ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

『江戸から東京へ』 第一巻 by 矢田挿雲

2012年01月09日 | 川越
高校の同級生が年賀状で、表題の本を紹介してくれました。現在、読み始めたところです。

冒頭の「麹町(千代田区)」という所に、次のような記述があります。

 江戸に初めて都市の端が開けたのは、長禄元年(1457)4月8日(五百年前)太田道灌が江戸城を築いて後のことである。当時の城は、徳川時代以降のものに比ぶれば、至って粗末であったが、中城、子城、外城を築き、石垣を高こうし、濠(ほり)を深こうし、要害堅固の湯池であった。

 今でこそ、東京人は川越には甘藷よりほかに用はないような顔をしているけれど、道灌が築城した頃は、土地に人間がいないので、川越から工夫の供給を仰ぎ、僅々百日の間に築き上げた。道灌が入城してのちも、川越は地方文化の中心で、風俗、言語すべて川越を真似るのが、ハイカラだったから、東京人は川越に対しても頭が上がらない。そのかわり城をつくる土石はいくらでも手近で得られた。今の東京が人間ばかり多く、石ころ一つ自由に得られないのとは、正反対である。

 道灌の有名な歌に、

   我庵(いほ)は松原つゞき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る

とある松原は、今日の大手町、永楽町、東京駅の辺で・・・



と続きます。

最後の「解説」を読みますと、『江戸から東京へ』は、報知新聞社会部記者、矢田挿雲が、大正9年6月16日から、大正12年9月1日の大震災の朝刊まで、917回、その紙上に、無署名(但、大正11年まで。12年より有署名)で、連載した読みものであることがわかります。

大正時代に書かれたこの文章。まだ、江戸がそれほど遠くなかった時代です。大正9年とは、1920年。明治時代は、1868年からですから、江戸時代が終わって、たった、52年後に書かれたことになります。

私は、常々、川越は、「江戸の母 川越」であると、また、「江戸の奥座敷 川越」であると申し上げて参りましたが、この文章に出会い、それは、間違いではなかったという思いを強くいたしました。

今でこそ、「小江戸川越」と名乗っている川越市ですが、もっと歴史を深く知りましょう。江戸の円熟期になると、確かに大江戸の発展ぶりは目覚ましいものであったかと思います。しかしながら、江戸の風、匂い、音を、まだ、記憶の片隅に残している方が書いたこの文章の意味を、よくよく味わいたいと、川越人としての私は思います。

太田道灌の18代目のご子孫である太田資暁さんも、同様のことをおっしゃっていました。(太田家は、道灌が謀殺されたあと一旦途絶えますが、4代後の「英勝院」が徳川家康の側室となって家を再興し、その後は、水戸徳川家の家老となりました。よって、太田家と徳川家は、親戚関係にあります。)

江戸初期の面影は、川越の中に凝縮されております。それは、喜多院の家光誕生の間、春日局化粧の間、川越氷川神社の八坂神社などに見ることができます。

皆さま、ぜひ、川越にお運びくださいませ。(「まし」、が、正しい川越言葉なのですが)
そして、川越の方も、もう一度、川越の歴史に触れていただきたいと思います。


ユラーナ




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