週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

心を生かす道

2011-05-24 01:46:19 | ひとりごと

  (昨日5月23日付の読売新聞朝刊・「人生案内」より)


大学生の女子。
何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。

あの日、私は祖母と一緒に逃げました。
でも祖母は坂道の途中で、「これ以上走れない」と言って座り込みました。
私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。
私は祖母に謝りながら一人で逃げました。

祖母は3日後、別れた場所からずっと離れたところで、遺体で発見されました。
気品があって優しい祖母は私の憧れでした。
でもその最期は、体育館で魚市場の魚のように転がされ、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。

助けられたはずの祖母を見殺しにし、自分だけ逃げてしまった。
そんな自分を一生呪って生きていくしかないのでしょうか。
どうすれば償えますか。
毎日とても苦しくて涙が出ます。
助けて下さい。


  回答―海原純子氏(診療内科医)


お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。
こんなに重い苦しみの中でどんなにつらい毎日かと思うとたまりません。
ただあなたは祖母を見殺しにしたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。

おばあさまはご自身の意志であなたを一人で行かせたのです。
一緒に逃げたら2人とも助からないかもしれない、でもあなた一人なら絶対に助かる。
そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。

おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。
その判断力は正しく、あなたは生き抜いた。
おばあさまの意志の反映です。
人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が損なわれることは決してありません。
たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛とした誇りを持って生を全うされたと思います。

おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないで下さい。

おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいことを、周りに居る人たちにかけたり、してあげたりして下さい。
そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。



…亡き人の心を生かす道とは、嘆きの中でそれでも生きていかなくてはならない者の心を生かす道ともなることを、こらえきれない涙と共に実感した言葉でした。


男の背中

2011-05-23 00:31:35 | 近況報告

一雨一雨ごとに、境内の緑が生い茂ってきます。

    

イチョウの木もこの通り、すっかり青々しくなりました。

    

その根本では…。

      

住職と副住職が玉砂利の間から伸びる草を、一つ一つ摘み取っています。
ここに生える草は、引っ張ると根っこからスルっと抜けるものが多いので、個人的には好きな作業場所なのですが…目を離すと道路へ一直線の龍くんがいると助っ人にもなれず(困)
体勢が低く、腰を痛める作業なので、体の重い男性には特にキツイお仕事の一つです。

これから、この青々と生い茂ってきた若葉が落葉し、すべてを袋詰めして掃除し切る冬になるまで、外の作業が延々と続きます。
大変な肉体労働ですが、愚痴の一つも言わずに黙々と作業をする住職と副住職の姿に、身内ながらいつも感嘆しています。

その2人の背中を見て育つ龍くんが、これから何を思い、どんな背中を見せてくれるようになるのか。
母は今から楽しみです。


宗祖降誕

2011-05-22 03:01:20 | 法話のようなもの

昨日5月21日は親鸞聖人がお生まれになられた日です。

親鸞聖人は1173年にお生まれになられ、本願寺では毎年5月21日にご生誕をお祝いする法要『降誕会(ごうたんえ)』をお勤めしています。

降誕とは、仏や菩薩、そしてお釈迦さまがこの世にお生まれになられることを言い、日本では各宗派の宗祖の誕生もこう言います。(「降誕」についての過去記事→こちらをクリック)

さて、私たちも【誕生日】などで何気なく使っている【誕】という字ですが、この字だけを辞書で引いてみると面白い意味が一番最初に出てきました。

「大げさな嘘を言う。でたらめ。」 (『大辞泉』)

誕生というと、とてもめでたく喜ばしいことのはず。
それが嘘・でたらめと言われると、なんだか複雑な気持ちになってきます。

しかしながら、最乗寺の山門の前に建つ、山号の彫られた石碑の裏にある聖徳太子のお言葉を思い出すと、その意味がスッと入ってきました。

世間虚仮 唯仏是真」 (嘘・偽りのこの世にあって、ただ仏のみ教えだけが真実である。)

私たちは、それぞれに、それぞれの真実を持っています。
だから、真実は一つではありません。
人の数ほどある真実は、本当の真実ではなく、ご都合主義の真実です。

自分の都合によってコロコロ変わる真実は、結局のところ嘘・偽りのもの。
そのような世界に生まれる、それが誕生ということなのではないでしょうか。

親鸞聖人もまた、この世界をこう言っておられました。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」 (『歎異抄』)

すべては空言・たわ言で真実などありはしない。
ただ阿弥陀さまよりたまわった、お念仏だけが真実である。

嘘・偽りの世界に、お念仏というただ一つの真実を伝えるため降りてきた下さった…、だからこそ「誕生」といわず「降誕」といい、この尊いご縁が長きに渡って喜ばれてきたのです。


という話は前置きでして、昨日の5月21日は宗祖降誕の日であると同時に、最乗寺初参式の日でもありました…が、申込みゼロ(泣)
参加できない理由をお尋ねすると、近くにいる孫は娘の子で、嫁に出した手前、娘婿の両親の意見も聞かなくてはならないとか、同じ理由で宗派が違ってしまうとか。
なかなか現代的な問題ですが、これがお宮参りなら話はスムーズなんでしょうね。

しかし、これに挫けず、長期的に働きかけていこうと思っています。
個別でも承りますので、どうぞお気軽にお問い合わせくださいませ。


諦めるということ

2011-05-21 00:54:48 | 仏教小話

朝起きると喉が痛い。

初期の風邪ならば葛根湯を飲めば回復するのですが、喉の痛みは市販薬では改善したためしがないので、早々に諦めて徒歩3分の林医院へ。

開院の9時前に入りましたが、すでに6人ほどの先客。
10時に予定が入っていたので、少し焦ったのですが、ここで急いでも仕方がないと早々に諦めて、待ち合いにあった雑誌を取りもくもくと閲覧。

診察が終わったのが9時45分で、処方箋の薬を出してもらう時間がなかったので、早々に諦めて次の予定の場所へ移動。

11時過ぎに用事が終わり、薬局に向かい薬を手に入れましたが、抗アレルギー剤が強い眠気を伴うとのことで、その後も車を運転する予定があったので、飲むのを早々に諦めて一時帰宅。

このまま寝てしまいたいところですが、昼食を作らないといけないので、休むのは早々に諦めて調理開始。

ご飯を食べさせ、後片付けをし、昼寝をさせて、その間に夕飯の下ごしらえをして、おやつを作って食べさせ、散歩に出かけ、夕飯を完成させ、食べさせ、後片付けをし、お風呂に入れて、寝かしつけるついでに、ようやく一休み。


…というのが木曜日の出来事です。
諦めてばかりの1日でしたが、たぶんこれは小さな子供を持つお母さんにとっては普通のことなんでしょうね。

さて、この「諦める」ですが、私たちは何かを断念するときによく使います。
仏教において、「諦」は「真理」を意味し、お釈迦さまが最初にお説法(初転法輪)で四つの真理(四諦)を説かれました。

第一は、この迷いの生存は苦であるという現状認識の真理 (苦諦)
第二は、その苦は尽きることのない欲望から生じるという原因究明の真理 (集諦)
第三は、その欲望の滅した境涯が、苦のない理想の境地(悟り)であるという真理 (滅諦)
第四は、その悟りにいたるためには正しい8つの修行方法(八正道)に依るべきという真理 (道諦)

お釈迦さまの説かれた仏教の根本教説は、苦悩の原因を自身の飽くなき欲望、そして真理を明らかにみることのできない無知から生じていると指摘します。

何かのせいにして、仕方がないから「諦める」と、悔いが残ったり、愚痴が出たりするものです。
物事の道理や因縁を「あきらかにみる」、それが本来の「諦める」です。
明らかに見た上で諦めたのならば、現状を受け入れやすく、悔いも後悔も残りにくいはず。

というわけで、現状を受け入れたうえで諦めつつ、薬を飲んで早めに寝たのですが…。
朝起きると喉が痛いし、熱っぽい。
昔なら、薬を飲んで寝ればすぐに治ったのに……、これが歳を取ったという理由ならば、それはなかなか諦め切れないなぁ。


親子教室

2011-05-19 02:44:03 | ひとりごと

今月から、都筑区役所主催の親子教室に通い始めました。

育児に悩みがあっても相談できない人や、子供の発達に不安を感じている人、いろんな問題を抱え込んでしまう親に対して、区役所の子供支援センターの側が働きかけて開催している親子教室です。

私は小さく生まれた子供をもつ親として、区の保健師さんから定期的に連絡をいただいていました。
区役所で行われる通常の4ヶ月健診や1歳6ヶ月健診などの他にも、発達検査をしたり、その結果から育児のアドバイスをいただいたりという、有り難いサポートを受けています。
その延長で、今回の親子教室にお声を掛けていただいたというわけです。

内容はというと…。

9時半から11時の1時間半のカリキュラム。
自由にオモチャで遊ばせながら、子供が場に慣れる時間を取りつつ、その間に親への短い講義で育児の方向性を正してもらいます。
その後、親子一緒になって思いっきり身体を動かして、それからその日のテーマに沿った遊びを始めます。

さて、昨日は全7回の2回目。
「新聞紙遊び」をしました。

新聞紙をビリビリ破ったり、クシャクシャに丸めたりして、手先をたくさん使い、遊びながら発達を促すというもの。
龍くんはというと、口を突き出し小難しい顔をしながらビリビリグシャグシャ…楽しいんだよね?
まだまだ友達と一緒に何かをするまでには至りませんが、少しずつ世界を広げていくことができればと思っています。

それにしても、1人につき朝刊1日分で、15日分の新聞紙が、見事にビリビリのグシャグシャにされて部屋中に散らばる光景は圧巻。
破かれ短冊状になった新聞紙を親たちが抱え込み、子供たちに一斉に降らすと、大きな笑い声をあげて喜んでくれました。

けれど、子供たちに降り注ぐ新聞にある文字は「放射能」「炉心溶融」「メルトダウン」。
それらの文字が、彼らの未来を脅かすものであることは間違いありません。

発達なんて、ゆっくりでいい。
ただ、彼らが歳を重ねることのできる未来があればいい。

当たり前にあると思った未来を奪ったのが、快適と便利への欲求と、危険なものと知りつつも見て見ぬ振りをし続けた無関心ならば…。
それは親である私にも責はあるということを、肝に銘じておこうと思います。