ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

国分一太郎 【教育を追う】「改革」私の意見-3 「人間育てる教育を」

2016-05-08 08:01:42 | Weblog

【教育を追う】「改革」私の意見〈56〉

 人間育てる教育を

                国分一太郎③(児童文学者)

 

 ――教育基本法にあるように、子どもを「平和的な国家および社会の形成者」に育てるためには、どうすればいいと思いますか。

 「それにはまず大人が平和で民主的な国家、人間を大事にする社会をつくるために奮闘努力すべきです。しかし大人たちは、それを怠ってきたのではないですか。より便利な生活を求めすぎて自然を崩壊し、人間的なものを失ってきました。

 野菜なんかもビニールハウスで促成栽培したものが食卓に出まわっていて、子どもに季節の変化を実感させる機会が少なくなっていますね。何でも出来あいの物を与える。科学技術の発達、高度経済成長が生活を、社会を、そして価値観を一変させました。日用品を作る職人や小さな農家、炭焼きをする人などがいらなくなり、家庭では子どもには手伝わせる仕事もなくなって、ただ『勉強しろ』。勉強して会社員や役人になれっていうわけですな。教育もそうなってしまった。いまの社会は子どもたちを不幸にしています。

 こういう時代だからこそ、子どもの教育にいま必要なことは、人間らしいもの――やさしさや、いたわり、人と心を通わせる、といったこと、それに美しいもの、真実なものを、体や目や耳を使って、いろんな現象の中から子どもに探りとらせる力つけることです。その意味で生活綴方は必要なんです。」

 ――そのためには学校をどうすればいいのでしょう。

 「一つは小中高をみんな、うんと小規模校にすることです。そして、読み、書き、算、自然、歴史、社会の基礎的な知識を、時間をかけて、ゆっくり教えることです。また、学校から離れたところに、かなりひろい農場を設けて、子どもたちに農作業をさせる。農場は学校ごとにかわるがわる使えるようにするのです。そこで作物や動物を育てる。生き物が日に日に成長していく過程を体や目や耳で実感させるんです。できれば手工業的なことが出来る小さな工場のようなものもあればいいですな。

 消費文明の中で、子どもたちは出来あいの物ばかりを与えられている。これでは子どもの五感や情操は発達しません。働くことへの姿勢も出てきません。人間らしさを育てるために農作業や手工業をさせるのです。

 ――いまの教育は、あまりにも知識の詰め込みだけですからね。(つづく)

1984年(昭和59年)7月12日(木曜日) 毎日新聞

 


山田ときさんを偲ぶー9 新入のころ③

2016-05-08 07:53:40 | Weblog

山田ときさんを偲ぶー9

  新入のころ③

四月○日

 今の子どもたちを見ていると、全く、マルをもらうための学習である。いつまでもこんなでよいのだろうか?

 帰る時、「アイザワセンセイ、キライナヒト」と、きいたら、芳次、市四郎、信二、芳美、 ヤス子の五人だった。なんのこだわりもなく、「ハイ」と手をあげる無邪気さには苦笑させられた。そのうちの一人、体の小さい芳次は、「ハライタイ」と、机にうっぷして泣いている。

「くすり飲ませるから職員室にゆきましよう」と、手をひっぱったが動かない。

「いやだ」と首をふり、「センセ、ココサ、モツテコエ」という。茶碗に用意していってようやく飲ませた。帰るときも、まだうっぷしている。ちようど、百姓のひるやすみの時間でもあるし、一番多くの子どもたちがきているー鹰の巣と西畑だけで四十一人いたー鷹の巣に 一度もいったことがないので家庭訪問記(西洋紙四半分で作ったノート)を持って、子どもたちといっしょにでかけた。子どもたちは喜んだ。ピョンピョンはねながら、「センセイ、ヨシツグ サエグナガ(芳次の家にゆくのか)、オラエサモアエベナ(うちにもゆこうな)、ツァ(父)モエダ、 アッツ力(母)モエダ」と、それぞれ人に占領されまいと、私の手をぐいぐい引っぱる。フミ子とイシ子はそれでけんかまでする。かわるがわる手をつないで『ヘイタイサン』『日の丸のはた』などを歌ってゆく。満州事変ぼっ発後、ますます軍国主義が濃厚になり、一年生の音楽は、まず『日の丸のはた』『ヘイタイサン』にはじまり、小さな子どもたちは歌といえば『テッツポウカツイダヘイタイサン』でなければだめだった。私たちもそれをいっしようけんめいに歌わせた。教室でも、道を歩くときでも、体操のときも、あけてもくれても『テツポウカツイダヘイタイサン』の教育に専念した。実に忠実な教師だったと、われながら寒心(・・)せざるを得ない。

 農家で冬仕事につくっておくわら草履をはいて、ぼこぼこ砂ぼこりを立てて、子どもたち はあとになり、先になりしてはしゃぐ。この履物は衛生的に考えれば、全く賛成できないも

 のだが、大部分の履物はこれである。脚は、はだしで歩いたと同じに、まっしろになる「布切でも何でもよいから、まちがわないように印をつけてはかせてください」と、『父母への通 信』にも書いてやったのに、印をつけているのは十人ぐらいだけだ。それでも学校にいくのだからといつて、新しいのをはかせてよこす。

カバンをカタカタいわせ、片足でとんでは、つくしを取り、おくれるとまた。パタパタほこりを立てながら、私に追いつく。いつも私の傍から離れず手をぎっしりにぎっているフミノ。フミノに負けて、私の手をつながれなかったイシエは、「センセ、ツクヅクス(つくし)デッ夕、 トテケッガ」と私の顔をのぞく。

「ん」

「そうら、みんな、つくしんぽは袴はいてるね。いくらはいてる」ときくと、「三つ、四つ」と数えては、私の顔を見て、ポンと放り投げて、また別のを取る。

「これ、ゆでて食べられるよ。うんとうまいよ」

「おお、すみれも咲いているな、鷹の巣の人はこんなにきれいなところを毎日通って歩かれていいなあ。先生も毎日こんなところにきたいなあ」

「んだがら、まえ(い)にちくつど(来ると)ええのよ、先生」

 こんな会話をかわしながら、羊の群のようにぞろぞろとに入った。右手は大きな高い崖、左手は広々としたたんぼでその向うに最上川がうねっている。私までが片脚とびでもしたくなるようだった。農夫は肩に、ももひきをひっかけて帰ってくる。子どもたちは、大人 たちとあうと、「オラダノセンセイダ」といわんばかりに、なおはしゃぐ。「に入ったし、 ひるにもなつたんだから、みんな帰ってなさい。先生あとからみんなの家にゆくから」といっても、帰らない。まず守正の家にゆく。おばあさんと三分ばかり話して、街道にもどってみると、子どもたちは、べったり道ばたにしりをついて待っていた。芳次も、もうなおったといって一人でぐんぐん帰っていった。

 ここまできたついでに、家ばかりも少し覚えてゆこうと、道ばたの家にだけチョイチョイ 廻って挨拶だけして歩いた。もう十二時過ぎている。「はらへったろうから、みんな先にいってなさいよ」と、またいったが、きかずに一軒一軒ついて歩いた。道ばたで私を待っているうち、佳三と裕次は喧嘩をはじめたとか泣いていた。一番きかん坊で、こっけいな金助は、「オラエノエ、ココダ」と私の手を引いて案内する。だれかいるのだろうかと思って、はいっていったらだれもいない。「どこへいつたの」ときくと、「タサ(田に)、ママモテエツタナダ」という。ろばたは杉葉やわらくずやらいっぱいで、足のふみばもないくらい。どこに手をついてよいのかわからない。それでも、自分の家を見てもらっただけで、さも満足そうに、カバンをドサツと板の間におろしてまたついてくる。「ひるごはんどうして食べるの」ときくと、朝学校にでかける時、おにぎりをあずけられるのだという。そのおにぎりは、今道ばたで、私を待つ間に食べてきたのだった。顔の青白いフミヨの家には、目の見ぇないおばあさんだけだった。もう一時になった。五年の裁縫にでなくてはならないのでゆっくりしていられない。訪問をやめて帰った。ひる休み時だったので、母親とはたいていあってきた。みんな喜んで迎え、話してくれたのには嬉しかった。家庭訪問記に印象だけをチョッチョッと書きこんで歩いた。家にはいってみればもう何も注文されなくなる。やっぱり家庭を知らずに学校にとじこもっては、子どもに何だのかんだの要求はされないものだ。

 カバンのひもがとれたとて「おかあさんになおしてもらっておいでょ」といってやった自分がはずかしかった。「机上の空論ではだめだ。家庭を知らずには、ほんとの教育はできない」とこれらの仕事の分野を考えなおしながら学校に急いだ。

 途中でうしろから「一年生の先生んないが」と、ことばをかけられて、ふりむくと知らな い人。ところが西畑の栄の父だった。選挙(衆議院議員)にゆくのだった。理知的で良心的な栄をうんとほめてやった。この上の姉たちは学校にださないでしまったから、この子ばかりも満足に学校にだしたいと語るのだった。学校の前で別れた。女子会の役員会があったので、五年に栽縫の自習をいいつけてそれにのぞんだ。終って小使室でごはんを食べ始めたのが二時半ぎ、食べ始めると職員総出の機具整理だといわれて、食べるのをやめ、もんぺをはいて加わった。              山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・P30~PP34)より