ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

私と川越

2010年12月01日 | 川越
私は、元々川越の人間ですが、川越に興味を持ったのは、ちょうど9年前のことでした。2001年11月下旬、いつも行く喫茶店のマスターから「川越の人で、歩くとその土地の米の値段が変わってしまう程の人がいたんだって」という一言を聞いてから、調べ始めました。すぐに「横田五郎兵衛」という人物だということがわかりました。そして、調べた結果を地元の皆さんや観光客の方と共有したいと思って始めたのが、「瓦版川越今昔ものかたり」の発行でした。

この前の日曜日(28日)に、川越藩主酒井忠勝について調べなおそうと思い、「川越市史 第三巻近世編」をめくっていたら、その本を購入した日が書いてありました。「2001年11月28日」となっていました。奇遇なことに、ちょうど、9年前のことでした。

この9年間にたくさんの発見と出会いがありました。文献と文献を繋いでゆくとひとつの線となり、それが立体的に見えて来て、昔、昔、川越に生きた人物が、私の中で動き出すような気がしました。

どんな土地にも歴史があります。私は、たまたま川越に育ち(生まれは、都内の病院です)ましたが、どんな土地にも光は当たっており、それを見ようとするかどうかで、光の見え方が違ってくるのかもしれません。私は、川越から出て、浦和、都内、アメリカと、外の世界を少しだけ経験しましたので、生粋の川越人とは言えないかもしれません。

しかし、家の庭を見るとき、「ああ、ここに生まれて良かった」と思います。床の間に花を活け終わったとき、そういう作りの家を造ってくださったご先祖さまに感謝します。やはり、私は、川越と自分の家が大好きなのです。

色々な方が、川越にいらしては、調査し、分析し、コメントされて帰ってゆかれます。しかし、川越を味わうには、長いこと住み続けなければむずかしいかもしれませんね。川越の家は、京都と同じく、間口が狭く奥行きが深いのが特徴です。川越人も、家の造りと似ているかもしれません。

川越は、「江戸の奥座敷」と言われた町です。表面のみをなぞって川越を評価なさる方に対しては、ちょっと面白くなく思う私です。しかし、すべての方を奥座敷に通せるか、というと、むずかしい問題です。家のどこまで招き入れるかは、相手を見てしまうからです。奥座敷という言葉自体が消えてゆく今日にあって、「本当の川越は、あなたの知らないところにあるのですよ」と、伝えたいような、伝えたくないような、複雑な心境の今日この頃です。


ユラーナ
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2 コメント

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「私と川越」異聞。 (JM1LKR)
2010-12-01 21:13:05
「私と川越」ウーム究極な標題ですね!
私も今から40年ほど前に、当時居住していた拙宅の路地が「丸馬場」と呼ばれていたことが気になり、古い川越図書館に通い、「馬場」の言われや、当時の川越城主の履歴を知ることができ、その結果、荻生徂徠がかつて居住していたとか、判りました。
歴史上の人物が、近所に居住していたと考えるとたいへん身近に感じることができました。
TNX DE Jm1LKR CU AGN 88
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どこにでもある・・・ (ユラーナ)
2010-12-01 22:31:12
JM1LKRさま
コメントどうもありがとうございます。JM1LKRさんのお家は、荻生徂徠が住んでいらした場所だったのですか。荻生徂徠が川越と深いご縁があるとは、知りませんでした。そういう事実を突き止めると、自分の住む場所に愛着が湧きますよね。
「私と○○」の○○は、どんな場所でも、誰でもが書くことができると思います。私は、たまたま川越を描くことで「自分のアイデンティティを確立しつつある」ということになりました。「確立した」とまでは言い切れませんが、地元を見つめることによって、生きてゆくのが少しだけ楽になったかもしれません。
小学校、中学と「郷土を描くコンクール」で川越の絵を描いたことが、今日の自分に繋がっていると感じています。
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