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喜左衛門のふる里、滝沢集落です。
ここは沼田街道沿いであるとともに、越後の国々から会津藩へ向かう際の通り道ともなっており、人とモノの行き来がある程度あったいにしえからの幹線道路沿い!
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その下地と地勢的ポテンシャルから、この旧街道は現在では新潟方面と会津若松方面とを結ぶ国道252号として拡張整備され、また、JR只見線が並行して走ります。さらに、只見川では水力発電のためのダム建設が行われ、川の様相は様変わり!
おかげで御蔵入騒動当時を忍ぶのは少々難しい
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南山御蔵入騒動の記録誌によると、明治二十年から大正六年にかけて行われた室井平蔵氏の調査で「集落の東側、水田地帯の真ん中にある墓地に喜左衛門の墓があり」とされており、その傍らに案内板があるようです。その頃とお墓の位置は変わってなかった
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お墓の手前、雪の中に一筋の段差のように見えるところをJR只見線が走り、奥の方には只見川が悠々と流れています。
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近くには只見川の支流滝沢川があり、その上流2km程のところには女滝・男滝という名瀑とおう穴群があるとのこと!この雪ですから、とても滝までは辿り着けませんが。。。見たかったな~
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山側からの伏流水が多いせいか、ここは道路に水を吹き出す消雪装置が設置されています。
ここまで豪雪の中では強い味方
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この集落には裏路地が無く、家々の間口は全てこの国道からの出入り!
しかも、出入り口の位置が高い
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洪水が来そうなところでもないのに、不思議な様相です。
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少々時代は違いますが。。。。
御蔵入騒動の50年程後の1700年代後半の記録では、越後国の商人が八十里越街道を通って「鱒、塩引、にしん、いかなどを背負って会津地方を行商した」とされおり、その後、越後国の商人と御蔵入領民衆の両者が物資の輸送量の増加を計るため御蔵入領の代官所に八十里越街道の拡張工事を願い出ています。これによって1841年に整備拡張され、ようやく馬を使っての物資輸送が出来るようになったとされています。(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)
このことから、御蔵入領にあっても貨幣経済が浸透するとともに、越後の商人が輸送量増加を願うほどに御蔵入領の購買意欲が旺盛になったとされています。
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裏を返すと、八十里越街道が拡張される前の御蔵入騒動当時は、荷役が背負って行き来する程度の物流量しか必要としなかったということで、経済力の乏しさが伺えます
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それでもここ滝沢集落は、越後国から八十里越街道を抜けて会津藩へ向かう玄関口的位置にあり、ある程度の交易活動はあったのでは?また、今まで見てきた小栗山集落と新遠路集落よりも開けた土地が多く、山側からの伏流水で水も豊富。しかも、只見川が運んできた肥沃な土壌をもってすれば、ある程度の収穫高は確保できたことでしょうから、そこそこの経済基盤はあったのでは
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見渡しながら思いを巡らします
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●●●○○○ 南山六義民の見た風景 ○○○●●●
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プロローグ
喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3
久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1、 その2
喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2
茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2
儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2
兵左衛門編(界集落)
その1、その2
エピローグ