ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-2 [ 監視機関を作れ]

2016-05-06 15:10:48 | Weblog

  国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-2

 

【教育を追う】「改革」私の意見〈55〉

監視機関を作れ

        国分 一太郎氏➁(児童文学者)

 

――戦後教育のスタートにあたって、物たりなかった点がほかにもありますか。

 「ええ。教育基本法第八条二項に『法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治的教育、その他、政治活動をしてはならない』とありますね。この“政治的教育”を監視する機関を作らなかった点が残念です。と言いますのは、昭和二十五年の朝鮮戦争以後、特定政党や経済界の方針で教育が動かされてきましたね。教科書検定が強化され、教育の地方分権を保障した教育委員会が公選制から任命制に後退しました。そのほか文部省はその時々の内閣の方針にしたがって教育行政をすすめてきた。だから、教育基本法に違反していないかどうか、監視する機関を設けるべきだったんです。違憲審査をする機関として最高裁があるように、また独占禁止法を監視する公正取引委員会が設けられたようにです。

 戦後教育を見直したいとか、憲法を改正したいという動きがいる今の時期にこそ、中央教育委員会といったような監視機関の設置を、国民は真剣に考えるべきです」

 

――自民党は「日教組こそ特定の政治教育しっている」と非難しています。

 「教師もむろん言論、思想の自由を持っています。しかし、教師が個人の言論、思想の自由を大事にし、基本的人権を尊重して民主的な日本を作っていこうと思うなら、子どもに、ある特定の思想を押しつけてはなりません。教師はそうした教育上の原則を厳重に守るべきです。このことは日教組にもやかましく言ってきたことです。むしろ教師は、子どもたちが自分の思想、世界観を形成するために必要な基礎的知識を与えるべきです。単に教育の政治的中立性を守るというのではなく、何が公民にふさわしい政治的教養なのか、平和で民主的な国家をつくるためには、子どもに何を教えるべきなのかを考えて欲しいですな。」

 

――先生たちは授業中に時事問題についての“雑談”をしなくなりましたね。先生の雑談は子どもに社会への目を開かせるのに効果がありましたが……。

 「かつては授業で時事問題や社会についての自由研究がありました。いまはそういうことをあまりやらないようですね。」

1984年(昭和59年)7月11日(水曜日) 毎日新聞


山田ときさんを偲ぶー8  新入のころ➁

2016-05-06 13:24:55 | Weblog

       山田ときさんを偲ぶー8

新入のころ➁

  四月○日

走るようにして登校すると、子どもたちはもう、ほとんどきていた。石板をだして何か盛んに書いている。オルガンをいじつている子もいる。しかし子どもたちと遊ぶ時間の余裕を与えられない私は、ただ「おはよう」と挨接して顔を見るだけ。職員室にもどって新聞を綴ったり、お茶をだしたり、購買部の会計をやつたりして、鐘が鳴ってしまう。一時間近くもある始業前の時間、子どもたちと話すひまもなく毎日こんなことをしていていいのだろうか?

一校時の遊び時間フジコが鼻血を出す。宿直室に抱いてきて、手当をしていると鐘がなってしまう。教室にゆけば、三年の男の子が、「先生、庄蔵と金芳と守正と四人、帰っていったは」と教えにくる。「すぐ呼んできてください」と頼むと、どんどん迎えにいってくれた。しばらくして守正だけ帰ってきたがあとの三人は見えなくなったという。その他にも、カバンを背負い、帽子をかぶって「センセ、エッテエエナダガハ(かえっていいのですか)」ときく子がいた。

 二時間終ると、イシ子が私の手にぶらさがって「オッツア(とうちゃんが)、カセギサイッタ。五ツトマルトマダクルナダ」といつた。続いて金芳は、「ブンジサヨバレテエグハゲ(いくから)、ヒマケロナ(早引させてくれ)」という。すると「才ライノオッツアモカセギサエッタナダ」と桃割姿の赤ら顔のトキ子も告げた。「何日とまってくんなや」と、きくと、「シャネオラ(知らないな、わたし)、マエニチ卜マテエンナダドハ」と、ちよつと、はじらいながら下を向く。

 内気な子だ。生きるにやっと間に合う程度の農家では、結局、現金収入とては全然なく、どうしても出稼ぎにでなければならなかったし、粗末な食べものでその日その日をただ生きているにすぎない農民たちは、やはり、村祭りや他の村の祭りで親戚に招かれてゆくのがひとつの姒楽であり、慰安であった。

 発育不全のフミ子は今日も祖母に連れられてトコトコやってきた。一人娘のこの子は全く 歩くかっこうから、話しぶりまで四•五歳の子どもである。「先生、かぜやっとなおったところだから連れてきたどこよ」と何もわからぬ孫として、よろしく頼まなければならなりこのおばあさんは何度も何度も頭をさげて、カバンを持ってやり、フミ子の小さな手をひいて帰っていった。これも人の子である。このおばあさんにしてみればたった一人のかけがえのない孫である。       山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・29~P30)より


国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見〈54〉

2016-05-05 13:26:59 | Weblog

  国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-1

 国分一太郎は、1984年に東京学芸大学で、特別講義「生活綴方と昭和国語教育史」を8回にわたって行っています。私は、そのビデオを何度か聴き直し、また見直しをして、文字に再生しています。すでに6回までの分は、文章化ができて、それを国分一太郎「教育」と「文学」研究会の紀要にも紹介しています。

 現在進行中の、8回目の「国民学校令と教育・国語教育」の講義の中で、「私は、この間、毎日新聞に5日間ばかり、『教育改革への意見』というのを聞かれ、小さな記事が載っています」と話をしていました。

 この講義は亡くなる前年に行われています。講義のまとめにあたる部分の話です。最後に、どんな思いを語っていたのか、興味があったので、国会図書館で資料を調べてもらいました。そして、そのコピイを送っていただきました。

 それを読んで、国分一太郎の「遺言」ともなる発言だと思ったので、連休中、打ち出しました。

 

【教育を追う】「改革」私の意見〈54〉―

 

 物足りぬ教基法

       国分 一太郎①

 

 国分一太郎(こくぶん・いちたろう)児童文学作家。日本作文の会常任委員。昭和5年、山形師  範卒、小学校教師として生活綴方運動を推進。戦後も作文教育を指導した。著書に「教師」(岩波書店)「しなやかさというたからもの」(晶文社)「国分一太郎文集」(新評論)など。73歳。

(1985年〈昭和60年〉2月11日没)

 

 ――戦前、生活綴方・生活教育運動をされて軍部ににらまれた国分さんとしては、戦後の新しい教育を、さぞ歓迎されたことでしょう。

 「そりゃあ、もう。戦前は皇国民に育てるため、子どもの自由な精神を抑圧する教育でいたからね。戦後の新教育では平和で民主的な文化国家を築くために行うというのだから大いに喜びました。しかし、新しい教育方針に気にくわない点もありました。」

 ――どの点ですか。

 「一つはアメリカ流の教え方を押しつけたことです。“なすことによって学ぶ”という経験主義、知識より経験が大事だという考えでした。これには私は反対でした。例えば国語の場合、読む、書く、話す、聞く、をしっかりやれば日本語は身につく、というものでしたね。たしかにそれも大事だが、同時に日本語の知識、つまり文法、文字、発音などを、きっちり教えないと、正しい日本語は身につかない、と主張したのです。もう一つは教育基本法です」

 ――どこが問題なのですか。

 「むろん全体的には良いと思います。でも私は教育基本法のここが気に入らないんです。第一条の『平和な国家及び社会の形成者として……国民の育成を期して……』。この“形成者”というところですな。なんだか子どもに平和的な国家を作ってもらうのを期待しているみたい。大人ががんばって平和な文化国家を作る。その過程で子どもを(平和的な国家の)後継者に育てるべきなのに。

 そのためには子どもに真理、真実を教え、基本的人権とか平和とは何かを教え、自分の人生観の基礎を育てる教育に力を入れるべきです。

 中曽根さんは六三三の学校の区切りを見直すようなことを言っているようでありながら、実は戦後教育の基本である非軍事的、民主的な自由な人間的自覚を持たせることを嫌って、何とかしたいと思っているのではないですか。」(つづく)

1984年(昭和59年)7月10日(火曜日) 毎日新聞


山田ときさんを偲ぶー7        新入のころ

2016-05-04 10:57:05 | Weblog

                       山田ときさんを偲ぶー7

 

 

新入のころ

    四月〇日

 七十二人の受け持ちになって第二日目。常には、着物や、身のまわりのことなどには気をとめていられない農山村の母たちが、入学当初ばかりも、との心づかいなのだろう。みんな、よそ行きらしい着物をつけていた。そのころは、かなり田舍に入つても探さないと見られな いような、前髪下げた桃割姿の子もいれば、赤いよそ行着に、とき色のネルの前かけをさせ られた子もいる。物珍しそうに、キヨトキヨト、友だちのようすを見ている子もいれは、どろどろと鼻汁を流した子、それがもう乾いて、かさかさになり、ニ本のレールがならんでい る子もいる。かと思うと、オカツパ頭で、ランドセルを背負つた女の子、ま新しい金ボタン の洋服に、革のランドセルの近代色の子も二人ほど混っている。 

縞 木綿の大きなふろしきを背負って、チヨコンと立ち結びにしている子、兄か姉かのお古 らしい、巾の広いひもの大きなさげカバンの子もいる。何かの展覧会のように七十二人のさまざまな顔が私の目の前にならぶ。

「センセ、ボタンコリヤ」とフミノが私のスーツのボタンをおさえる。金芳が人をおしのけ てチョコンと私の前に出てきて、「センセ、オラキミガヨウタウエ」と報告すると、守正が目をパチパチさせて、「キントキニクマモマケルンダナエ、センセ」と、小さな手でス力ートにぶらさがる。

 教室にはいって名を呼んでみた。返事できない子が三人。落第した熊吉とフミコと吉蔵だ。 熊吉は去年一年、とにかく学校にはきたが、ほとんどロをきいたことがないという遅進児、フミコは、四・五歳かと思われる程度の発育不全の子、鼻の下がまっかだった。この二人は、いずれも、おばあさんに連れられてきた。七十二人のうちのたった二人、「ハイ」の返事さえ できない遅進児ながら、このおばあさんにとっては、大事な孫なのだ。どっちを見てもいじらしい。

 もう私の名を覚えて、「アイザワセンセイ」と手を引っぱる。ス力ートにぶらさがる。

 名を呼んだり、下駄箱や、便所を教えたりして、1時間終る。小さなオルガンを教室に運んで『日の丸のはた』をひいた。てんでに立って空をあおいで声をはり上げる。「テッポウカツイダヘイタイサン」と、うたっていると思うと、「キーミーガアヨオワー」と顔にすじをたてて声をはり上げている子もいる。

 こんどは私の傍に出てきて、盛んにオルガンをいじりたがる。カバンを背負い、ゴサボウシン(わらでっくった雨外套)をかかえて待っている子もいる。毛布をかぶってるのもいる。帰りたくなったのだろう。金芳が、「センセ、ハラガへッタハ(おなかがすいたょ)、オラングハナレ(ぼく帰るよ)サエナラ」と、前に出てきて、ピョコンとおじぎをして、さっさと出てゆく。

 帰り支度をしていたものが二十人近くもいた。「エサ、エグダクナタハ(家に帰りたくなったよ)」 と二•三人がいう。ランドセルを背負つてくるような二•三人を除いては、生きることに追われて、子どもたちの家庭教育などには、てんで頭がまわらない農民たちの家の子だ。「それでは、今日はこれでかえりましよう」と、せんべい三枚宛くれて帰した。(この学校では、入学当初三日位、おやつをくれるならわしだつた)

 声高く「アィザワセンセ、サヨ—ナラ」と何度も何度も私の顔を見ながら首をさげていっ た。昇降口はくもの子を散らしたようだ。フミヨは先祖何代か前から伝わったような赤色がけた、ボロボロの毛布を頭からスッポリかぶって、どんどん走っていった。イシエとフミノ は、三間ばかりいってから、くるつとこちらを向いて、「アィザワセンセ、サヨーナラ」と腰をかがめて、ピヨコンとおじぎをすると、またどんどん走つていつた。

 昇降口に暫らくポカンと立って、子どもたちのうしろ姿を見送り、すっかり姿が見えなく なると、教室にもどつた。

 出席簿とてらしあわせて、浮ぶままに子どもたちの印象を記録する。名前と、はなしかけ けてきたことばはわかるが、どうしても顔が浮んでこない子もある。ことばと顔が浮んできても、名がわからないのもある。ポカンとして考えていると、置いてきた長瀞の子の顔が浮 んでくる。今日はだれも泣かないで帰った。鼻血もださない。

 顔がはっきり浮んでくる子を数えたら、二十六人だった。

                 山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・P26~P28)より

 


「もの」や「こと」、「人」を意識させる    心のケアと自立のための日記指導-19

2016-05-04 10:03:07 | Weblog

                                心のケアと自立のための日記指導-19 

(四)「もの」や「こと」、「人」を意識させる

 

  まわりのものやこと、かかわった人のことをよく思いだして日記に書かせたいものです。

 日記は、「自己表現」であることから、自分のしたことをしたとおり、自分の思ったことや考えたことだけを書く子どもがいます。

 そのとき自分のしたことや見たこと、話したこと、思ったことや考えたことだけでなく、その出来事でいっしょになってかわった人、かかわってくれた人の行動や様子、かかわった「もの」や「こと」にも、ふり返って目を向ける子どもにしたいものです。

 日々の暮らしは、自分の行動や考えだけで展開しているものではありません。身の回りにあるものやこと、人などを意識するかしないかにかかわらず、おおきな影響をうけて暮らしています。毎日の生活に悩みや不安が無い場合には、それらが空気のように感じられて、制約を受けたり、影響を自覚したりすることはありません。

 けれども悩みや不安を感じるようになったとき、こころのケアが必要な状態になったときには、身の回りにあるものやこと、人、あるいは生活全体が、大きな圧力となっておそいかかっているように感じるのです。そして、この圧力を漠然と感じているだけでは、不安はつのるばかりです。

 この不安をとりのぞくには、とりまいている、まわりのものやことを一つひとつ、具体的にとらえて理解していくことが必要です。まわりのものやことあるいは人との関係などの理解が必要になってきます。まわりとの関係を追求することで、自分の今の状況がみえてくるのです。

 自分との関わりの深い身のまわりの「もの」や「こと」、また、それとどのようにかかわって生活をしてきたかをふりかえることで、現実の把握ができ、かかえている問題が見えてくるのです。

 まわりのものやことが見えてくると、悩みや危険から、本能的にさけようとします。また、受け入れにくいものやことを自覚することで、それを避けるようになります。その結果、すこしずつこころの不安が解消されていくのです。それだけでなく、具体的なものやことを理解したり自覚することとあわせて、環境が改善され、具体的にものやこととどのように関わっていけばよいかを学習したり、また、その支援をうけたときには、「自立」への道が開かれるのです。

 その出来事にいっしょにかかわった人や、関係の深かった「もの」や「こと」の様子や動きに目が向いているような日記を見つけて、それを取り上げます。

 

しゃぼんだま

                                 2ねん・まゆこ

 きょう、いもうととしゃぼんだまをしてあそびました。わたしが、まえにかっておいたしゃぼんだまのえきで、しゃぼんだまをつくりました。

 わたしは、そうっとふきました。しゃぼんだまは、フワーッととんでいきました。いもうとが、ほじょつきのじてん車にのりながらわろうとしていました。ほじょつきのじてん車にのりながら、上をむいて手をのばしながらわっていました。

 しゃぼんだまはたくさん出ました。小さいのや大きいのが出ました。いもうとが、

「きれいだね。」

といいました。

 おじいちゃんが、しゃぼんだまを見ながら、わらっていました。しゃぼんだかは、すきとおったいろだけどきれいでした。

 いもうとが、

「やりたい。」

といったので、やらしてあげました。いもうとは、

「フッ」

とやってしまうので、すこししか出ませんでした。いもうとは、

「すこししかでないよ。」

といいました。わたしは、

「そっとふくんだよ。」

といったら、

「そうか。」

といいました。そして、ふいてみました。いもうとが、そうっと、

「フー」

とやったら、大きいのや小さいのが出てきれいでした。いもうとは、おもしろくてなんかいもやっていました。いもうとは、

「おもしろいね。」

といってまたやってみました。わたしは、そんなにおもしろいのかなあとおもいました。

 

 この日記をとりあげれば、子どもたちは、「しゃぼんだまであそんでいる様子が目にうかんできます。」「それは、なぜか。」と聞くと、しゃぼんだまの飛んでいく様子や、妹の行動や話したことばから、よくわかると答えてくれます。

 そこで、あらためて、妹のことが書かれているところを確かめたあとで、妹のことを書いているとどんなことが分かるかを問いかけてみます。

 

・妹がしゃぼんだまを、とてもおもしろがっていることがわかる。

・補助つき自転車にのって、しゃぼんだまをおいかけている妹がとてもかわいい。

・妹は、まゆちゃんよりもおさないことがよくわかる。

・妹が「やりたい。」といったら、やらせてあげたり、やり方を教えたりしているので、やっぱりお姉さんらしい。

・「そんなにおもしろいのかなあ」で、終わっているけれど、「妹がとてもかわいかった」からこの日記を書いたのだと思います。

 

 こんな話し合いができるようになると、自分のことだけでなく、そこにいっしょにいた人やもの、ここではしゃぼんだまとのかかわりが、その人のそのときの行動をうながしたり、感情にはたらきかけをしていることに気づきはじめるのです。そして、まわりの人や、ものや、ことへの関心を高めていきながら、身の回りのひとやものごとの理解がすすみ、一つひとつのものやこと、人にたいする関係が見えてくるのです。見えてくることにより、どう対処すればよいかがわかってきて、「安心」することもできはじめるのです。

 

 


山田ときさんを偲ぶー6   「流されて」

2016-05-02 15:12:35 | Weblog

      山田ときさんを偲ぶー6

〈2 つぎの一年――原っぱの子らと〉

 流されて

 こうして、つたない第一歩を歩みはじめていた私に、思いもかけぬことがおこってしまっ た。

 一年近い交際のあいだに、校長先生もなかにはいって、進みかけていた国分先生との婚姻 ばなしを、二・三年間、両親のひざもと近くで、勤めていく間に具体化してゆこうという、 理解深い校長先生の厚意が、かえって逆効果となり、翌年三月末に、私はふいに同郡亀井田 尋常高等小学校に転任の辞令をうけとったのだ。

 実家の町の学校にはゆけなくても、もしかしたら、その近くにはいかれるでしよう、そし たら、おとうさん、おかあさんに親孝行できるでしよう、といってくれた校長先生のあっせ んとは反対に、いままでよりはもっと北の方の最上川のほとりに流されてしまったのだ。

 その村には分校あわせて四つあり、私がいったところは、尋常高等小学校で本校と呼ばれていた。あとの三つは尋常小学校だった。雪の名所として、また『奥の細道』で名高い大石 田から北方に約一里(学校まで)、八学級、校長あわせて九人の小さな学校だった。ここも全くの知らない、はじめて聞き、はじめて見た村だったが、女三人のうち、私より六年ばかり先輩の溝川先生がおられることは、たったひとつの慰めだった。

 それで溝川先生とは、学校の往復に、寄宿舎の思い出ばなしを語ったり、たま.には読んだ本の話などをすることもできた。

 ここで、私を待っていてくれたのは、三から集ってきた、新しい七十二人の一年生た ちだった。

 ようやく、子どもとともに生きる線に浮びあがったばかりで、五十人の長瀞の子どもと別 れなければならなかった私は、若い時代の感傷もあり、包みきれぬ悲しさに、子どもたちと いっしよに泣き、もう一度必ず長瀞にもどることを約束して別れた。校長先生も国分先生も、 「どこにいっても、同じ日本の子どもを教えるのだ、元気をだしてやりなさいよ」と励ましてくださったが、やっぱり悲しかった。しかし、七十二人の子どもたちの前に立ってみると、こんな感傷におぼれていることは許されなかった。

 二年目とはいえ、男女合わせて七十二人の一年生に向っては、全く新しいことばかりで、 何も考えるひまがなかった。国分先生は、「子どもを見つめなさい。教室の記録をもちなさい。そこから問題をつかみなさい」と、常に励ましてくださった。私は夢中になって、子どもたちととりくんだ。授業が終わり、子どもたちを見送ると、忘れないうちに、すぐに教室で、その日の子どもたちの会話のなかから、子どもたちのおどろき、欲求、悲しみ、喜び、家庭でのできごと、登校下校時のできごとなどを書き込んだ。宿に帰ってからも、また、思いだしながら書き落しのところをつけ加えた。日記をつけることによって、子どもたちと語り、その母たちと語り、自分を叱り、また慰めた。

 こうして一週間ぐらいたまると、私はそれを国分先生におくり、先生はそれに批評を加え たり、自分のやっているしごとを知らせてくださった。それが文通であった。私はこの手紙 を何よりも待ち、自分の手紙も空虚にならないように、この子どもたちのために専心没頭し た。

 

 私は若かった。今考えてみると、ミスもいっぱいあった。この年の七月からは、日中戦争 がぼっ発し、教育界にも、いよいよ軍国調がのしかかってきていたので、この小さい一年生 たちのいたいけな教室経営にも、遠慮なくその波はおしよせてきた。今考えてみても、はず かしくてたまらないことがいっぱいだ。そのときの日記をひらいてみよう。

                                                山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・P23~P25)より

 


山田ときさんを偲ぶー5   「子どもと生きようとして➁」

2016-05-01 09:25:35 | Weblog

山田ときさんを偲ぶー5

 

   ー 子どもと生きようとして ー➁

 

 そのころ(注―昭和11年頃・野村芳兵衛を中心に『生活学校』を創刊〈10年〉)、いわゆる生活綴方運動は、その絶頂に達し、国分先生は東北地方の先生たちとの連絡に大わらわだった。また、全国的なつながりも密接になり、よく文集や手紙が学校に 送られてきた。『綴方生活』『生活学校』『工程』などの雑誌も、つぎつぎと送られてきた。わかい人たちの教室交流もさかんだった。だから、私も、そういうものを見せてももらうことが 多くなり、師範学校などでは、習わなかった教育の考え方に、少しずつ目をひらかれていった。

 しかし、山形県というところは、とてもめんどうなところだし、今は亡くなった村山俊太 郎先生なども、意見の発表を封じられていたので、国分先生たちは、ひざもとをかためるために大へん苦労していた。前に集っていたという『山形国語日曜会』の人々が、ささやかな 連絡をとっているだけだった。学校でも、「北方性」などということばは使わなかったように思う。ごく地味な教室経営と、学校経営の能率化に努力していた。

 きくところによると、前の校長は、相当やかましく、全国からきた手紙、はがきにはいちいち目をとおし、たまには、先生の手に渡らないでしまうことさえあり、なかでも平野婦 美子さんからの便りは、女であるという理由からも、殊に警戒されたとのことだった。

 国分先生は、こんな便りがあるたびに、「こんな仕事も、子どものためにみんなやればいいんだがね。ほら、平野さんはこんなこともやっているよ」と教えてくださるのだった。人よりボンクラの私でも、なるほど、子どものためにはよい仕事だなあというくらいのことはわかった。そしてできないながらも、いろいろまねしはじめた。生れてはじめて『長瀞子ども』という文集もつくったりした。

 学芸会がきて劇の練習のだんになり、どんなものを選べばよいか迷っては、また相談にいき、「子どもたちの文化活動としての劇でなくてはならない。特定の子どもだけの出演にならないよう、なるべくクラス全体の子どもを生かし、喜ばせるようなものでなくてはいけない」と教えられた。

 男組でやった、先生脚色の『一本のローソク』(『こぶしの花―国分一太郎の世界―』北の風出版・2011年に収録)という、西欧文化輸入当時の農村における 文化の低さを現した劇などは、全く一クラス総動員のもので、学校中の子どもたちをわきた たせたものだった。それは海岸に流れてきたローソクを、知ったかぶりの男が、「目なし魚だ」 と鑑定し、珍らしいものだから、村人がみんなでごちそうになろうというので、大ぜい集り、大鍋に煮、大わらわで膳立ての準備をしたところが溶けてなくなってしまった。一同驚異の目を見はって大鍋をのぞいているという筋だった。

 そんなわけで、自分で、でたらめの曲を探してきては、セリフのなかにもりこみ、一人で も多くの子どもたちを生かそうと努力したものだった。

 また紙芝居といえば、一銭飴やのおじちゃんだけがやるものだと考えられていたあのころ、 絵も文も先生自作のものを農繁期の託児所や、一・二年の教室などでやっては、小さな子どもたちを喜ばせ、なつかれていた。

 それから、理科、地理、国史などの授業にも力を入れられ、いろいろ工夫してやられていたが、なかでも、理科の授業などは、教生時代に附属で見てきたのとは、かなりちがった形 態で、やっぱり子どもたちの生活から引出し、子どもたちの生活に帰結させることの大事な ことに目をひからせられた。私は理科の方はわからないのだが、「さくらは花びらが何枚で、 おしべが何本、めしべが何本などという教科書では、科学教育はできないのだ」ということ をきかされて、なるほどなあと思っていた。

 私はここの一年間で、私たちは、まず子どもたちの幸福になる仕事をしなければいけない こと、それは農村文化を引上げるしごとでなければならないこと、その前提として村の子ど もから文盲をなくする必要のあることなどをつかみとった。

 この生きかたが、今もなお、私の脳髄から離れない。そして雑務に追われてばかりいて、 教案をたてるどころか、ろくな教材研究もできずに、うつろな気持で教壇にたつことのあまりにも多くなった今の生活を考えるとき、自責の念にかられ、またそのようなゆとりのある 教育活動のできる条件を獲得するための組合運動の重要性をしみじみと思う。宮原誠一先生がおっしゃられた『たそがれ教師』の姿をあまりにもありありと自分に見られて、かなしくなるのである。

                   山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・P15~P17)より