敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

横浜、川崎大空襲

2008-07-31 00:21:28 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十九日 曇 一、二、三直出勤

 朝食中(六時半)もう警報発令になった。 七時頃家を出たので情報は不明だったが大久保に下車した時飛行機が沢山飛んでいるのでなんとなく変だと思って出勤した。 出勤してもラジオがなく情報が分らないが九時少し過ぎに空襲警報発令になった。
 
 裏のバラックで鉱石セットで受信してはメガホンで隣組員に通達していたのでそれを聞いていた。 敵は焼夷弾攻撃を川崎、横浜に加えているという情報だった。
 B29 に P51 も混じって来た。南の空が真黒くなってきた。 十時半頃五機編隊が西から来襲し車庫事務所の真上を通過し、真上で焼夷弾を一斉に投下した。 東京医専の建物をねらったらしい。 しかし大半は焼跡に落ち、 医専の屋上にも可也落ちたが消し止めた。 左側の森の向こうで火災が起きた。 見てきた人の話では前回焼け残ったところが約二十軒ほど焼けたといっていた。
 昼間に物凄い焼夷弾の一斉投下をすぐ目前で見た。なんと面憎いことか。 情報では既に帝都を通過せる敵機は四百機だという。
 

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