明日早いので、今日は小さなネタです。
毎日新聞が、以下のような記事を書いていました。
教育と大いに関連あります。是非ご覧ください。
(以下引用)
<小泉首相>独自の「日中友好論」展開 APEC全体会議
【釜山・伊藤智永】アジア太平洋経済協力会議(APEC)の21カ国・地域の首脳がそろった18日の全体会議で、小泉純一郎首相は議題と関係なく独自の「日中友好論」を展開した。中国に胡錦濤国家主席との会談を断られたが、胡主席も列席する国際会議の場で、一方的に自分の立場を主張してしまう政治パフォーマンスだった。
(引用以上)
私個人の見解としては、小泉首相の経済政策は全く支持するつもりはありません。派遣労働者の規制を緩和する「雇用破壊」を行っており、経団連の要求丸のみだからです。(派遣労働者なら福利厚生が不要で、要らなくなるとすぐ首を切れるので、リストラがしやすい)
しかし、首相には評価すべき点がたくさんあります。北朝鮮による日本人拉致という問題が日の目を浴びたのも、小泉政権だったからこそです。また、他国の慰霊や霊的信仰に対して、干渉してくるバカな国が日本の周りにたくさんいることを気づかせてくれたのも、首相が自分の意志を貫いて靖国神社にお参りしたからこそでしょう。
それを、どうでしょう。この毎日新聞の態度!!
朝日新聞という、もっとひどいメディアはありますが、毎日の記事も明らかに偏見が差し挟まれていますね。読んでいて腹が立ちます。
何も、私は首相というものは批判してはいけない、などと言うつもりはありません。国の将来を思うのであれば、良くない点は多いに、批判すべきでしょう。
しかし、どうもこの国のメディア(特に、朝日や毎日系列)は、権力の座にいる者に対して、国民の反感を煽るような報道をわざとしているのではないかと思えるような節があります。
子どもを教えていて気になったのですが、首相のことを、子どもがやたらと「小泉」と呼びつけにすることが多いのです。
子どもは、大人の鏡ですから、どこかで小泉首相を小馬鹿にしている大人がいるのでしょう。(だいたいは、平和とか人権が大好きな日教組の教師でしょうが)そして、それに「お墨付き」を与えているのが、大新聞の態度なのではないかと思います。
権威に対する盲信は危険ですが、逆に権威を全く尊重しないこともまた危険です。それは、規範意識が低くなってしまうからです。
「怖い人」「敵わない存在」がいる、と思うのは、大事なことです。そうでもなければ、人間は必ず「自分は何でもできる」と傲慢になってしまいます。
これが子どもとなると、より症状は深刻になります。
子どもは生まれただけでは「人間」ですらありません。放っておけば勝手に育つのは、本能を持った動物だけです。
だからこそ、親を中心とした大人が、社会から見て妥当だと思える価値観を「注入」しなければならないのです。このことを欠くなら、もうそれは「教育」とは言えません。その過程において、「怖い人」「敵わない存在」があることが重要になります。ルールや社会規範の存在を、有無を言わさず分からせることができるからです。
ところが、戦前に対する反動なのか、いわゆる「リベラル」だとか「左翼」だとかいう人々には、子どもに価値観を教え込もうという姿勢が全く見られません。日教組がよく主張する、「子どもも対等の人格」「何でも言い合える信頼関係」などという言葉がそれを象徴しています。
私が以前、●教育勅語を扱った記事で申し上げたとおり、戦前の教育は決して権威一辺倒ではなく、むしろ他の国に例を見ないような「利他精神」の浸透という大きな成果を挙げていたのです。
ところが、敗戦後アメリカに占領されると、戦前の仕組みを誹謗すれば「善人」であり「インテリ」であるという妙な風潮が広まりました。戦後間もないころの選挙で、共産党が大きく議席を伸ばしているのも、「戦前に弾圧されていた人たちだから何かいい人たちに違いない」という贖罪意識が日本人にあったからでしょう。
そういった国民の「リベラル化」「脱・戦前化」を後押ししていたのが、朝日や毎日のような左翼的メディアだったのです。
その頃の日本であれば、まだ権威を否定する論調に少しは意味があったのでしょう。少なくとも害は大きくありませんでした。なぜなら、戦前生まれの人々が保守的な傾向を維持して、うまくバランスが取れていたからです。
ところが、それがおかしくなりはじめるのが、教育勅語を全く知らず、戦後教育オンリーで育った団塊の世代と言われる人々が大きくなってきた頃からです。旧世代にはなかった、おかしな現象が次々出始めるのです。
まず、1960年代から70年代にかけての「学生運動」です。戦後教育の、「反権威」「反権力」教育が、大学生を中心とした反社会的暴動という形で吹き荒れました。
そして、団塊の世代が子育てを始めた80年代には「校内暴力」が始まります。「反権威」は、身近にいる教師や学校というものに矛先を向けたわけです。
さらに、90年代になり、この世代が社会の中で重要な役割を占めるようになると、「地下鉄サリン事件」「援助交際」」「親父狩り」といったモラルの低下が見られるようになります。自分たちが権威を否定してきたために、道徳的倫理的なモデルを演じることが出来ず、社会を混乱に陥れていることがよくわかります。
非常に強引な解釈かも知れませんが、要するに戦後教育しか知らない世代が増えるにつれて、世の中におかしな事件が起こるようになっているような気がするのです。
団塊の世代と、戦前育ちの人々を比べてみると、どうも子どもにどう見られるかという大人としての自覚が欠けているような気がしてなりません。昔は、大人が「俺には俺の(親としてではない)人生がある」「どう生きようと俺の勝手だ」などという自分本位の発言はしなかったはずです。それが、団塊の世代以降はむしろ、それがよくある風景になってしまっています。ドラマなどで、良き父親・母親を演じるのに疲れた役柄が多い(子育てが「自己実現」を邪魔する悪になっているという描き方がされている)ことに、それが現れています。
私は、こういった事柄を、「非責任」と言っています。そもそも責任のある立場に就こうとしていないのです。
「いつまでも若くありたい」「いくつになっても女として見られたい」「自分の人生を楽しみたい」・・・気持ちは分かりますが、子どもを一人前の人間にするということをもう少し重視してほしいと思います。
その第一歩として、子どもの前で権威を否定しないということをやってみてはいかがでしょう。
先ほども言いましたが、子どもが規範意識を持たないのは、大人がそういうことを許容する言動をしているからです。その最たるものが、権威の否定なのです。「そういうつもりで言ってない」と言ってもダメです。子どもに「反権威」だと受け取られている時点でアウトです。
例えば、私のような塾の先生が、子どもを「デブ」だの「チビ」だの「ブサイク」だの、容貌を誹謗するような発言をして、「お子さんの悪口を言うつもりはなかった」と言ったら、許せますか?それと同じなのです。
批判をするにしても、きちんと評価すべき点を挙げて、「しかし、こういうところを改善してほしい」という風に、言い方を考えるべきです。だいいち、首相のことを呼び捨てにして、何か得をすることでもあるんですか?
ある意味、中華意識を丸出しにして日本を誹謗中傷罵倒してくる国々に対し、「お前たちの言いなりにはならないぞ!」という態度で臨んでいるのが小泉首相だという見方もできるのです。
朝日や毎日は、金正日や北朝鮮を非難すると、「大事なのは宥和の精神」「友好関係こそ第一だ」などとバカなことを言うくせに、小泉首相のことになると、なんでもかんでも「パフォーマンス」や「劇場型政治」、さらには「女子どもをターゲットにしたずるいやり方」などと、100%決めつけをします。●こういう情けない野党を勝たせたいのはわかりますが、彼らの態度は「反権威」を助長し、国民に対して政治権力への反感を植え付ける結果になっています。
それが政治的な無関心にもつながっていると言えるのではないでしょうか。「選挙に行きましょう」「政治は大切です」という前に、お前らが権威を侮辱するような態度をやめろ!!と言いたいです。
日本人は政治に対して絶望しているというより、権力に対して要らぬ反感を抱きすぎて、政治に求める役割を見失っているだけなのでしょう。そして、その反感を生み出しているのが、上に挙げたような誹謗としか思えない記事を平気で掲げるメディアなのです。
権威の持つ「重み」を尊重した上で、現実的な批判をできるよう、まずは我々大人からがんばっていきたいですね。
・・・あ、小さな記事にするつもりだったのに
毎日新聞が、以下のような記事を書いていました。
教育と大いに関連あります。是非ご覧ください。
(以下引用)
<小泉首相>独自の「日中友好論」展開 APEC全体会議
【釜山・伊藤智永】アジア太平洋経済協力会議(APEC)の21カ国・地域の首脳がそろった18日の全体会議で、小泉純一郎首相は議題と関係なく独自の「日中友好論」を展開した。中国に胡錦濤国家主席との会談を断られたが、胡主席も列席する国際会議の場で、一方的に自分の立場を主張してしまう政治パフォーマンスだった。
(引用以上)
私個人の見解としては、小泉首相の経済政策は全く支持するつもりはありません。派遣労働者の規制を緩和する「雇用破壊」を行っており、経団連の要求丸のみだからです。(派遣労働者なら福利厚生が不要で、要らなくなるとすぐ首を切れるので、リストラがしやすい)
しかし、首相には評価すべき点がたくさんあります。北朝鮮による日本人拉致という問題が日の目を浴びたのも、小泉政権だったからこそです。また、他国の慰霊や霊的信仰に対して、干渉してくるバカな国が日本の周りにたくさんいることを気づかせてくれたのも、首相が自分の意志を貫いて靖国神社にお参りしたからこそでしょう。
それを、どうでしょう。この毎日新聞の態度!!
朝日新聞という、もっとひどいメディアはありますが、毎日の記事も明らかに偏見が差し挟まれていますね。読んでいて腹が立ちます。
何も、私は首相というものは批判してはいけない、などと言うつもりはありません。国の将来を思うのであれば、良くない点は多いに、批判すべきでしょう。
しかし、どうもこの国のメディア(特に、朝日や毎日系列)は、権力の座にいる者に対して、国民の反感を煽るような報道をわざとしているのではないかと思えるような節があります。
子どもを教えていて気になったのですが、首相のことを、子どもがやたらと「小泉」と呼びつけにすることが多いのです。
子どもは、大人の鏡ですから、どこかで小泉首相を小馬鹿にしている大人がいるのでしょう。(だいたいは、平和とか人権が大好きな日教組の教師でしょうが)そして、それに「お墨付き」を与えているのが、大新聞の態度なのではないかと思います。
権威に対する盲信は危険ですが、逆に権威を全く尊重しないこともまた危険です。それは、規範意識が低くなってしまうからです。
「怖い人」「敵わない存在」がいる、と思うのは、大事なことです。そうでもなければ、人間は必ず「自分は何でもできる」と傲慢になってしまいます。
これが子どもとなると、より症状は深刻になります。
子どもは生まれただけでは「人間」ですらありません。放っておけば勝手に育つのは、本能を持った動物だけです。
だからこそ、親を中心とした大人が、社会から見て妥当だと思える価値観を「注入」しなければならないのです。このことを欠くなら、もうそれは「教育」とは言えません。その過程において、「怖い人」「敵わない存在」があることが重要になります。ルールや社会規範の存在を、有無を言わさず分からせることができるからです。
ところが、戦前に対する反動なのか、いわゆる「リベラル」だとか「左翼」だとかいう人々には、子どもに価値観を教え込もうという姿勢が全く見られません。日教組がよく主張する、「子どもも対等の人格」「何でも言い合える信頼関係」などという言葉がそれを象徴しています。
私が以前、●教育勅語を扱った記事で申し上げたとおり、戦前の教育は決して権威一辺倒ではなく、むしろ他の国に例を見ないような「利他精神」の浸透という大きな成果を挙げていたのです。
ところが、敗戦後アメリカに占領されると、戦前の仕組みを誹謗すれば「善人」であり「インテリ」であるという妙な風潮が広まりました。戦後間もないころの選挙で、共産党が大きく議席を伸ばしているのも、「戦前に弾圧されていた人たちだから何かいい人たちに違いない」という贖罪意識が日本人にあったからでしょう。
そういった国民の「リベラル化」「脱・戦前化」を後押ししていたのが、朝日や毎日のような左翼的メディアだったのです。
その頃の日本であれば、まだ権威を否定する論調に少しは意味があったのでしょう。少なくとも害は大きくありませんでした。なぜなら、戦前生まれの人々が保守的な傾向を維持して、うまくバランスが取れていたからです。
ところが、それがおかしくなりはじめるのが、教育勅語を全く知らず、戦後教育オンリーで育った団塊の世代と言われる人々が大きくなってきた頃からです。旧世代にはなかった、おかしな現象が次々出始めるのです。
まず、1960年代から70年代にかけての「学生運動」です。戦後教育の、「反権威」「反権力」教育が、大学生を中心とした反社会的暴動という形で吹き荒れました。
そして、団塊の世代が子育てを始めた80年代には「校内暴力」が始まります。「反権威」は、身近にいる教師や学校というものに矛先を向けたわけです。
さらに、90年代になり、この世代が社会の中で重要な役割を占めるようになると、「地下鉄サリン事件」「援助交際」」「親父狩り」といったモラルの低下が見られるようになります。自分たちが権威を否定してきたために、道徳的倫理的なモデルを演じることが出来ず、社会を混乱に陥れていることがよくわかります。
非常に強引な解釈かも知れませんが、要するに戦後教育しか知らない世代が増えるにつれて、世の中におかしな事件が起こるようになっているような気がするのです。
団塊の世代と、戦前育ちの人々を比べてみると、どうも子どもにどう見られるかという大人としての自覚が欠けているような気がしてなりません。昔は、大人が「俺には俺の(親としてではない)人生がある」「どう生きようと俺の勝手だ」などという自分本位の発言はしなかったはずです。それが、団塊の世代以降はむしろ、それがよくある風景になってしまっています。ドラマなどで、良き父親・母親を演じるのに疲れた役柄が多い(子育てが「自己実現」を邪魔する悪になっているという描き方がされている)ことに、それが現れています。
私は、こういった事柄を、「非責任」と言っています。そもそも責任のある立場に就こうとしていないのです。
「いつまでも若くありたい」「いくつになっても女として見られたい」「自分の人生を楽しみたい」・・・気持ちは分かりますが、子どもを一人前の人間にするということをもう少し重視してほしいと思います。
その第一歩として、子どもの前で権威を否定しないということをやってみてはいかがでしょう。
先ほども言いましたが、子どもが規範意識を持たないのは、大人がそういうことを許容する言動をしているからです。その最たるものが、権威の否定なのです。「そういうつもりで言ってない」と言ってもダメです。子どもに「反権威」だと受け取られている時点でアウトです。
例えば、私のような塾の先生が、子どもを「デブ」だの「チビ」だの「ブサイク」だの、容貌を誹謗するような発言をして、「お子さんの悪口を言うつもりはなかった」と言ったら、許せますか?それと同じなのです。
批判をするにしても、きちんと評価すべき点を挙げて、「しかし、こういうところを改善してほしい」という風に、言い方を考えるべきです。だいいち、首相のことを呼び捨てにして、何か得をすることでもあるんですか?
ある意味、中華意識を丸出しにして日本を誹謗中傷罵倒してくる国々に対し、「お前たちの言いなりにはならないぞ!」という態度で臨んでいるのが小泉首相だという見方もできるのです。
朝日や毎日は、金正日や北朝鮮を非難すると、「大事なのは宥和の精神」「友好関係こそ第一だ」などとバカなことを言うくせに、小泉首相のことになると、なんでもかんでも「パフォーマンス」や「劇場型政治」、さらには「女子どもをターゲットにしたずるいやり方」などと、100%決めつけをします。●こういう情けない野党を勝たせたいのはわかりますが、彼らの態度は「反権威」を助長し、国民に対して政治権力への反感を植え付ける結果になっています。
それが政治的な無関心にもつながっていると言えるのではないでしょうか。「選挙に行きましょう」「政治は大切です」という前に、お前らが権威を侮辱するような態度をやめろ!!と言いたいです。
日本人は政治に対して絶望しているというより、権力に対して要らぬ反感を抱きすぎて、政治に求める役割を見失っているだけなのでしょう。そして、その反感を生み出しているのが、上に挙げたような誹謗としか思えない記事を平気で掲げるメディアなのです。
権威の持つ「重み」を尊重した上で、現実的な批判をできるよう、まずは我々大人からがんばっていきたいですね。
・・・あ、小さな記事にするつもりだったのに
社会性を持つ動物。例えば犬や狼、猿の類でさえ、リーダーに対する敬意を持つことを学びます。それは、教育によってです。
だから、飼い犬の教育は非常に大事なんです。
ましてこれだけ複雑怪奇な社会をもつ人間の子です。
放任すれば育つなんて事は100%ありませんよね。
まあ経済政策に関しては年収400万以上の方には残業代をつけなくていいという悪法を通そうとしてますから……。ちょっとというかかなり困る。
でも外交面を任せられないのですよね。小泉さんというか自民党以外に……。それが日本の政治最大の問題点でしょうね。
やはり、まだ日本では”小泉=変人”(ここでは彼らの考えに則って書いたので敢えて呼び捨てです)という報道スタイルが幅を利かせているようですね。小泉批判さえすればインテリだと見なされる、という愚かな考えは、やはり媚中韓組織が生み出し、蔓延らせたものでしょう。そして一般の人々の中でも自分なりの確固とした理由で小泉首相を批判するのではなく、そういったマスコミ連中におどらされて報道内容そのままに批判している人も少なくないでしょうね。
ここヨーロッパでは逆に小泉批判はほとんど聞いた事がないですが(どちらかというと好意的な目が多いと思います)、やはり過去の謝罪外交、中国の効き目抜群プロパガンダで日本悪玉論はまだまだ根強いです。というか、そういう見方のみです。もちろん、それを日本自身が肯定し続けてきたのですから、誰も疑う訳ないですよね。日本国内でもまだそう信じて疑わない人の方が多いんですからね。
その通り。権威を批判することと、権威を尊重することというのは、両立する概念です。いや、むしろ、両立させなければいけない概念と言うべきです。
左翼は理性的な批判ができません。なぜなら、マルクス主義的史的唯物論なるものから演繹することでしか物事の是非を論ずることができないからです。だから、揚げ足取りとしか思えない誹謗を、数百万部売る新聞が恥ずかしげもなく記事にしてしまうのです。
そういう論調にのっかっている第一野党も、一回滅んだ方がいいと思います。
>ちひろさん
小泉首相の欠点としては、もうひとつ、「個人プレー」が多すぎるという点があります。彼の後継者が利用可能なフォーマットで政権を運用していないのです。もっとも、それだけ彼の政治センスが卓越しているとも言えます。
あと1年弱は、もうそういう下地作りだけやればいいと思います。
>Marieさん
ドイツでもそうなんですか・・・。自分も結構最近まで彼の政治手法には否定的だったのですが、靖国神社の件でかなり見直しました。あれが彼なりの「国体」の示し方なのだと評価したいです。
今日電車で隣りになった老婦人が、「孤立化する小泉」うんぬんを記事にした朝日新聞を真剣に読んでいました。「それ、捏造ですよ」と言うべきか真剣に迷いました(笑)。
だから、反撃の用意があるという構\えや、わかりやすいアピールは有効だと思います。そうしないと押し込まれて負けですからねえ。
塾の先生でしかない私にもこんなことくらい分かるのに、日本のクオリティペーパーとか自称する新聞や、第一野党の党首に分どうしてわからないんでしょうねぇ?(笑)
官邸が上のような普通の感覚で反撃したのなら、我が国もまともな国策ができるんだなと一安心です。次の首相もこういうやり方「は」真似してほしいです。
また、おじゃまします。
>どこかで小泉首相を小馬鹿にしている大人がいるのでしょう
その正体は、『週刊@代』辺りに代表される”ゴシップとヘアヌード大好き週刊誌”です。
彼らが見出し等で大々的に「小泉、小泉・・・・」などど言い始めたのが発端であると思っております。
それはさておき、「権力に対する批判」はあってしかるべきと思います。
だけど、それには”相応の批評眼”が必要のはずです。
少なくとも、一時期流行した「ネオコン」とか「親米ポチ」なる言葉でもっていわゆる”レッテル貼り”をするのは、感心いたしませんね。
要するにこの人達、単に何も考えずにセンセーショナルな言葉にて権力への反感のガス抜きをしたいだけなのか?
(正直言って、これもどうかと思いますが)
あるいはメディアという”権力”(ここは大事です)のご威光にて、巧みに権力への反感を刷り込みたいのか?
(こっちは、特定勢力のバックアップがあれば問題ですよ!)
その、どちらかと思いますね。
>”ゴシップとヘアヌード大好き週刊誌”です。
確かに・・・ゴシップもヘアヌードも教育には
不適切ですね。(笑)
中吊り広告など、子どもが見たらどうするのかと、
目も当てられないひどさですからねぇ。
>彼らが見出し等で大々的に
>「小泉、小泉・・・・」などど言い始めたのが
>発端であると思っております。
その通りです。鋭い指摘だと思います。
だいたい、我々もヘッドラインや見出しだけを見て
その事象をしったつもりになっていますよね。
そういうところからでも思想浸食は進むという
ことですね。
雑誌によっては、発行部数はえらく少なく、書店で
めったに見かけないのに、中吊り広告だけは
やたらと出ているものもありますからね。
あれこそ、「特定勢力のバックアップ」の
賜物でしょう。(はて、どこかな??)
日頃、自分が感じていたことを
代弁してもらったような気分です。
忙しい毎日のなか、情勢を正しく判断し
伝えていこうという気力が
しっかり届いています。
これからも読ませていただきます。
どうか、お体も大切に!