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宗教アレルギー

2017年04月30日 19時28分33秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
聖書やキリスト教に関する本などを読むと「神様が一番正しい(最も善の存在)」とか「神様にさからうのは罪だ(悪い事だ)」などと書いてあるが、そんな話を聞いて納得する事ができたり、はっきりと理解できる能力がある人というのは、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べて中毒症状を起こしてしまっている、罪のある人間(罪人)だけではないだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の、罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」には、善悪の知識はなかったのだから、当然ながらアダムとエバは「神様が一番正しい」とか「神様にさからうのは罪だ」などという話を聞いたところで、何が善で、何が悪なのか?などという善悪の判断など出来るはずがない。
つまり、「神=善」「神にさからう事=悪」という知識さえ持っていないという事だ。
そんなアダムとエバは、神様の話だけを忠実に守らず、ヘビの言う事を聞いてしまって「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べたのかも知れないが、そこに「悪意」などというものはあったのだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなく、罪がない人間というのは、ある意味「赤ちゃん」のような全く汚れのない人間という事になるかも知れないが、そんな善悪の判断など出来るはずのない人間が、どうやって「神様の話だけを忠実に守る事こそが善だ」とか「ヘビの言う事を聞くのは悪だ」などという事を理解できるのだろうか?
そんな善悪の判断をしようと思っても、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の段階では、不可能ではないだろうか?
 
アダムとエバの物語では、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた後、エバは「ヘビに騙された」と言い訳をしただの、アダムは「女に騙された」と言い訳をしただのと語られているが、そのような言い訳をして自分を正当化しようとする知識そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって得られた知識であって、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前のアダムとエバは、そのような言い逃れをするような、ずる賢い人間ではなかったのではないだろうか?
つまり、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなかったから、何も分からないまま「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べてしまったのであって、その後、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって現れた「言い逃れ」や「ずる賢くなる」といった症状が、あたかもアダムとエバの本来の性質であるかのように語られているのは、どう考えてもおかしな事ではないだろうか?
 
そして、もはや「神様を信じる事は善である」とか「神様を信じない事は悪である」などと言い続けるほうが、いつまでも「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた中毒症状から抜け出す事ができずに、罪を持ち続ける事になってしまうのではないだろうか?
このような事に、ほとんどのクリスチャンたちは全く気付いておらず、ただひたすら盲目的に「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続けているように見えるのは僕だけだろうか?
そうやって、神を信じる事によって、自分の罪を許してもらおうとしているのだろうが、そのような行動には大前提として必ず「神=善」「自分=悪」という意識が働いており、その時点で、すでに「神」と「自分」という2つの存在を、善悪で裁いてしまっている。
キリスト教には「裁いてはいけない」という重要な教えがあるはずなのに、なぜ「神」と「自分」という存在を善悪で裁くのだろうか?
これでは「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続ける限り、「神=善」「自分=悪」という裁きを行い続ける事になり、キリスト教の「裁いてはいけない」という大切な教えに逆らい続ける事になってしまうので、どうやっても罪から逃れる事ができず、許しも救いも受けられないにもかかわらず、死ぬまで神様を信じ続けなければならないというマインドコントロールから抜け出せなくなってしまうのではないだろうか?
逆に言えば、「神=善」「自分=悪」という善悪の違いさえも理解できない、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」の状態に戻るほうが、本当の意味での許しや救いを受けることが出来るのではないだろうか?
 
他にも、キリスト教には「敵を愛せ」という重要な教えがあるのに、なぜアダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が罪だという事になっているのだろうか?
「ヘビの話なんか聞くもんか!」という傲慢な態度では「敵を愛せ」という大切な教えに逆らう事になってしまい、それこそ罪になってしまうのではないだろうか?
敵であるヘビの話であろうと、素直に受け入れてあげたほうが「敵を愛せ」という教えを忠実に実践する事になるので、むしろ神様は喜ぶのではないだろうか?
そんな疑問も生まれてくるのだが、どういうわけか世間では、アダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が「神様を裏切る行為でしかなく悪い事だったとしか言いようがない」という風に解釈されてしまっているようだ。
だが、そのような解釈に縛られてしまう事そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事による中毒症状であり、「神=善」「ヘビ=悪」という裁きを行い続けている、罪のある人間(罪人)の思考パターンなのではないだろうか?
 
なぜ、こんな話をするかと言えば、過去の僕自身が「聖書の誤学習の危険性」というものが存在する事を知らないまま、単純に「神様が一番正しい!」(神=善)とか「キリスト教を信じるのは絶対に良い事だ!」(キリスト教=善)などと思い込んでいて、それ以外の考え方がある事さえ知らなかった時期が、最も精神的にメチャクチャだったからだ。
もう7~10年前の頃だが、その頃の僕の頭の中は、世界中で大問題になっている「イスラム過激派」と同じような状況だった。
周りを見れば神様の教えを守っていない悪人だらけにしか見えず、この世は地獄だとしか思えなかったし、神様の教えを守りきれない自分の事も悪人なのだと思い込み、ならばイエス・キリストのように自ら死を選べば神様のようになれて、この世の全ての悪人たちを天国に連れて行けるのだと思い込み、自殺まがいな行為をした事も2回あった(詳細を知りたい人は「アスペルガー自閉症」カテゴリーの過去の記事を参照して下さい)
 
「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど、良い人間になれて世の中も平和になるのだと思い込んでいたが、実際には「良い事」というのは「自分にとって都合の良い事」であって、「正しい事」というのは「自分にとって正しい事」でしかなく、それは「他人にとって都合の悪い事」とか「他人にとって間違っている事」になってしまっている場合も多いのだが、そんな事には全く気づかず「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」を単純に「良い事」「正しい事」だと思い込んでいたので「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど他人の気持ちや考え方が分からなくなり、周りは「面倒くさい人」「ふざけている人」「間違っている人」「何も分かっていない人」だらけにしか見えなくなっていた。
そんな状態では常に他人を避けまくるしかなく、または「何も分かっていない間違った人たち」に自分の正しさを証明しようと意地を張って死に物狂いで努力してみたり、他人を避けている事を悟られないように「人それぞれ」などという便利な言葉を使って良い人間のふりをするばかりで、本音で話し合える仲間はいなかった。
 
「人それぞれ」という言葉も、他人を理解するためではなく「だから自分は、このままでいいんだ」と利己的な目的で使っていたので、色々と面倒な事を言ってくる人がいれば「なんでオマエの言う事を聞かなきゃいけないんだ!人それぞれなんだから自分が何をしようと自由だろ!」といった感じで他人を拒絶し、結局は「人それぞれ」だと言いながら、自分にとって都合の悪い人の事は理解しようとせず、自分の心を閉ざしてしまっている事にさえ気づいていなかった。
そうやって相手を責める事によって、相手のほうが自己中心的な人間なのだと勝手に判断し、自分は自己中心的ではないという事にしようと必死になっているので、常に心に余裕がなく、ちょっとした事で誰かと争いが始まるばかりで、望んでいる事と実際に起こる事は矛盾だらけだった。
そして、こんな風に自分の人生がメチャクチャになってしまったのは、キリスト教のせいだと思ったので、キリスト教はカルト教団だと思い込んでいた時期もあって、その頃は、キリスト教会に行く事さえ恐怖に感じたりしていた。
 
そんな時「聖書の誤学習の危険性」や「物事を善悪で区別する事の危険性」などについて書いてある「平和の絵本」をインターネットで見つけた。
「平和の絵本」に書いてある内容は、当時の僕にとっては衝撃的で「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢を示してくれているようで、一気に心が楽になって救われた気分になり、やっと自分が探し求めていたものに巡り合えた気がした。
まさに「クリスチャンになれば人生が変わる」の真逆のパターンだった。
とは言っても「平和の絵本」に書いてある内容を、ある程度ちゃんと理解できるまでには、何年かかったか分からない。
ここ1~2年くらいで、やっと少しずつ落ち着いた生活が出来るようになってきたように思う。
このような経験をしてきたので「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢もある事を教えるほうが「救われる」という人もいるのだろうと個人的には思っている。
だが同時に「救われる」とか「天国に行ける」などという事は本当に良い事なのか?という疑問もある。
もしも「救われる」という事が起こってしまったら、それ以上、求めるものが何もなくなってしまう。
そしたら、その先の人生は、何を目的にして生きてゆくというのだろうか?
すでに「天国行き」まで決まってしまい、自分が望みさえすれば今すぐ天国に行く事も出来るというのに、まだこんな地獄を生き続けてみたいと思ってしまうのは、なぜだろうか?
そんな風に考えると、むしろ人間は救われていないからこそ「救われたい」という気持ちが生まれ、それがやる気を起こす原動力となり、常に何らかの目的を持って絶望する事なく生きてゆけるのではないだろうか?
このように考えてみると「人間は救われていないから救われている」という矛盾したような理屈も成り立つような気がする。
この事は、キリスト教の「すべての人間は罪人だ。なぜならアダムとエバが神様を裏切って、善悪の知識の実を食べたからだ。だが、イエス・キリストが全ての人間の罪を背負って死んで下さったから、人間の罪は許された。」という意味不明な話と同じようなものだろうか?
そんな話を今まで色んな人たちから何十回も聞かされたが、今でも心の奥底には「キリスト教に洗脳されて死ぬ所だった」という根深い恨みがあるし、実際にキリスト教が正しいのか間違っているのかという結論は、とりあえず横に置いておいて、とにかく「キリスト教は正しくない」という事にしなければ生きてこられなかった事情があるので、キリスト教を正しいものとして受け入れる事ができず、無理やり信じようとしてもアレルギー反応のように拒絶してしまう自分がいる。
「宗教アレルギー」とでも呼ぶべき症状だろうか?

とはいえ、もちろん世の中には、キリスト教を信じる事によって、人生が変わったという人も数多くいるだろうし、何が何でもキリスト教は正しいという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるだろうとは思う。
でも同時に、何が何でもキリスト教は間違っているという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるという事を理解して頂きたい。
「なぜ相手は、自分の考え方とは違う意見を必死に守り抜こうとしているのか?」という事情を真剣に考えようとせず、それぞれが「キリスト教は正しい!」「キリスト教は間違っている!」という具合に「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」ばかりを主張し合って、決して自分の考え方は譲ろうとせず、相手のほうが自分勝手で傲慢だとか、心を閉ざしているとか、何か勘違いしているとか、全体が見えていないなどと脅しあっては、お互いが相手の考え方のおかしな部分をどこまでも探し出し、永遠に反論しあって、終わりのない議論を繰り返す・・・
そのような「王様病」の状態のままでは、両者が自分の考え方を譲らなくて当然ではないだろうか?
「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」だけしか注目しないから、相手の事情を考える事が出来なくなり、「ゆずり愛の心」が育たなくなってしまって人間関係が崩壊してしまうのではないだろうか?
そして、イエス・キリストは「キリスト教を信じる事だけが絶対に正しい」という事にしてしまうと、上記のように、人間たちが自分の信仰だけしか認めようとしない差別主義者になってしまう危険性があるという事を、すでに分かっていたからこそ「敵を愛せ」という教えを広めたのではないだろうか?
 
また、新約聖書の「マタイの福音書10章34節」には、以下のようなイエス・キリストの言葉もある。
 
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」
「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
 
あなたは、このイエス・キリストの言葉の意味を、どのように解釈するだろうか?
この文章を一読しただけでは、どう考えても、イエス・キリストは戦争の神様(悪魔)であるかのような気がしてしまって、仕方がないのではないだろうか?
でも僕は、上記のイエス・キリストの言葉は、そのままストレートに受け入れるべきではないかと思っている。
つまり、イエス・キリスト自身が「キリスト教だけを100%正しいと思ってはならない」という警告をしているという事だ。
キリスト教だけを正しいと思い込んでしまうと、どうしても異教徒の人々との対立を避ける事ができなくなり、愚かな争いが増える事になるという戒めについて、警告しているのではないだろうか?
 
それから、キリスト教だけで全てが解決できると思ってしまうと「愛する事」も「許しあう事」も「感謝する事」も、「神様の言うとおり」という命令に従っているだけになってしまい、本来の心で愛しあったり許しあったり感謝しあえるように、知恵を絞る事をしなくなって、すぐに何でも神様や信仰の力にばかり頼ろうとする事がパターン化されてしまい、本来の人類が持っている心が眠ったままになってしまう。
そのような宗教依存のような状況に陥ってしまえば、「本物の愛」も「本物の許し」も「本物の感謝」も存在しなくなってしまうどころか、「偽物の愛」「偽物の許し」「偽物の感謝」ばかりが、どこまでも増幅してしまい、世界に平和をもたらすどころか、混乱だらけの世の中になってしまう事が分かっているからこそ、それを心配したイエス・キリストは、人類を宗教依存の状態に陥らせたくないという優しさゆえに、あえて敬虔な信者を傷つけるような、どう考えても、自分の事を悪魔だと思われてしまいかねない発言をしたのではないだろうか?
 
平和の絵本「罰とイジメと自殺のロンド」
 
YUI「Kiss me」