ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
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国分一太郎「教育」と「文学」研究会

国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-2 [ 監視機関を作れ]

2016-05-06 15:10:48 | Weblog

  国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-2

 

【教育を追う】「改革」私の意見〈55〉

監視機関を作れ

        国分 一太郎氏➁(児童文学者)

 

――戦後教育のスタートにあたって、物たりなかった点がほかにもありますか。

 「ええ。教育基本法第八条二項に『法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治的教育、その他、政治活動をしてはならない』とありますね。この“政治的教育”を監視する機関を作らなかった点が残念です。と言いますのは、昭和二十五年の朝鮮戦争以後、特定政党や経済界の方針で教育が動かされてきましたね。教科書検定が強化され、教育の地方分権を保障した教育委員会が公選制から任命制に後退しました。そのほか文部省はその時々の内閣の方針にしたがって教育行政をすすめてきた。だから、教育基本法に違反していないかどうか、監視する機関を設けるべきだったんです。違憲審査をする機関として最高裁があるように、また独占禁止法を監視する公正取引委員会が設けられたようにです。

 戦後教育を見直したいとか、憲法を改正したいという動きがいる今の時期にこそ、中央教育委員会といったような監視機関の設置を、国民は真剣に考えるべきです」

 

――自民党は「日教組こそ特定の政治教育しっている」と非難しています。

 「教師もむろん言論、思想の自由を持っています。しかし、教師が個人の言論、思想の自由を大事にし、基本的人権を尊重して民主的な日本を作っていこうと思うなら、子どもに、ある特定の思想を押しつけてはなりません。教師はそうした教育上の原則を厳重に守るべきです。このことは日教組にもやかましく言ってきたことです。むしろ教師は、子どもたちが自分の思想、世界観を形成するために必要な基礎的知識を与えるべきです。単に教育の政治的中立性を守るというのではなく、何が公民にふさわしい政治的教養なのか、平和で民主的な国家をつくるためには、子どもに何を教えるべきなのかを考えて欲しいですな。」

 

――先生たちは授業中に時事問題についての“雑談”をしなくなりましたね。先生の雑談は子どもに社会への目を開かせるのに効果がありましたが……。

 「かつては授業で時事問題や社会についての自由研究がありました。いまはそういうことをあまりやらないようですね。」

1984年(昭和59年)7月11日(水曜日) 毎日新聞


山田ときさんを偲ぶー8  新入のころ➁

2016-05-06 13:24:55 | Weblog

       山田ときさんを偲ぶー8

新入のころ➁

  四月○日

走るようにして登校すると、子どもたちはもう、ほとんどきていた。石板をだして何か盛んに書いている。オルガンをいじつている子もいる。しかし子どもたちと遊ぶ時間の余裕を与えられない私は、ただ「おはよう」と挨接して顔を見るだけ。職員室にもどって新聞を綴ったり、お茶をだしたり、購買部の会計をやつたりして、鐘が鳴ってしまう。一時間近くもある始業前の時間、子どもたちと話すひまもなく毎日こんなことをしていていいのだろうか?

一校時の遊び時間フジコが鼻血を出す。宿直室に抱いてきて、手当をしていると鐘がなってしまう。教室にゆけば、三年の男の子が、「先生、庄蔵と金芳と守正と四人、帰っていったは」と教えにくる。「すぐ呼んできてください」と頼むと、どんどん迎えにいってくれた。しばらくして守正だけ帰ってきたがあとの三人は見えなくなったという。その他にも、カバンを背負い、帽子をかぶって「センセ、エッテエエナダガハ(かえっていいのですか)」ときく子がいた。

 二時間終ると、イシ子が私の手にぶらさがって「オッツア(とうちゃんが)、カセギサイッタ。五ツトマルトマダクルナダ」といつた。続いて金芳は、「ブンジサヨバレテエグハゲ(いくから)、ヒマケロナ(早引させてくれ)」という。すると「才ライノオッツアモカセギサエッタナダ」と桃割姿の赤ら顔のトキ子も告げた。「何日とまってくんなや」と、きくと、「シャネオラ(知らないな、わたし)、マエニチ卜マテエンナダドハ」と、ちよつと、はじらいながら下を向く。

 内気な子だ。生きるにやっと間に合う程度の農家では、結局、現金収入とては全然なく、どうしても出稼ぎにでなければならなかったし、粗末な食べものでその日その日をただ生きているにすぎない農民たちは、やはり、村祭りや他の村の祭りで親戚に招かれてゆくのがひとつの姒楽であり、慰安であった。

 発育不全のフミ子は今日も祖母に連れられてトコトコやってきた。一人娘のこの子は全く 歩くかっこうから、話しぶりまで四•五歳の子どもである。「先生、かぜやっとなおったところだから連れてきたどこよ」と何もわからぬ孫として、よろしく頼まなければならなりこのおばあさんは何度も何度も頭をさげて、カバンを持ってやり、フミ子の小さな手をひいて帰っていった。これも人の子である。このおばあさんにしてみればたった一人のかけがえのない孫である。       山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・29~P30)より