昨日までの雨は上がり、雲はまだ残ってはいても、晴れた。
空気も乾いているようで花粉もよく飛んでいるよう。目の痒みとくしゃみがひどい。
ひどいとは言え、子供の頃に比べたらだいぶマシになったとは思う。
何故だろう。免疫がついたのか、東京の花粉は会津の花粉に比べたら少ないのか。
まぁ、マシとは言え、しんどいが。
花粉が飛ぼうが雨が降ろうが、日々自転車通勤。
今日も川沿いを、ランニングやウォーキングをしている方々の邪魔にならぬよう、気を付けて自転車を走らせる。
僕の部屋からは桜の木が見えるが、この川沿いも桜の木々が立ち並ぶ、お花見にはもってこいのスポットだ。
淡いピンク色の桜を纏った姿も美しいが、夏の青々とした新緑も、秋の紅葉ももちろん美しい。
そして冬の、葉がすっかり散ってしまった枯れ木の姿もまた美しく、大好きな風景。
枯れ木が一番好きかもしれない。木の姿が一番あらわになるから。
先に行くにつれ細かく枝分かれしていく。一つ一つの小さい枝が空に向かっている。
太陽に手を伸ばすたくさんの枝、一つ一つに意思があるようにも見える。みんなそれぞれが空を目指す。
でもそれが一本の木。一つ一つの枝がそれぞれの意思で空を見ているのに、それが一本の木になっている。
これは、人間の集団が一人一人同じ目的を持って一つのゴールを目指す!という事とは違う。
一つの枝は一本の木そのものだし、一本の木はその枝自身である。それが全ての枝について言える。
Aという枝とBという枝は、幹は同じであれど別々な枝。なのでAnot=B だけど、
同じCという幹についている枝であり、A=CでB=Cである。C=AだしC=B。
でもAnot=Bなんだけど、A=Bでもある。
人では例えられない。人の数式では表現できない。
木は木であり、木の数式があるのかもしれない。
そんな事を考えると、ふと「どこまでがその木なんだろう」と思う。
細かく伸びた枝の先もまだ木が続いているような気がしてくる。
すると、その木を見ている自分も木の一部のように思えてくる。
僕が呼吸し、動いていることが、あの木にも届いているような、
同じくあの木の呼吸とささやきが、僕にも届いてくるような、そんな気がしてくる。
空気も乾いているようで花粉もよく飛んでいるよう。目の痒みとくしゃみがひどい。
ひどいとは言え、子供の頃に比べたらだいぶマシになったとは思う。
何故だろう。免疫がついたのか、東京の花粉は会津の花粉に比べたら少ないのか。
まぁ、マシとは言え、しんどいが。
花粉が飛ぼうが雨が降ろうが、日々自転車通勤。
今日も川沿いを、ランニングやウォーキングをしている方々の邪魔にならぬよう、気を付けて自転車を走らせる。
僕の部屋からは桜の木が見えるが、この川沿いも桜の木々が立ち並ぶ、お花見にはもってこいのスポットだ。
淡いピンク色の桜を纏った姿も美しいが、夏の青々とした新緑も、秋の紅葉ももちろん美しい。
そして冬の、葉がすっかり散ってしまった枯れ木の姿もまた美しく、大好きな風景。
枯れ木が一番好きかもしれない。木の姿が一番あらわになるから。
先に行くにつれ細かく枝分かれしていく。一つ一つの小さい枝が空に向かっている。
太陽に手を伸ばすたくさんの枝、一つ一つに意思があるようにも見える。みんなそれぞれが空を目指す。
でもそれが一本の木。一つ一つの枝がそれぞれの意思で空を見ているのに、それが一本の木になっている。
これは、人間の集団が一人一人同じ目的を持って一つのゴールを目指す!という事とは違う。
一つの枝は一本の木そのものだし、一本の木はその枝自身である。それが全ての枝について言える。
Aという枝とBという枝は、幹は同じであれど別々な枝。なのでAnot=B だけど、
同じCという幹についている枝であり、A=CでB=Cである。C=AだしC=B。
でもAnot=Bなんだけど、A=Bでもある。
人では例えられない。人の数式では表現できない。
木は木であり、木の数式があるのかもしれない。
そんな事を考えると、ふと「どこまでがその木なんだろう」と思う。
細かく伸びた枝の先もまだ木が続いているような気がしてくる。
すると、その木を見ている自分も木の一部のように思えてくる。
僕が呼吸し、動いていることが、あの木にも届いているような、
同じくあの木の呼吸とささやきが、僕にも届いてくるような、そんな気がしてくる。