私は小中学生に社会も教えていますが、どうも歴史について本当に知っておくべき事実を、教え手も読み手も(テキストや入試問題の)作り手も知らないことが多いようですね。
私の塾の社会のプリントでも、
「韓国人に日本語教育を強制した」
「朝鮮の農民から所有権のはっきりしていない土地を奪った」
などと、まるで日教組が検閲をしたかのような選択肢があって、情けなくなるときがあります。そもそも首都の人口の40%が奴隷だったような朝鮮に、所有権などという概念があったのかとは思いますが・・・。
歴史教育がおかしい、というのが議論されるようになってきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」のおかげでしょう。
以前も私はここの教科書について懐疑的だったのですが、その実物を読んでみて、びっくりしたことがあります。
それは、この教科書が、期待に反して全く右翼的でなく、戦争を賛美したような記述もどこにもないのです。みなさんも、是非、実際に手にとって読んでみてください。本当に、普通の歴史の本です。
大事なのは、伝聞ではなく、自分で・実際に手にとってみることです。もし、「ここが軍国主義的だ」とか「こんなに戦前の天皇主権を賛美している」という箇所があったら、是非コメント蘭で私に教えてください。
もっとも、そういう煽りは、読んだこともない(それか、意図的に愛国心を否定しようとしている)売国左翼の人々がやっているのだとわかるでしょうけどね。
私が最近、自分の言動について大いに反省していることがあります。
それは、「実際に見もしないで、知ったつもりになっていた」ということです。
そう思うようになったのは、夏に西日本の各地をバイクで旅行した後です。
四国の県境などは、本当に不便なところが多いわけです。特に思ったのは、持ち合わせが無くなったとき、預金をおろすのが大変だな、ということでした。
香川の真ん中にある満濃町から、讃岐山脈の向こうにある吉野川市まで、主要地方道を通ってきましたが、銀行というものが一つもないのです。それにも関わらず、どの町や村にも、必ず郵便局はありました。
もし自分がここに住んでいて、「この郵便局は赤字だから、閉鎖します」と言い始めたらどう思うだろう?ここ以外にどこか金融機関と呼べるものがあるのか?
それからどうも、今やろうとしている郵政民営化というのは、どこかおかしいのではないか、と思えてきたのです。
以前の私であれば、マスコミの言うように、郵政民営化を行えば改革が進む、と思い、田舎の郵便局がどうなろうとしったことではない、と簡単に割り切っていたと思います。
いや、むしろ、政治家に公共事業を回してもらって生きているような馬鹿な連中は、苦しんで当然だ、ということさえ考えたことでしょう。
しかし、実際に田舎に行ってみると、そこにも人がいて、ちゃんと暮らしているのを目の当たりにするわけです。そして、東京に集まっている顔のない人々より、人に対して優しいことが多かったりします。
そこで考えてしまうのです。こういう人たちが、本当に政治家のおこぼれをもらって生きているような愚かな人種なのだろうか?きっと、それに頼らざるをえないような仕組みが出来上がってしまっているのではないか?自分の生活のためだったら、多少納得できないことがあっても、地元の名士として政治家を頼ってしまうのは仕方のないことなのではないか・・・と。
そうしてはじめて、地方の連中は馬鹿だから、と、よくわかってもいないのに、勝手に決めつけていた自分を、心底恥ずかしいと思いました。
五木寛之さんの著書である『養生の実技』に、以下のようなくだりがあって、なるほどと思わされたことがあります。
「萩だけでなく、全国どこを歩いても、地方都市は閑散としている。
郊外の大型店に押されて、街なかの商店がのきなみシャッターを
おろしている様子も寂しい。
(中略)
私の考えは末端が大事、ということだ。中心が元気であるためには、
末端の部分がいきいきしていなければならない。人間だと手、
足の先、皮膚や、指先や、とにかく末端が元気である必要がある」
考えてみれば、地方というのは、我々が日々口にする農作物の生まれるところでもあるわけです。
だから、地方が死に絶えてしまえば、我々は毎日の糧食にも事欠くようになってしまうわけです。そして、こんなひどい環境で安いだけが取り柄の農作物を作っている国から食料を買わなければならなくなってしまうのです。
郵政民営化の前に、地方がどっぷり浸かってしまった、土木事業中心の産業構造の転換を実行すべきです。
例えば、ぜひともやってもらいたいのは、建設会社の数を減らす措置です。建設業は公共事業に依存する割合が相当大きな業種であり、生き延びるためには結局政治献金や談合に頼らざるを得なくなっています。その数を適正規模に減らせば、税金の無駄遣いや自然破壊は絶対に減ります。その分、農業や伝統工業の分野で参入規制を緩和すればよいのです。
食糧自給率が低いというのなら、なぜもっと農業に従事する人口を増やそうとしないのでしょうか。いまだに農家の息子娘以外の新規参入が困難な仕組みを変えれば、農家の数は見違えるように増えるはずです。そういう仕組みを作ることこそ、本当の「地方活性化」なのです。
それもせずに、何が「自己責任」、何が「自助努力」でしょうか。羽振りの良いときには票を取る道具として扱っておいて、今になってはしごを外すとは、本当に卑怯なやりかたです。
まあ、その旗振り役をしているライオンヘアーの誰かさんは、地元の横須賀に米軍さえいてくれれば、地元に失業者が増えることもなく、地方の困っている人たちの声など気にする必要がないのでしょうがね!!
補助金は減る、公共事業はなくなる、それでいて農業経営には制約が多い、、あげくの果てには郵便局まで取りつぶされてしまう・・・地方が兵糧責めにあっているようなものです。こんなのが、健全な国だとは私には思えません。
これらはみんな、都会だけで生活していたら、頭でしか分からなかったことです。違う場所で暮らしている人にも、それぞれの生活や利害があるのだと知り、私は自分のものの考え方がずいぶん落ち着いたような気がします。
マスコミが短い記事を断定的に書いているだけで、わかったつもりになっているようなことって、他にもありますよね。
その最たるものは、子供を教えたことも触れたこともない人が唱えている教育制度の問題点でしょうね。まあ、これについてはまた別の機会に述べるとしましょう。
これからも、口を出す以上はいろいろなものを実際に見て、聞いて、味わって、判断するようにしたいものだと思います。
私の塾の社会のプリントでも、
「韓国人に日本語教育を強制した」
「朝鮮の農民から所有権のはっきりしていない土地を奪った」
などと、まるで日教組が検閲をしたかのような選択肢があって、情けなくなるときがあります。そもそも首都の人口の40%が奴隷だったような朝鮮に、所有権などという概念があったのかとは思いますが・・・。
歴史教育がおかしい、というのが議論されるようになってきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」のおかげでしょう。
以前も私はここの教科書について懐疑的だったのですが、その実物を読んでみて、びっくりしたことがあります。
それは、この教科書が、期待に反して全く右翼的でなく、戦争を賛美したような記述もどこにもないのです。みなさんも、是非、実際に手にとって読んでみてください。本当に、普通の歴史の本です。
大事なのは、伝聞ではなく、自分で・実際に手にとってみることです。もし、「ここが軍国主義的だ」とか「こんなに戦前の天皇主権を賛美している」という箇所があったら、是非コメント蘭で私に教えてください。
もっとも、そういう煽りは、読んだこともない(それか、意図的に愛国心を否定しようとしている)売国左翼の人々がやっているのだとわかるでしょうけどね。
私が最近、自分の言動について大いに反省していることがあります。
それは、「実際に見もしないで、知ったつもりになっていた」ということです。
そう思うようになったのは、夏に西日本の各地をバイクで旅行した後です。
四国の県境などは、本当に不便なところが多いわけです。特に思ったのは、持ち合わせが無くなったとき、預金をおろすのが大変だな、ということでした。
香川の真ん中にある満濃町から、讃岐山脈の向こうにある吉野川市まで、主要地方道を通ってきましたが、銀行というものが一つもないのです。それにも関わらず、どの町や村にも、必ず郵便局はありました。
もし自分がここに住んでいて、「この郵便局は赤字だから、閉鎖します」と言い始めたらどう思うだろう?ここ以外にどこか金融機関と呼べるものがあるのか?
それからどうも、今やろうとしている郵政民営化というのは、どこかおかしいのではないか、と思えてきたのです。
以前の私であれば、マスコミの言うように、郵政民営化を行えば改革が進む、と思い、田舎の郵便局がどうなろうとしったことではない、と簡単に割り切っていたと思います。
いや、むしろ、政治家に公共事業を回してもらって生きているような馬鹿な連中は、苦しんで当然だ、ということさえ考えたことでしょう。
しかし、実際に田舎に行ってみると、そこにも人がいて、ちゃんと暮らしているのを目の当たりにするわけです。そして、東京に集まっている顔のない人々より、人に対して優しいことが多かったりします。
そこで考えてしまうのです。こういう人たちが、本当に政治家のおこぼれをもらって生きているような愚かな人種なのだろうか?きっと、それに頼らざるをえないような仕組みが出来上がってしまっているのではないか?自分の生活のためだったら、多少納得できないことがあっても、地元の名士として政治家を頼ってしまうのは仕方のないことなのではないか・・・と。
そうしてはじめて、地方の連中は馬鹿だから、と、よくわかってもいないのに、勝手に決めつけていた自分を、心底恥ずかしいと思いました。
五木寛之さんの著書である『養生の実技』に、以下のようなくだりがあって、なるほどと思わされたことがあります。
「萩だけでなく、全国どこを歩いても、地方都市は閑散としている。
郊外の大型店に押されて、街なかの商店がのきなみシャッターを
おろしている様子も寂しい。
(中略)
私の考えは末端が大事、ということだ。中心が元気であるためには、
末端の部分がいきいきしていなければならない。人間だと手、
足の先、皮膚や、指先や、とにかく末端が元気である必要がある」
考えてみれば、地方というのは、我々が日々口にする農作物の生まれるところでもあるわけです。
だから、地方が死に絶えてしまえば、我々は毎日の糧食にも事欠くようになってしまうわけです。そして、こんなひどい環境で安いだけが取り柄の農作物を作っている国から食料を買わなければならなくなってしまうのです。
郵政民営化の前に、地方がどっぷり浸かってしまった、土木事業中心の産業構造の転換を実行すべきです。
例えば、ぜひともやってもらいたいのは、建設会社の数を減らす措置です。建設業は公共事業に依存する割合が相当大きな業種であり、生き延びるためには結局政治献金や談合に頼らざるを得なくなっています。その数を適正規模に減らせば、税金の無駄遣いや自然破壊は絶対に減ります。その分、農業や伝統工業の分野で参入規制を緩和すればよいのです。
食糧自給率が低いというのなら、なぜもっと農業に従事する人口を増やそうとしないのでしょうか。いまだに農家の息子娘以外の新規参入が困難な仕組みを変えれば、農家の数は見違えるように増えるはずです。そういう仕組みを作ることこそ、本当の「地方活性化」なのです。
それもせずに、何が「自己責任」、何が「自助努力」でしょうか。羽振りの良いときには票を取る道具として扱っておいて、今になってはしごを外すとは、本当に卑怯なやりかたです。
まあ、その旗振り役をしているライオンヘアーの誰かさんは、地元の横須賀に米軍さえいてくれれば、地元に失業者が増えることもなく、地方の困っている人たちの声など気にする必要がないのでしょうがね!!
補助金は減る、公共事業はなくなる、それでいて農業経営には制約が多い、、あげくの果てには郵便局まで取りつぶされてしまう・・・地方が兵糧責めにあっているようなものです。こんなのが、健全な国だとは私には思えません。
これらはみんな、都会だけで生活していたら、頭でしか分からなかったことです。違う場所で暮らしている人にも、それぞれの生活や利害があるのだと知り、私は自分のものの考え方がずいぶん落ち着いたような気がします。
マスコミが短い記事を断定的に書いているだけで、わかったつもりになっているようなことって、他にもありますよね。
その最たるものは、子供を教えたことも触れたこともない人が唱えている教育制度の問題点でしょうね。まあ、これについてはまた別の機会に述べるとしましょう。
これからも、口を出す以上はいろいろなものを実際に見て、聞いて、味わって、判断するようにしたいものだと思います。