(5月13日のお経の会の法話より)
ご讃題
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (浄土和讃・82)
先月、最乗寺の永代経法要がお勤めされました。
永代経は私たちにとって大事な仏事の一つです。
しかしながら、その意味合いが十分に伝わっていないようにも感じました。
そもそも、永代経は「永代読経」の略であり、今から300年余り前の本願寺14代・寂如上人の頃から始められたと言われています。
その当初より、お寺が永代にわたって護持され、そこで阿弥陀さまのみ教えが永代にわたって伝わっていきますようにという、進納される方々の尊い願いが込められてきました。
そしてお寺では、その有り難い願いに応じて、永代に読経し、法要を勤めさせていただいているのです。
さて、読経というと一般的には追善供養のためとか、冥福を祈るためと思われがちですが、浄土真宗の読経は故人のためではなく、今を生きる私たちによる仏徳讃嘆になります。
なぜなら、亡き人は私たちが読経し供養しようとする前に、阿弥陀さまの大きな慈悲の中で、すでにお浄土に生まれ、尊い仏さまの身の上になっておられるからです。
故人を思って読経をする、そのお心は尊いものですが、利益を願っての読経ならば、その必要は全くないと言わざるをえません。
我が身を頼りに、自分が一生懸命積んできた善行を頼みにお浄土へ生まれていくというならば、迷いも生じてくるのでしょう。
しかし、ご讃題にいただいたご和讃のとおり、塵ほどもあるような数限りない多くの世界に存在する全ての衆生に目を注がれて、それら衆生を摂い取って(すくいとって)、決して捨て去ることなく仏に仕上げてくださる阿弥陀さまの大きな慈悲の中に、私たちはいるのです。
そのお徳を讃嘆すること、それが浄土真宗の読経の意義になるのです。
また、世間では「安らかにお眠りください」「ご永眠ください」という表現がよく使われています。
しかし、「仏」は「覚者」と言い換えられるように、仏さまは「目覚めるもの」であって、眠っておいでになるものではありません。
詩人の榎本栄一さんは、「私を見ていてくださる人があり、私を照らしていてくださる人があるので、私は今日をくじけずに生きていく」と味わっておられます。
眠っているのは仏さまではなく、こちら側。
けれど、こちらが眠っていても、背中を向けていても、私を照らし出し導いてくださるのが仏さまなのです。
かつて、大谷本廟の掲示板にあった、「亡き人にお経をあげるのではない、亡き人への慕情を縁として、お経の心をいただくのである」という言葉が、今も私の心に残っています。
亡くなられた方のご命日などに読経させていただくのも、故人追慕の情から亡き人を縁として、おみのりに遇わせていただくという、大切な意味合いが込められていることを忘れてはなりません。
永代経には、お念仏のみ教えが永代に広まってゆくようにとの願いが込められた大切な仏事であるということを心に留め、思いを新たにし、共に永代にわたって勤めて参りましょう。