週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

龍の攪乱(かくらん)

2010-09-29 00:04:01 | 近況報告
龍くん(息子)が風邪をひきました。

多分、寝冷え。
身体の上に掛けられることを嫌うので、布団も毛布もすぐ除けられてしまいます。
重ね着をさせたのですが、急激な冷え込みには適いませんでした。

最初は鼻水だけだったのに、翌日に発熱。
38度を超えて、本人はご機嫌斜め。

実は龍くんが38度を超える熱を出したのは、今回が初めて。
今まで最高体温は37.5度くらいで、鼻風邪はありましたが、発熱を伴う風邪をひいた経験がありません。

当然、私も初めてのことで、正直オロオロしています。
今も汗を大量にかいていて、唸り声を上げながら頻繁に寝返りをうっている状態です。

2歳過ぎまで発熱を経験せずにこられて幸いでしたが、この風邪でまた一つ免疫がついたと考えれば、これもまた幸いとも考えられます。
…けれど、そう考えられるのは無事に完治してからなんでしょう。

今は大変だったことも、時が過ぎれば良い方向に変わった記憶になることがあります。
そう、過去は変えられる…いや、過去を作っているのは、その間に様々な経験をした今の自分が持つ価値観ということ。

「急な発熱で慌てたけど、こういうときの対処の仕方が分かって良かったわ」

数日後の私が、今をそういうふうに思える過去に変えてくれていたら万々歳です。

降りてくる友情

2010-09-28 00:15:06 | 仏教小話



写真は、客殿の玄関を入った正面の飾り棚においてある仏像。
小さいので見落とされがちだが、お気づきだった方もいらっしゃるかもしれない。

両側に阿(あ)・吽(うん)でお馴染みの仁王様。
正式には金剛力士像という。

内側の右には、昨年話題になった興福寺の阿修羅像。
そして左は、弥勒菩薩像。

菩薩とは、如来(仏)になる前段階で、悟りを開いて如来となるために修行をする位のこと。
弥勒菩薩は如来となることが約束されている菩薩。
そして今、天上世界の兜率天(とそつてん)というところで、衆生を救うために瞑想をされている。
その瞑想された姿を彫ったのが、写真の弥勒半跏思惟菩薩像。

弥勒菩薩はサンスクリット語で【マイトレーヤ】。
語源は「ミトラ」で、慈悲の「慈」という言葉と同じ語源であることから【慈氏菩薩】とも呼ばれている。

「ミトラ」には「友情」という意味がある。

それは下から見上げ、上から見下ろす関係では生じえないもの。
同じ目線で、同じものを見て、同じように感じることから生じるもの。

芥川龍之介の『くもの糸』にあるような、お釈迦さまが蓮の池の底に映る地獄を見下ろし、カンダタのために「くもの糸」を垂らす行為を「慈悲」と思ってしまうけど、それは違うということ。

兜率天で悟りを開くと、衆生救済のために、この娑婆世界へと降りてくる。
私と同じ苦しみを知るからこそ、兜率天から同じ目線となる場所まで降りてこずにはおられない。
だからこそ、その同じ目線で差し向けられる「慈悲」に、切れてしまう糸を垂らされるときにはない温かさを、感じることができるのだろう。

さて、その弥勒菩薩だが、兜率天から降りてくるのは56億7千万後の予定。
ちなみに、弥勒菩薩の前に兜率天にいたのはお釈迦さまで、2500年前に降誕済み。
どうやら、直接お会いするご縁はないようで…。

あっ、写真の仏像は荏田駅近くの島忠のガチャガチャの戦利品。
1回300円也…面白い世の中になったものだ。


発送完了

2010-09-25 00:02:47 | 近況報告
金曜の夕方、佐川急便さんが引き取りに来てくれて、発送完了。

郵便物の中身は、報恩講法要のご案内、小冊子『よろこび』、それから寺報です。
近日中に皆さまのもとに届くことと思いますので、どうぞご確認ください。

今回の寺報には、このブログについてのご案内もさせていただきました。
公表するほどのものではないのですが、ここから広がる仏縁もあるかもしれないと考え、思い切って載せました。

寺報をお読みになって、このブログを見て下さった方もいらっしゃるはず。
まずは、挨拶代わりにこちらをご覧ください。

まぁ、このとおり字が多いのが難ですが、こればかりは如何んともし難いので、どうかお付き合いくださいませ。
今後は写真もいれつつ、多少読みやすさを考慮して続けていこうかと思っています。

それから、これまでは「です・ます」調を心掛けて書いてきましたが、ちょっと疲れてきたので、カテゴリーの【ひとりごと】と【法話のようなもの】の文体を、場合によっては口語調のような文体に変えようかと考えています。
この2つは考え事の延長のようなものなので、ほぼ直感で書いているのが実状。
読みやすいか否かは人それぞれですが、こちらもお付き合いいただけたら幸いです。

ではでは、最乗寺及び【週刊・最乗寺だより】を今後とも宜しくお願いいたします。


寺報完成

2010-09-21 23:49:44 | 近況報告

秋の寺報がなんとか完成しました。

季刊で年4回の作成は、それほど多い発行ではないのですが、毎回生みの苦しみを味わう状態。
文章力も向上しないし、ネタも枯渇しつつある危機感に、毎度ヒヤヒヤしています。

特に、息子が産まれてからは、起きている間にパソコンを開けないので、夜寝静まってからようやく作業ができるという効率の悪さが響きます。
子供はキーボードやマウスをいじるのが大好き。
うちの子は、すでにテレビのリモコンをオシャカにした前歴のあるデストロイヤー(破壊王)なので、いつパソコンが餌食になるのか戦々恐々しています。

このパソコンは7年以上使っていて、もう骨董品の域にあるような代物ですが、データの移行が面倒になるくらい、たっくさんのネタが詰まっている宝物です。
なので、もしデストロイヤーの手に掛かったら…そりゃあ「明日のジョー」並に真っ白になること間違いなし。
何が何でも死守しなければと、毎日熾烈な攻防戦を繰り広げています。

さて、今回の寺報の内容は、【生前】という語についての説明と、10月の報恩講法要のご案内が主になっています。
お知らせが多くて、写真を入れることができなかったのが残念ですが、字体を変えたり、少しでも読みやすいように配慮しましたので、どうぞ開いて読んでみてください。

では、近々発送しますので、お楽しみに!


打ち寄せる波

2010-09-20 00:00:08 | 法話のようなもの

今日からお彼岸です。

お彼岸とは「彼(か)の岸」と書くように、向こう側の悟りの世界を意味します。
対してこちら側は「此岸(しがん)」と言い、こだわり、とらわれ、迷う私たちのいる世界を指しています。

そんな迷いの岸から悟りの岸へと到るために修行をする期間。
それが本来のお彼岸でした。

お彼岸がなぜ春と秋の2回あるのかについては諸説あります。
その一つに、阿弥陀さまの世界を「西方浄土」と言うように、お浄土は西の方角にあるとされ、春分と秋分は太陽が真西に沈む日であることから、その方向に思いを掛けるのに適していたという説があります。

方位磁石もない時代、正確な西を知る術は限られていたはずです。
その日は、誰もが沈む夕日にお浄土を思い、手を合わすことができたのでしょう。

けれど、そのお浄土を観想することが、転じて先祖供養となり、現在の形態を辿ります。
それは自分のお浄土ではなく、ご先祖のいるお浄土。
同じ次元にあるのではなく、西の遠くにある死んだ後に生まれる場所。

そう思うがゆえに、お浄土を私たちの価値観で構築し、私にとっての良いところというような都合のいい場所を作り出して、嫌いな人とは死んだ後まで一緒にいたくないと排除を平気でしてしまう。
それでは此岸と、まったく変わりがありません。

彼岸とは悟りの世界です。

相手の苦しみは自分の苦しみとなり、相手の喜びは自分の喜びとなる。
自も他も超えた、こだわりも、とらわれも、迷いも超えた世界。
その世界から、常に私たちはこだわり、とらわれ、迷っているという自分の本当の姿に気付きなさいと、はたらきかけられているということを知るご縁が、お彼岸という期間にはあるのだと思います。

10代遡れば、最低でも1024人のご先祖がいます。
その縁が整って、初めて私が産まれることができました。
その縁は縦の関係だけでなく、横の関係へと無限に伸びてゆき、つながらないものなどないほど大きな関係性の中にいる私を教えてくれます。

私の命を顧みる、それがお彼岸のあり方の一つでもあります。

岸辺に打ち寄せる波。
その波は彼の岸から届く、私への気付きの促しなのかもしれません。