本日の朝日新聞の投稿欄「声 語りつぐ戦争」に私の投稿記事が掲載されました。
去年、87歳で亡くなった伯父が生前語ってくれた戦争体験を書いたものです。
伯父は、戦艦長門の軍医でした。長門には3人の軍医がいたと言います。私が、伯父から話を聞いたのは、4年前でしたが、その時点で、すでに、長門の軍医は、伯父しか残っていませんでした。
フィリピン沖のレイテ沖海戦のことは、私は、全く知りませんでした。電話の向こうで伯父が話す内容は、今にも、そこに戦艦武蔵や大和が大海原を走っているかのように臨場感溢れるものでした。
鹿児島の鹿屋の特攻隊基地の野戦病院で、銃殺されかけた話もしてくれました。
伯父は、「俺の人生はあそこで終わったんだよ。後はおまけなんだ」と言い、ひたすら、産婦人科医として65年間働き、1万人を優に超える赤ちゃんを取り上げて来ました。私も取り上げてもらった一人です。軍医の伯父が生き残ったことにより、多くの命がこの世に誕生することになりました。
そして、伯父が亡くなった時、そのお顔はとてもやすらかなものでした。
ユラーナ
去年、87歳で亡くなった伯父が生前語ってくれた戦争体験を書いたものです。
伯父は、戦艦長門の軍医でした。長門には3人の軍医がいたと言います。私が、伯父から話を聞いたのは、4年前でしたが、その時点で、すでに、長門の軍医は、伯父しか残っていませんでした。
フィリピン沖のレイテ沖海戦のことは、私は、全く知りませんでした。電話の向こうで伯父が話す内容は、今にも、そこに戦艦武蔵や大和が大海原を走っているかのように臨場感溢れるものでした。
鹿児島の鹿屋の特攻隊基地の野戦病院で、銃殺されかけた話もしてくれました。
伯父は、「俺の人生はあそこで終わったんだよ。後はおまけなんだ」と言い、ひたすら、産婦人科医として65年間働き、1万人を優に超える赤ちゃんを取り上げて来ました。私も取り上げてもらった一人です。軍医の伯父が生き残ったことにより、多くの命がこの世に誕生することになりました。
そして、伯父が亡くなった時、そのお顔はとてもやすらかなものでした。
ユラーナ