ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
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綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

つづる4 三 やさしいものからむずかしいものへ

2015-01-12 12:01:32 | Weblog

教育研究の窓

つづる4

《子どものうちに育てておきたい表現力》

三 やさしいものからむずかしいものへ

―「ある日型」から「いつも型」の作文へ―

 

                   日本語教育部会協力研究所員 田 中 定 幸

 

 

 

(一)「一斉指導」として取り組むときは?

 

 「つづる3」では、「ある日」の昼休みに竹馬で5歩あるけてうれしかったことを「時間の経過」にそって書いたみゆきさんの作文と、「いつも」乗っている竹馬のおもしろさを「まとめて説明風」に書いた彩乃さんの二つの作文のちがいについて考えました。そして、前者を「ある日型」、後者を「いつも型」の作文と名付けることにしました。

 

 ある研究会で、二つの作文を比較した話のあとに、「子どもが作文を書くときには、どちらの方がやさしいと思いますか。」という質問をしたことがあります。

 すると、若い先生が、「いつも型」の作文の方が、何度も竹馬にのって遊んでいて、よく知っている竹馬のことを書いたのだから、子どもにとってはやさしいのではないかと答えました。

 なるほど、そういう考え方もできます。子ども自らが、書きたいことを選んで、そのことを、書きたいように書くというのであったら、そのとおりかもしれません。題材がみつかれば、その時点で子どもの頭の中には、どう書くかという全体の構想も描くことができて、彩乃さんのように書ける場合もあるでしょう。

一年生であっても、お母さんのこと、自分のすきなもの、あるいは大切にしているものについて、書く機会があったら、このように「いつもあること」「よく知っていること」として、「いつも型」の作文として書くことがあります。

 また、とりあげた二つの作文も、「最近したことで、心に残っていることでもよいし、自分が今思っていること、考えていることでもよい。何でもよいから書きたいと思ったことを、一つえらんで、そのことを作文に書きましょう。」こういって書いてもらったものです。

 書きたい内容と意欲が題材を決定することであるから、どちらの方がやさしいとか、むずかしいとかは言えないのかもしれません。

 けれども、前にもふれたように文章表現指導のねらいには、次のことがふくまれるのです。

 

Ⅰ子どもたちの自然や社会への認識、人間についての理解をひろめふかめ、ただしくゆたかにする。

Ⅱ「はじめ」「なか」「おわり」のくみたて・構成をもつところのひとまとまりの質のよい文章をかく能力をのばすこと。

Ⅲみずからが文章をかくという言語活動のなかで、つまり言語の使用のなかで、日本語の発音・文字・単語・文法・語い・文体などについての自分の知識をたしかめ、とぎすますようにさせること。

Ⅳものごとをとらえ、また、とらえなおす過程と、それを文章に表現する過程とを、きちんとむすびつけたところで、子どもたちの認識諸能力(観察するちから、知覚し認知するちから、記憶し表象するちから、すじみちただしく思考するちから、ゆたかに想像するちからなど)をのばしていくこと。(注1)

 

「授業の原則」をふまえて、意図的・計画的に「書くこと」の指導を展開するときには、「ある日型」と「いつも型」、どちらを先に学習するのが子どもにとってはよいのでしょう。

 もう少し、二つの作文をもとに考えてみます。

 

(二)「くり返しのこと」「一回限りのこと」

 

 くり返すことにもなりますが、「いつも型」の作文を書いた彩乃さんは、「竹馬のこと」を題材にして、「竹馬に乗るようになったきっかけ」「うまくなってきた経過」「のりかた」「このごろのようす」「いつも思うこと」などを、頭の中に描いて、それを書いています。

 どのくらいの体験や竹馬についての考えを意識して書いているかはわかりませんが、「いつも竹馬にのっています。」と書いている彩乃さんには、この作文から想像できるだけでも、次のような体験や思いがあったに違いありません。

 ・今、竹馬にむちゅうになっていること。

 ・先生に竹馬をすすめられた日のこと。

 ・友だちと竹馬にのるようになった何日間かのこと。

 ・竹馬の乗り方を教えたときのこと。

 ・友だちに「いいね。うまくできて。」と、何度も言われたときのこと。

 ・さらに、教えたときのこと。

 ・教えた友だちの一人がうまくなったときのこと。友だちの竹馬の乗り方が気になったときのこと。

 ・うまく乗れる方法に気づいたときのこと。

・自分にあった竹馬のえらびかたについて考えたときのこと。

・「このごろ」の練習のこと。

・昼休みには、毎日、毎日竹馬をやろうと思っていること。

 彩乃さんは、このような体験をある時は小さな出来事として、ある時は時間の経過ではなくとぎれとぎれに起こったり、同時に進行したり、複雑にからみあったりしたなかで、何度も体験してきたのです。

こ うした「くりかえし体験したこと」「何度もあったこと」のなかからつかんだ竹馬への思いを、書いているのです。「よく知っていること」として書いているのです。ここに、この彩乃さんの「いつも型」の作文の大きな特徴があります。

 みゆきさんの「ある日型」の作文はどうでしょう。考えられることは、みゆきさんも、彩乃さんと同じように、毎日、竹馬をやっていたにちがいありません。「きのうのひる休みに、たけうまにのっていたら…」と、ごくしぜんに書いている書き出しからも推測ができます。挑戦したら5歩あるけたというところから、すでに何度か練習してこなければ、竹馬に乗ってこれだけは歩けないだろうとだれもが考えます。

しかし、彩乃さんとのちがいは、作文として取り上げたいことは、「きのうの昼休み」に、竹馬にのったときの出来事であり、そのときに思ったことを書きたかったということです。

 「きのう」の竹馬の体験を、その時だけの「一回限りの」こととしてとらえていることです。

 

(三)「ある日型」の作文の学習から

 

どちらの方が、子どもにとっては「やさしい」かと、問われた時には、「ある日型」の作文の方がやさしいと私はこたえます。

そして、先の四つの目標を掲げ、文章表現指導の系統を考えて、たしかで豊かな表現力を育てるために、「一斉授業」として指導をするとき、「ある日型」と「いつも型」のどちらを先にするかというと「ある日型」の指導を先にします。先にしなければいけないとも思うのです。

 

(1)題材のえらびやすさから

 その理由のひとつとしては、題材のえらびやすさが上げられます。「ある日型」の作文は、過去に見たり聞いたり、あるいは体験したりしたときのことで、心に残っている出来事をえらびだせばよいわけです。

 みゆきさんのように、何日もあるいは何回も竹馬で遊んだことがあっても、「きのうの昼休みに竹馬をしたこと」が心に残っているとすれば、それを「一回限りのこと」あるいは「一回性」のこととしとらえるのです。そのことを題材として書けばよいのです。

 そのとき、心がうごいたことを題材化して、あるいは主題として書けばよいことに子どもたちが気づきさえすれば、そうした過去の体験のなかから、幅広く題材をえらぶことができるのです。

 参考作品などを読んで、「ある日型」の作文の題材選びの観点がわかれば、これから起きる出来事のなかからも、題材を見つけることができるという利点もあるのです。

 よく知っている竹馬のことについて説明するように書く場合はどうでしょう。題材を見つけるということでは、「繰り返し経験していること」であり、比較的見つけやすいように思えます。題材を見つけて、書けそうな気がしてくると思います。

 けれども、その竹馬のことについて、何を書きたいのか。どう考え、感じているかを書くときには、多くの場合、概括的で具体性を欠いているために、はっきりさせることがなかなかむずかしいのです。竹馬に対する様々な経験を「分析」したり「整理」したりして、どう考えたり思ったりしているか、関係を明らかにできていなければ、「ひとまとまりの文章」として書くことはむずかしいことなのです。

「私は、毎日のように竹馬にのって遊んでいます。」と書いたあとに、次に何を書こうか迷ってしまう子が多くいます。こう書き出しても、書く対象の全体をとらえたり、分析をしたりまとめたりして、「何を」書きたいのかを明確にしなければ、「いつも型」の作文のタネにはならないのです。

 題材のえらびかたと言う点で、さらにはテーマをはっきりさせて書くということから、「ある日型」と「いつも型」では大きなちがいがあるのです。

 心がうごいた「ある日、ある時のこと」を題材にして書く「ある日型」の作文指導からという第一の理由は、ここの題材のえらびやすさ、題材化の視点にあるのです。

 

(2)構想の面からも

「きのうの昼休みに竹馬をしたときのこと」を、書こうとしたときには、昼休みのはじまりの場面を思い浮かべます。そして、竹馬をはじめたきっかけになるところを思い浮かべて、その場面から書き出していけばよいわけです。

 そして、したことをしたとおり、見たことを見たとおり、「時間の経過、事件の進行」にそって思いだします。かわした会話もできるだけそのとおりに思い出して、「時系列」で書いていけばよいわけです。

 そして、竹馬遊びが終わったところで、文章をおわりにすれば、「はじめ」「なか」おわり」の出来事がそのまま、「ひとまとまりの文章」の組み立てにもなってくるのです。

 それにたいして、「いつも型」の文章では、「わたしは、いつも竹馬にのっています。」と書いた後には、何を書くか、次に書くべきことを、これまでの体験をまとめたなかから、主題に合わせて、ことがらを選び出さなくてはなりません。

 すなわち、全体をとらえ書きたいことを明確にし、そのなかからことがらを選んで、論理的に、あるいは自分の「考え」にそって組み立てを考えなくてはなりません。これを意識して、文章を書くことは、なかなか難しいことなのです。

 それよりも先に、文章を書くためには構成(書く順序)が必要なこと。その構成の一つに「時間の経過にそって書く」というものがあること。この二つを、題材と結びつけて学ばせることができるのが「ある日型」を作文に書き、それを読み合う学習によって、文章表現の「構成」の基本を理解することができるのです。

 この「時系列」の構成で書く文章が理解できた時には、時間の経過にはならない書き方、「考え」の形で書く文章の構成の仕方も理解しやすくなるからです。

 

(3)記述の仕方の点からも

「ある日型」の文章では、時間の経過にそって、したことを思いうかべ、その行動にことばを一つひとつあてはめて「したことはしたとおり」書けばよいわけです。

「一回限り」の過去のこととして書くのですから、一つひとつの体験を思い出して、それにあわせて、「…した。」「…しました。」と過去形表現を使って書いていくのです。

 そして、その行動のあとに話しかけられたのであったら、《そしたら(そして)、あんなちゃんが「あおのとびばこからピンクのとびばこまできて。」といったから、わたしと平さんがいきました。」と、「そして」「それから」「すると」というような順接の接続詞を使ってつなぎながら、その時の会話も書いていけばいいのです。

 これは、時間の経過にそって、具体的なものやこと、すなわち一つひとつ事実とむすびつけて、それにことばをあてはめ、文字に「固着」させていくことになります。文字やことばの使い方にも慣れ、記述・叙述の仕方としては、もっとも基本となること身につけることができるのです。

「いつも型」の文章は、一文一文を、「わたしは、……です。」「このごろは、……です。」というように、これまでのいろいろな体験をまとめたり、やや抽象化したりしながら、経過やことがらをまとめて説明する記述の仕方を求められます。さらに、どのことを先に書くか、どのように書くか、「文」の書き方、「文」と「文」のつながりについてもよく考えて書かなければならないのです。

 ここのところが、書きなれていない子どもにとって、また、ものごとを関連させたりしながら総合的にみることがまだできない子どもにとっては、無理な作業になってしまうからです。

 

(4)書き加えや推敲の面からも

 さらに、文章を書いたあとに読み返すときにも、「ある日型」の作文は、主題につながる大切なことがらがおとさずに書かれているか、「時間の経過・事件の進行」を手がかりにして読み返していけばいいのです。

 書き足りなかったところはないかと、実際に自分が体験したことにそいながら読み返し、足りないところはそのつど、そこに書き加えればよいのです。

 それに対して「いつも型」の作文では、一文一文が連続しないで、並列的であったり、対立的であったりする場合があります。段落どうしの関係も同じことが言えます。また、書かれている文章もまとめて説明されたり、やや抽象化されたりして書かれています。

 ですから、読み返して、「何を」「どこに」「どう付け足したらよいのか」を考えるのがむずかしくなります。主題と関係させて、どのことを入れて、どのことをはぶいたらよいか、その判断がむずかしいのです。

 このように文章を書いたあとの、推敲をどうするかという点でも、むずかしさにちがいがあるのです。

 

(5)鑑賞するときにも

 書いた作品を鑑賞させること、交流することも、大切な学習活動として位置づけられています。この鑑賞のときにも、「ある日型」の作品の学習を先にするほうが、作品の読み方、交流のしかたについても、わかりやすく学ぶことができるのです。

「ある日型」の作文は、時間の経過にそって話が展開されます。そして、友達の名前があげられ、そのときの会話も多く書かれて、だれがどこでどんなことを言ったのか、書き手がそのときどう思ったかが具体的に書かれています。したがって、子どもたちにとっては理解がしやすく、感想や意見を述べやすくなります。

 また、事実、あるいは体験とむすびつけてくわしく書かれているので、その「書き方のよさ」も見つけることができます。具体的に書いてあるので、そのときのその場面に自分自身を重ねる事ができて、書き手のその時々の感覚のはたらかせかたのよさや、心のはたらかせかたのよさなど「対象へのかかわり方」「認識操作の方法」を学ぶこともできるのです。

 こうした力が育ってこないと、「いつも型」の文章のようにまとめて説明風に書かれていることがらに、具体的なことをあてはめて読むこともできないのです。

 また、「いつも型」の文章は、説明であったり抽象化されたかたちで書かれているので、書き手によりそったり、共感したりすることがむずかしく、作文のおもしろさを感じにくいところもあるからです。

「ある日型」から「いつも型」の指導へというのは、子どもの表現意欲を大切にし、「何」を「どんな組み立て」で「どう書く」き、「どう読み合う」かという文章表現過程の上からも考えた、「やさしいものからむずかしいものへ」という指導の段階なのです。

 

(四)子どもの成長・発達という面からも

 

 また、文章表現指導のねらいの〈Ⅰ〉としてあげている「子どもたちの自然や社会への認識、人間についての理解をひろめふかめ、ただしくゆたかにする。」ことのためにも、「ある日型」の文章から書き始めたほうがいいということはいうまでもありません。

 子どもたちに、具体的なもの、個別的なものから、やや抽象化されたもの、さらには本質的なものへと認識させるための第一段階が「ある日型」の文章を書くということなのです。部分的とも言える具体的な体験を、何回か繰り返すうちに、だんだんとその背景がみえてきたり、そのことのもつ本質をとらえたりすることができてくるのです。

 そうしたなかで、共通性や差異、関係などを学んで、指導要領でもいうところの「思考力」「判断力」なども養えるのです。事実を具体的にとらえていることは「活用力」を育てる力とにもなるのです。 

 これまで述べてきた文章表現の基礎・基本のとらえ方と今ここでもふれた、認識の発達という両面からも、「ある日型」の文章を「子どものうちに育てておきたい表現力」の第一段階として位置づけているのです。

 

(注1)国分一太郎『つづり方教育について』むぎ書房  1985年

                            (綴方理論研究会)

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