。
そして時には,一般にあり得ないことだが「最良に歌えるために」という理由だと思うが,何名かの詩人に対して詩の書き換えをしてもらっている(吉野弘先生の詩集などで具体的に記載・比較されている)

前記で書いたとおりのことが現われ,かつ阿部さんが詩と曲を最上に練られ女子生徒達によって表現されたものが,以下の合唱組曲「心の四季」からの2曲だ。
これも,先の日記に書いた,皆川達夫氏のNHK-FMで聴いたものだが,氏も言われた「ハンカチを使わずにいられない」という話のとおり,私も身震いし感涙し聴いていた。

■山形西高校 女声合唱組曲「心の四季」より みずすまし・雪の日に

さて,ろくに女声合唱を知らなかった私は,その幅広さというか重厚さ,特に「みずすまし」の演奏によって"pesante"(ペザンテ)「重々しく」という音楽用語を初めて心から理解した。
阿部さん指揮の山形西高校は,一般に「あまりソプラノは美しくなく,逆にアルトは美しい」という話が定説だが,私は常に「本当に美しいのは,あの合唱を常に引き立てるメゾ・ソプラノだ」と言うようにしている。
実際には「ソプラノは美しくなく」というのは嘘で,私どもも共にした"Pro Musica"などと同様,ユニゾン能力が素晴らしい故であって,結果としてそう聴こえるだけだ。
そして,合唱団でありながら,ソプラノ同等のメロディも,アルト同様の深みもこなし,かつ内声でも豊かさも与えられる,メゾ・ソプラノこそが美しい,というのが本旨なのだ。
(2分前後からの「みずにもぐったみずすまし」あたりからを聴くと分かるし,このことは,山形市民会館で嚶嗚女声合唱団とジョイントコンサートをさせていただいた後の打ち上げで,阿部さんや,当時のメゾの方々にも「いちファン」として申しあげた)

"Pro Musica"を勝手に語ったが「みずすまし」と比較すると,ユニゾン性は"Pro Musica"だが声色がパターン化しすぎ面白みがまだまだで「みずすまし」は分厚く大人げで叙情的,要は身震いする質や精神性が(日本人の私にとっては)全く違っている。

この詩人の吉野弘先生は,わが郷土・酒田市の出身であるが「雪の日に」においては,私は「雪に事よせた」その「雪」の姿かたちが,吉野先生と阿部さんでは明らかに違っている。
酒田では吹き付けた雪が地面に叩きつけられ「地吹雪」となり,そらが地形と相まって吹きだまるのだが,阿部さんの内陸の雪は比較的「上から降る雪」であって決定的に異なる。
ゆえに,私はイントロで「?」と思い,冒頭の「雪が激しく振り続ける」の部分は「オーバーコートを着ていて歩けない雪」であって「傘を差して上から重圧を感じる雪」ではない,と感じているので「雪の日に」には叙情性を感じつつ,精神性の不足を持っている(別に述べたいと思うけれど,コンクール曲となった「走る海」もだが)

ああ,それにしても「みずすまし」,哲学的ではあるが音楽性の豊かさから,心に余裕を持ちたいときに聴くけれど,常に癒される曲であり,至上の女声合唱だ。
そして「至上」の曲は全国に伝播して,全国に山西流高田作品,とでもいうジャンルが溢れて行ったのではないだろうか。

(完..と書きかけて,もう1年度,昭和55年のことを「その3」として書きたいと思うので..続く(笑))

昨年9月,元・山形東高校,山形西高校,嚶鳴女声合唱団等指揮者の阿部昌司氏の逝去と偉大なる功績,その1

2014年03月22日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
私にとって,阿部昌司氏の逝去の報は,かなりショックなものだった。
が,そのショックを分かつ人が周囲にはいなかった。
私は,阿部さんから特段の指導を受けた訳でも何でもない。
ただ,受けた合唱音楽の中身の濃さが尋常ではなかった。
ので,1回に収めようとするとクド過ぎるので,分割して書きたいと思う。

なお,あちこちで参照できると思うが,とりあえず山形コミュニティ新聞社の《追想録》 元県合唱連盟理事長 阿部昌司さん(2013年9月27日付)の記事を読んでいただきたい。
なお,東京芸術大学留学のくだりは,阿部さんの全国連覇の後に同様の実績を残した元・安積女子高の渡部康夫氏もほぼ同様である(=尋常ではない,ということ)

さて,山形東高校の演奏と山形西高校のと,どちらを先に聴いたかは定かではない。
あるいは同じ日に阿部さんの指揮による名演奏として聴いたのかもしれない。
ともかく,当時の最高音質だったNHK-FMで,記憶としては,音楽史学者である皆川達夫氏の解説による「バロック音楽の楽しみ」の中で聴いたものと思われ,確か氏はコンクールで「高校生の演奏でこそ聴ける名演奏」と紹介されたと思う(違っていたら御免)
ともかく何れの演奏も,当時高2だった私の心を揺さぶる,というか鷲づかみにして離さない,衝撃の大きいものだった(言い換えれば,私を「合唱バカ」にしたのも阿部さんかも知れない)
付け加えれば,いまだに男声と女声合唱では,これらの演奏が最も好きだ。

時系列で書けば,昭和三十年代という,合唱の作りも録音技術も何世代か前だった頃の,山形東高校のものが先となるので,今回はそちらを書く。
■男声合唱組曲「廟堂頌」より 大屋根 阿部昌司指揮 山形東高校

前記の山形コミュニティ新聞社の記事の引用。
□転機は(山形)東高時代の36年。生まれたばかりの長男を病気で亡くし、ショックで合唱指導にも身が入らなくなった時、部員らが「先生、これを指導してください」と持ってきたのが宗教的な合唱曲「大屋根」。部員らに励まされて情熱を取り戻し、その年、同曲で(同)東高を初の全国優勝に導く□

この部分は,今読んでも,あるいは何度読んでも泣ける。
自分なら,阿部さんの立場であれば「ショックで身が入らぬまま」だったろう。
現に私も父を亡くした高3の年,酒田E高の学生指揮者で合唱祭,文化祭にコンクールと指揮,並行してS混声の団員としてフォーレのレクィエム(鎮魂歌)を歌ったが,完全に抜け殻だった。
けれど,親だから理解するが,亡くしたのが子供であれば尚更だ。
それを察した生徒達は,きっと,とことん話し合い「宗教的であって自然」「骨太で合唱的」な「大屋根」という絶妙な曲を持ってきて「指導してください」と願う。
対して阿部さんは,生徒への大きな感謝と息子さんへの祈りや誓いを込めて,全てを忘れ渾身の力で指揮をされたのではないか。
それが,生徒と息子,そして阿部さんの力を「3乗」にして,全国制覇にまで導いたものと推測する。

私も昭和50年頃に混声で「大屋根」を歌ったことから,久しく楽譜を探していたが,現在は市販されていなく,浄土真宗の東本願寺大谷派合唱連盟より「特別に」印刷していただき,組曲「廟堂頌」より Ⅰ「大屋根」...の楽譜来る,との日記も書いていた。
確かに依頼したのは東本願寺大谷派であるものの,私にとっての「大屋根」は,一見題材は宗教的でありつつ実は写実的で,お堂に入ったときのほの暗さに始まり,三千人収容というお堂と門徒の人々の声,七十センチ角の瓦が数千枚という大屋根,終いは,その屋根を支える太い柱と,直感的に見える偉容を淡々と語ったものである。

さて,演奏である。男声的に,かつベルカント的でユニゾン性が高い。
だからこそ導入部は非常に美しい。そして,それが永久に続くのでは?と思わせる。
だが,それを圧倒的に覆す瞬間が,ラストの2音に現れる。
タイトルの「大屋根」の支柱をさして,詩の最後に「支えて」と書いてあるが,アクセントとしては「さ『さ』えて」であるべきで,音楽表現では「え・て」とデクレッシェンド(だんだん弱く)したくなるが,阿部さんは逆にクレッシェンド(だんだん強く)して終曲。
せっかくの詩に表した偉容を,単純表現すると直方体的にしてしまうが,阿部さんの指揮は完全に「遠近法」で表し,結果「私の心を揺さぶる,というか鷲づかみ」と言わせる芸術に昇華させてしまったのだ。

もちろん,これを進んで演奏した生徒達は,心から完全一致して立ち向かい,ラストでの声のテンションは「美しさの限界ギリギリ」だったと判断する。
そして,というかそれでも,阿部さんの「長男を亡くされた心」というものは,永遠のものだったろう。
けれども,いくつもの必然や偶然がこのような超名演を生み出し,私のような者どもを全国に生み出し,育んでいただいた,そんなこともあるのだ,と稚拙な日記ながらも書いておきたい。

それにしても,さすがに東北を代表する進学校の山形東高校,発想力と洞察力には敬意を表するばかりだ。

公共放送じゃないみたいに爽やかな二人

2014年03月20日 | 日常生活
●HK山形,夕方の若いアナのコンビです。
ミスっても,二人で「うふっ」とか言ってたりして。
女性は千葉美乃梨(みのり)ちゃん(仙台市出身),男性は伊藤海彦君(千葉県出身)

美乃梨ちゃんは...どタイプです(キッパリ(笑)),我が県人から見ると「近くの大都会」仙台の子..だけど,特別な美人ではなく,可愛くて自然な子。
海彦君は,嫁がファンで「いつも優しくて可愛い」とのこと(残念ながら既婚のようです(笑))
実は「伊藤海彦」と言えば大詩人(故人)で,私は合唱ファンとして大中恩作曲の「島よ」という伊藤氏作詩の曲でコンクールで指揮をしたりした経験もあるもので,縁を感じていました。

殺伐としたことばかり書いたり,気持ちも凹んでいたもので..勝手投稿すんません。

高田三郎作品による傘寿記念特別演奏会「くいなは飛ばずに」に出演したこと

2014年03月18日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
昨年,生誕100年だった高田三郎先生..大正2年(1913年)生~平成12年(2000年)没。
平成5年(1993年)11月29日,高田三郎の傘寿を祝い開催された演奏会のライブ盤CD,東京文化会館大ホール。
■Giovanniへリンク
・曲目,指揮・伴奏,演奏団体等の詳細が確認できます。
■amazonへリンク
・買いたい...あれ?出演者なのに何で持ってないんだろうか!?転勤したからか?(笑)

元をたどると,高田門下の全国レベルの合唱団が一堂に会して高田作品を歌った大演奏会だが,コンクールと言えば...
高校生では県大会,OB兼指揮者として出た時も県大会,一般の指揮者として出場して「何とか」東北大会,さらに仙台に転勤し5年目の平成3年には初の東北大会金賞受賞し,全国大会にも"行ってきた"。

そのうえ,自身は平成4年に転勤で県内に戻ったが,前年の実績が買われたようで,一関の東日本合唱祭に「ごほうび出演」,選曲は問題ないからエエやろ!?と思っていたら「今井邦男先生が高田三郎先生の外遊に同行するので,君が振ってくれ」...これで十分に「ごほうび」だったのだが...
さらに翌5年,タイトルの「くいなは飛ばずに」の出演となり「全然一緒に練習できないンスけど」「君なら前日からで良いでしょう(いい加減)」てことで,ダッシュで(新幹線が)東京行き。
曲目は,大好きな(場面が地元・酒田の)木乃伊(ミイラ)が入る「男声合唱組曲『野分』」,「自分の眼」が入る「男声合唱組曲『戦旅』」 の二択だったが,当方の演奏は,不慣れな方の「戦旅」となった。

以下は,あるYoutubeの動画への投稿として寄稿しようとして「止めた」もの。

私は以前より「自分の眼」が気に入り,偶然だが後に高田三郎作品による傘寿記念特別演奏会「くいなは飛ばずに」で「戦旅」全曲を歌った。なかなか難しい詩であり,曲だ。
伊藤桂一氏は,自分が銃を擬した時の,鴨や敵兵の表情と眼が,実は戦地にいて死を恐れ,兵士である自分の心を表す「眼」そのものだ,と書いたのかと思う。銃を撃つ側から死ぬる側に,立場が劇的に変化している。
この(Youtubeの)演奏は,初演の東大,別の広大と同様,戦後かなり経った実体験ない世代のものであるが,それぞれの演奏を「眼」をつむって聴いたとき,心から作者の意図が感じられるかどうか。

ちなみに昭和55年(1980年),阿部昌司氏の指揮で,古い時代の妻の心情や夫婦の絆を描いた「櫛」という曲が山形西高校とOG団体・嚶嗚女声合唱団で全国大会まで歌われたが,高校生の方は消化不良に聴こえた(山形西はNコンとの2冠,選択曲と「白鳥」は絶品と思うが)

さて,合同合唱(などという人員でない合同)は傑作「心の四季」であった。
奇しくも詩は地元酒田出身の吉野弘先生,そして場面も「木乃伊」と同様,地元を意識されたものがある。
さすがに全国レヴェルの大集団でも,簡単に酒田の「味」を出すことは難かったが,仕上がりは上々。
特に第1曲としてイントロ的に歌われ(私の大好きな)「風が」は,作曲家=指揮者が,齢八十にしてまだまだ新しい解釈を求めるがごとく,驚くべき2/2の,快活なテンポだった。

既に故人となられた先生だが,私の記憶も明瞭,これからも学んでいかねば,と思わされるところだ。

Sakata Coro a Cappella 混声合唱曲 「笹舟」 (Sasabune)

2014年03月15日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
Sakata Coro a Cappella 混声合唱曲 「笹舟」 (Sasabune)


第18回 酒田飽海地区合唱フェスティバル(初出演)
平成22年(2010年)6月13日 酒田市民会館「希望ホール」
演奏 Sakata Coro a Cappella
指揮 池田修一・ピアノ伴奏 白澤美知子

・笹舟(山本瓔子作詞・京嶋信作曲)

 本曲は,私が昭和48年度に中学3年生だった時,初めての合唱曲としてクラスで歌唱した混声三部のものです。
 この演奏は平成21年(2009年)4月に立ち上げた大人の声楽アンサンブルのものであり,バランスも考慮し,本来の「SAB」編成を,原曲の美しさや和声を失わない範囲で,特殊な「SSAB」編成の10名で歌わせていただきました。
 山本瓔子氏とやり取りさせていただき,当たり前と思った演奏にも「スタッカートが新鮮」などと評価いただきましたが,私としては,心もとない世代へのメッセージに乗ったメロディを生かすために自然と表現したものです(勝手な引用,すみません)
 今まで,私と山本氏の周囲へのみ限定公開していましたが,今回,音声のみで公開させていただきます。
 ちなみに,指揮兼バスの私を含め10名で歌いました。

 あわせて,山本瓔子氏の詩による,遊佐町立遊佐中学校の感動的な「あすという日が」等も視聴ください。
http://www.youtube.com/watch?v=pns_tbYXkE8

Japanese"Sasabune"(Sasabu-ne) is also "a toy bamboo-leaf boat".
At this time, We sang this song with ten members.

Long ago, I sang this song when I was Junior high school student.

・笹舟の作り方
How to make "Sasabune".
https://www.youtube.com/watch?v=2txdfhySdWY

東日本大震災3年に思う [1] 震災の記憶風化など,あれこれ

2014年03月14日 | 蓄積された過去群
結論からすると「雑記」になりますので,よろしく願います。

私の合唱団"Sakata Coro a Cappella"では,別に書くが「大震災関連チャリティ」ということで,10月に初コンサートを行おうと準備などしている。
そんな中,3/10には首都が焼け野原になった東京大空襲から69年,3/11には,あの忌まわしい東日本大震災から3年が経とうとしていた。
そして「チャリティ」にふさわしい中身やらを突き詰めていくうち,被災した方々の「震災のことが忘れられている」「あの経験が風化している」との話を沢山聞くこととなる。

NHKは「ならでこそ」の常々からの大震災関連枠を増やしているが,民放各局は「今だ」とばかりに大震災関連枠を設け,直前の土日から3/11迄はドキュメンタリー番組等の「オンパレード」状態だった。
私は同じ東北人だから,毎週,当然のように震災関連番組を視聴しているし,時々心が折れていまいチャンネルを変えたりもする。
それでもやはり,被災地のことを話題にしていて,被災地の少年に届け物をしたりはしているのだが,そんな私ですら「自分の中の風化」を感じることがある。

NHKの番組を「当然,全国枠だろう」と何気なく視聴していると,最後に「東北枠だった」と感じるケースが多い。
だとすると,他地方,特に直接的影響の少なかった西の方の方々(東だってそうなのかも,だが)は大震災がまだ,復興途中どころか端緒についたばかりだ,という感覚がないのではないか。
もちろん,阪神大震災の件もあって,自分のこととして捉えられ,東北への支援をくださる方々も多いと聞く。

けれど,代表的な例としては「福島産」というレッテルを見た瞬間に「怖い」=「買わない」という人々が多いのではないか。
私は,たとえば先に書いた「少年への届け物」の時に,彼へは宮城の物を贈り,自宅では福島の物を届けさせたりしている。業者選定も,福島の会社にするとかして。

なるべく被災地関連の輪を広げようとして話をすると,身内からも「あんた,お金あるんだね」などと下らぬ話をされたり,辟易することもあるが「バカに薬つけても死ぬまで治らぬ」と言い聞かせ(正確には「死んでも治らぬ」か?)後は黙っている。

ところで今,最も問題な福島のことだが,本来を言えば首都圏の電力を賄うために福島県や新潟県を利用し,都会人ぶって文化や流行やらに悦楽していたが,原子力発電所が事故を起こすと「手のひら返し」とは言語道断,本末転倒?当事者をさておいて,自分らが被災者であるかのように振る舞っているのを見て,自分はかなり腹が立つのである。
人間として「お世話になった」「お互い様」というような,当たり前のセンスを日本人は失ってしまったのだ,などと思う(日本人で無い方には御免)

偶然の方を含め,この日記を読まれた方は,少なからず「自分に何ができるかを考える」「微々たることでも行動し支援する」という方向へ,ベクトルを向けて欲しいと切に願う。
(その2,に続く)

戦時色濃くなる直前に流行した"東京ラプソディー"

2014年03月08日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
東京ユースクワイヤによる"東京ラプソディー"

古賀政男が作曲し藤山一郎が歌唱した,戦争色が濃くなり「検閲ギリギリ」のタイミング(というか年)で昭和モダンとして大ヒットした曲。
もちろん私は生まれているはずもないが,母はそれこそ「花の東京は"下町"新宿の長屋住民」,父は東京かぶれで藤山さんの正統派歌謡が大好きな少年。
夢のある歌詞とメロディがお気に入りで,古いのに戦争の影もなく,私もたまにカラオケで歌ったりしていたものだ(戦後歌謡では「スーダラ節」も歌うが(笑))

メロディとしては,ずっと短調で淡々と歌われ,同名調に転調して,そのまま淡々と明るく歌われるのが,無理な飾りがなく,おシャレでイイ!と思った。

3/1は当地のみならず,被災地のたくさんの高校で卒業式

2014年03月07日 | 蓄積された過去群
東北以外の他地方は知らないが,我が方の殆どの高校で3/1に卒業式が行われた(旧女子高の3/3お雛様卒業式の所を除く)
本当にめでたい事で,同慶の至りなのだが,同じように映る光景も,被災地では,その内面すら全く違っている。
少年たちは,ちょうど3年間の全てを,最初から最後まで避難先で過ごし,学んだ子らだ。
沢山の困難に始まり,何とか歯を食いしばって新しい環境に対応し,やがて,少しずつ楽しさも得られるようになったのではないか。

インタビューを受けた卒業生は「非常に困難な時期を過ごし,苦しかったことも楽しかったこともたくさんあったが,今となっては良い思い出」と話していた。
非常に含蓄のある言葉であった。

この記事を何人が読まれ,うち何人が同意していただけるか知らない。
けれど,一日一日を真面目に刻んできた彼らに,大いなる幸あれと願うところである。

西側に,カイヅカイブキのある家(親は無し)

2014年03月07日 | 日常生活
西日からも,北西の暴風雪をも避けてくれるカイヅカイブキ,常緑で,我が地元の猛吹雪などもシャットアウトしてくれる。

市のシルバー人材センターにお願いするとかしないとか。ともかく枝の先端を揃える!と「家主」である嫁が申しております。

この木々だけなら私がやろうか?と思ったけれど,裏庭にも色んな種類があるので,兼財務大臣に任せようと思う(笑)

進歩してるぜ!日めくりカレンダー

2014年03月07日 | 日常生活
息子が珍しく会社関係でもらってきた日めくりカレンダー。
以前だと、むしり取っていた感があったが、今時のものは、シュッと取れて…次の分も取れかける位に繊細だ。
私も写真の通り少し取れかけたが、我が「雑嫁」は、しょっちゅうヤラカシているらしい(苦笑)

最初は「日めくりは面倒かな?」などと思っていたが,習慣で,誰かが面倒を見ている..1日位はポカしてしまうけれど。

同じ場所に月毎のもあるので,一日を見つめる,今日の一言,今日はどんな日?などということを知る意味では「日記」や「家計簿」と同列に考えると意味があるように思う。

高校の後輩らを率いて「若い芽の会」として合唱コンクール山形県大会に出場したこと

2014年03月07日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
とても印象と感慨の深い演奏がある。
19歳からほとんど10年ほど,母校に通い後輩たちに合唱を教えていた。
学校には講師の方しかいなく,合唱指揮経験の無い方もおられたためと,逆に自分が合唱と指揮経験を続けていたこともあるが,結局は自己満足だった。
ある年度の生徒らは女2男1の計3名にまで減ったことがあったが私がたまに入ることでカルテットで「大地讃頌」「ハレルヤ」から小品までも歌っていた。
それでも,とても実力があり,自力で仲間や後輩を増やし,単独で演奏するまでになった。
けれど,私は何とか力試しというか人並みの場と言うか,結果はどうあれコンクールだけは出してあげたかった。
そして,私はコンクール向けに正式な学校長からの「特別コーチ」として辞令を頂き,講師の方と部長の女子の尽力で学校としての全面バックアップをいただき,さらに学生を中心としたOB・OG数名の協力で「一般の部」への出場となったのでした。
以下の演奏は,その時のものです。詳細は動画の下にYoutubeと同じものを掲載しました。
お聴きください。

酒田E高校「若い芽の会」佐藤眞 土の歌より 2.祖国の土(コンクール山形県大会銅賞)


混声合唱のためのカンタータ「土の歌」より 第2楽章 祖国の土 (選択曲)
作詩 大木惇夫(あつお)
作曲 佐藤眞(しん)

昭和57年(1982年)9月21日,第34回・全日本合唱コンクール山形県大会一般の部・銅賞の演奏です。高校としては過去に県大会優勝実績もありましたが,部員減少で,当年度の3年生はたった3人で冬を越した「折れない」メンバーです。
OBの私が学校長より「特別選任コーチ」として任命・指揮者に入り,OB,OG数名の協力と確か7名の「1年3組の助っ人」を含め約20名で出演,銅賞でしたが審査員からは真摯に「一般に混じって大健闘」との評価がありました。
(メンバー,姓は全て当時)
・指揮 池田修一(OB)
・伴奏 白旗玲子(音楽科講師)
・Sop. OGで新潟大音楽科(ピアノ専攻)の池田さん,3年生に後のソプラノ歌手として「トスカ」でタイトルロールの五十嵐さんら
・Alto 3年生に日常の伴奏を兼ねてくれた萩原(姉),2年生に後にソプラノ歌手の杉原さん(現大学教授?なぜアルトかは不知)ら
・Ten. OBで東京から学生で参じた生真面目なTerra三井君,3年生にSip.五十嵐さんの追っかけでブラス系のバーバー川崎君,2年生に後にプロ指揮者の工藤君,1年生に7人も「集客」した萩原(弟)君ら
・Bass OBで唯一地元の池田君,OBで東京から学生で参じた故・宮越君(善人だけに真に無念),1年に入部でいきなりpfの「展覧会の絵」を披露した酒井君ら

本番が近づくにつれ,皆の集中力に気押され,指揮者も早朝・昼・夕,土曜は丸一日と音楽室に入り浸っていました(昼飯抜きで19:30頃までとか..校長が現役時代の教頭だったので理解あり)
30年も経った今,人数の埋め合わせと思ったことが嘘のような,物凄いメンバーに恵まれていたということに感謝しています。

なお奇遇ですが大木惇夫氏は酒田E高校のアカデミックな校歌の作詞者でもありますが,「土の歌」は広島出身の大木惇夫氏ならではで,この曲は「土の歌」の2曲目,「かつて豊穣な土があり好きなときに自由に,安全に土を踏みしめていた」という,戦前の,奔放かつ,のどかな時代を表現しています。
3曲目で自滅的な「死の灰」が降り,最終章の有名な「大地讃頌」によって「国敗れて山河あり」と言える中での,この土の有難さ,そして感謝につながっていきます。
冒頭,A-Durの低いAの音(0:31)がほぼ聴こえないのは大減点で,低音の出ないメンバーではフェルマータレベルで伸ばすのが良かった。また「歩け歩け」(1:36)の文末の雑さ,山河よ(1:55)の移調のユニゾンが決まっていない&溜めなければ等,30年経過して,指揮者のダメダメなのが分かりますね。

それを教えてくれている,同輩・後輩たちの好演に感謝しています。これからも前進していきます。

3/1は、学区のちょい先までっチャリでお買い物、っても中学は同じ学区

2014年03月07日 | ウォーキング&サイクリング系
昨日よりは5度位は低かったが、大陽気(おおようき)なので、嫁のニーズでザック背負ってチャリ(←ここは私のニーズ)で雑貨屋まで行ってきた。
推定4,5度なので,まだまだ冬用の重装備だ(あ,でも下はジーンズのみで,風よけしてないけど)

ただのオサーンですが何か?(表現古い)←否,ジイサンですな(笑)

ちなみに向うは某コミセンです。

2/11(祝・月)は、光ヶ丘の酒田キリスト教会・ニューチャペルで酒田光陵高校管弦楽班の演奏を聴く

2014年03月06日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
夏の定期演奏会以来だが,酒田光陵高校管弦楽班の演奏を聴いた。
そのとき(クドクドと?)アンケートを提出したものだから,写真のような可愛いくも,ありがたい案内はがきをいただいた(ありがとう)
総勢13名,うち男子1名という,わが団と似たような構成。
で,場所が場所(10/13に初コンサート予定)なものだから,実は場所の下見も兼ねていた...
指揮者で酒田フィルハーモニーにも所属するM君は,たまたま酒田E高校の同級生で,あっちは吹奏楽,こっちは合唱の指揮者,という,今と同じようなポジション。
冷静に考えると今も昔も,指揮の中身は,こっちが常にムラっ気で挑戦的,あっちは生真面目という,性格が良く現れている気がした。

昔,私が現役の頃に初めてココの先輩たちのを聴いたとき,まだ女子高で,簡単に言えば「ギコギコしたノコギリ」だった(OGの我が嫁も同じく言っている)
今は,特に今回,1,2年生のみの編成なので「ギコギコ」いってはいるが,逆に伸びしろのとってもある,素直な音を出し,たぶん2年の子らはそこそこ良い音なのだろう。
なぜかは,前回もだったが「ピチカート」が美しく,そのユニゾンは,なかなか揺れやすい弦楽器の音程としては「清々しく上品」だった。

そこを前提にし,個々に曲を聴いていくと,自分の脳からギコギコが自然と消えて行き,自然な音だけが入ってきた。
決定的なのは,全ての曲が必ず綺麗に終わること(終止=カデンツァが完璧に近い)
当然,こちらの曲への感じが心地よく終わる。
M君や先輩,あと,指導・支援しておられる当日出演したオケの大人たちが,真摯に教えておられるのだろう。

別にも書いているが,私はあまりオケとか吹奏楽を聴かない。
ただ,聴く価値のあるものだけ,特に生はいい(ビールじゃない)
すごく選んでしまうのは,ハートの問題だろうか。
「鳴り物入り」「著名」「世界的」とかに食いついたことが少ない(笑)

でも,私の根源には,父の教えた歌,笛,ハーモニカ,そしてTVで聴いたドヴォルザークのユーモレスクのような,弦の哀愁とか..シンプルなのが良いかもしれない。
ともかく,この子らの演奏は,私の琴線に触れたのは確かだった。

なお,たまたまこちらも同年の,顧問でソプラノのSさんのソロも,生徒の演奏に乗って,美しかった。
混声合唱でご一緒した頃にもソロをされていたが,最近は聴く機会がなかったので,以前よりも丸みを帯びて,やはり心に浸みてきたうに思う。

ありがとうございました,な午後だった。

立春どころか「啓蟄」でも暴風雨警報で吹雪(速報?)

2014年03月06日 | 日常生活
通院日の今日から明日にかけて「冬眠した虫もうごめく」はずの啓蟄にもかかわらず,雪が降り,所どころで吹雪いている中を,隣町まで通院してきた。

別に話をupするが,1歳の孫の通園予定の保育園の外観を眺めて,でれでれしながら帰った。
って,かなりどうでも良い話になった(苦笑)

(追記)さっき西の方向を見たら,雲間から薄いオレンジ色の夕日が見えた。
早く,濃い夕日になればいいなぁ!

先日,久しぶりにボウリングを...から発生する無駄話。

2014年03月05日 | サッカー・野球などスポーツ系
いちおうスポーツ?ネタだが,先日,数年ぶりにボウリングをしてきた。

翌日から,右上腕部..はまだしも,軸足の左大臀筋?が強烈に痛くなった。
むむむ,お尻を使うような運動は,随分と休んでいたので仕方ないかも。

問題はスコア。3ゲームするのがコスパ的に良かったのでそうしたが,合計300行かない..というより「ガーター~ミス」ってのを何回続けたやら。
嫁は「久しぶりなのに,珍しく1ゲームで100行った」などと喜んでいるのに,こっちは..(涙)

3ゲーム目は2人で6ゲームのハイスコア(ギリ,面目は立った)だったが,気まずかったです。年も感じるし。ジジだけど。

これでもハイスコアは,運動会サボった日に高校生で210,社会人になって243だったかな?
「たまーに」でも140か150位だったんだけど..言い訳です。

思い起こすと,初めてボウリングをしたのは,駅前に「ホテルオーヌマ」があった頃。
酒田大火で焼けた大沼デパートが中町に進出する前の良い時代,小五のあたりでした。

そのあたりは,やがでジャスコ酒田駅前店になり今の仙台市の「ペデストリアンデッキ」風の2階建て歩道もでき,市民会館での演奏帰りにそこで合唱して「駅前交番」のおまわりさんに「おいおい君たち」と言われたりして。
でジャスコも移転・撤退し,後釜問題でもめて市役所で無駄な税金使ったけど,結局は撤去。
今は「駐車場にしますので,また税金使います」とのこと。
そういうのを「議会も通ってるし合法だから,苦情言われる筋合いでない」のが議員や役人なのである。

話が行ったり来たり...
高2の頃,1コ上で部長だった先輩のS・Rさん(いっつも私がくっついて,自転車で電車通の彼女を後ろに乗せたりしていた)とジャスコの屋上に上がって,電車の行き来や夕焼けを眺めたりしていた。
余りにレベルの高い人だったので告白せず,向うも女子から好きずき言う時代でなかったので,思いは知らず。
(この話は嫁も知ってますのでご心配なく)

で,この方は北海道のトップであるH大(バレバレ)にもちろん現役合格し,H大混声に入団した年に全国初出場したらしい。

方向性が見えないので,終了(苦笑)