本日は、蓮馨寺さんのお盆のお施餓鬼の日でした。「法要の前に、お檀家さんの皆さんに、蓮馨寺の歴史について話をして欲しい」、というご住職からのご依頼を賜りましたので、大変僭越ながら、行って参りました。
私の家は、浄土真宗なので、お施餓鬼というものはなく、どんな行事なのかしらと思っておりました。広辞苑によりますと、「飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会」とありました。
ご本堂の中央に、お塔婆がたくさん立てられており、お供物もたくさん上がっているようでした。その回りに多くのお檀家さんがお集まりになっていらっしゃいました。
私は、浄土宗・蓮馨寺さんの創建当初の歴史についてお話しさせていただきました。
蓮馨寺さんが開かれたのは、戦国時代の天文(てんぶん)18年(1549)、蓮馨尼という女性によってです。甥御さんである感誉存貞上人を小田原より招いて開山といたしました。
感誉上人は、蓮馨寺を開いた5年後、43歳にして、江戸・増上寺の第10世となられました。入山してすぐに「清規(しんぎ)三十三ヶ条」というものを制定され、今も、浄土宗寺院の住職の任命を受ける際には、必ず受講しなければならない「感誉流伝法」というものを定められました。
そして、その感誉上人が育てた直弟子の一人が、増上寺中興の祖と言われる源誉存応上人です。源誉上人は、感誉上人が河越・蓮馨寺に移られると追随し、ご一緒に念仏生活をされ、感誉上人がお亡くなりになると、江戸・増上寺の第12世となられました。
そして、家康が、小田原攻めの後、関東に入ると、増上寺を菩提寺とするわけですが、その住持であった源誉上人と出会いました。
家康は、源誉上人をとても高く評価します。慶長15年(1610)には、後陽成天皇から源誉上人に「観智国師」という国師号が与えられ、名実共に浄土宗の第一人者となり、増上寺は、総本山知恩院と肩を並べるようになってゆきました。そして、元和(げんな)元年(1615)、家康は、浄土宗法度を下し、観智国師は、江戸幕府の知恵袋の一人として重要な役割を果たしてゆくことになります。
天台宗の喜多院には天海僧正がいらして、江戸幕府の政治顧問の役割を果たしたことは有名ですが、喜多院から歩いて10分程の距離にある蓮馨寺には、後に観智国師となる源誉上人がいらしたわけです。川越の町は、戦国時代から江戸初期にかけて、江戸幕府の支えとなる傑出したお坊さんを二人も生んだことになります。
現在は、「小江戸川越」というキャッチフレーズで有名になっている川越ですけれども、「江戸の母 川越」「江戸の奥座敷 川越」という古くからの表現もあります。江戸時代初期の歴史を考えた時、川越が「江戸の母」と言えるだけの歴史を持った町であることは、天海僧正と観智国師の存在だけでも、十分に言えると私は考えています。
そんなことを、40分に渡り、皆さまの前でお話しさせていただきました。
お盆ももう間近ですね。立秋を過ぎて、風が秋風に変わったことを感じるようになりました。
ご先祖さまや先人に手を合わせ、心穏やかな日々を送りたいと思います。
ユラーナ
私の家は、浄土真宗なので、お施餓鬼というものはなく、どんな行事なのかしらと思っておりました。広辞苑によりますと、「飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会」とありました。
ご本堂の中央に、お塔婆がたくさん立てられており、お供物もたくさん上がっているようでした。その回りに多くのお檀家さんがお集まりになっていらっしゃいました。
私は、浄土宗・蓮馨寺さんの創建当初の歴史についてお話しさせていただきました。
蓮馨寺さんが開かれたのは、戦国時代の天文(てんぶん)18年(1549)、蓮馨尼という女性によってです。甥御さんである感誉存貞上人を小田原より招いて開山といたしました。
感誉上人は、蓮馨寺を開いた5年後、43歳にして、江戸・増上寺の第10世となられました。入山してすぐに「清規(しんぎ)三十三ヶ条」というものを制定され、今も、浄土宗寺院の住職の任命を受ける際には、必ず受講しなければならない「感誉流伝法」というものを定められました。
そして、その感誉上人が育てた直弟子の一人が、増上寺中興の祖と言われる源誉存応上人です。源誉上人は、感誉上人が河越・蓮馨寺に移られると追随し、ご一緒に念仏生活をされ、感誉上人がお亡くなりになると、江戸・増上寺の第12世となられました。
そして、家康が、小田原攻めの後、関東に入ると、増上寺を菩提寺とするわけですが、その住持であった源誉上人と出会いました。
家康は、源誉上人をとても高く評価します。慶長15年(1610)には、後陽成天皇から源誉上人に「観智国師」という国師号が与えられ、名実共に浄土宗の第一人者となり、増上寺は、総本山知恩院と肩を並べるようになってゆきました。そして、元和(げんな)元年(1615)、家康は、浄土宗法度を下し、観智国師は、江戸幕府の知恵袋の一人として重要な役割を果たしてゆくことになります。
天台宗の喜多院には天海僧正がいらして、江戸幕府の政治顧問の役割を果たしたことは有名ですが、喜多院から歩いて10分程の距離にある蓮馨寺には、後に観智国師となる源誉上人がいらしたわけです。川越の町は、戦国時代から江戸初期にかけて、江戸幕府の支えとなる傑出したお坊さんを二人も生んだことになります。
現在は、「小江戸川越」というキャッチフレーズで有名になっている川越ですけれども、「江戸の母 川越」「江戸の奥座敷 川越」という古くからの表現もあります。江戸時代初期の歴史を考えた時、川越が「江戸の母」と言えるだけの歴史を持った町であることは、天海僧正と観智国師の存在だけでも、十分に言えると私は考えています。
そんなことを、40分に渡り、皆さまの前でお話しさせていただきました。
お盆ももう間近ですね。立秋を過ぎて、風が秋風に変わったことを感じるようになりました。
ご先祖さまや先人に手を合わせ、心穏やかな日々を送りたいと思います。
ユラーナ