敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

救護米

2011-12-23 22:08:14 | 日記 戦後編
昭和二十一年六月十一日 雨 二、三直出勤

 朝から雨、涼しい日だった。
昨夜、M氏から米一升借りて来たので今朝粥をした。 昼は何か菜でも煮て食べて過ごし夜は残りの五合で粥でも食べればいい。
 食糧の配給がないので闇物を買うから金がかかって困る。 キャベツだけでも二十六円も買う。 金のパイプを売って三百五十円入ったがもうなくなった。 あと入金する見込みとしては封鎖分二百円 年金百三十円余り 居残り手当百五十円 だけだ。
田舎にも行きたいが旅費を工面しなければならないし、今行くと養蚕と田植で忙しい盛りだ。 今月一杯たてば養蚕も上がるし桜桃も出る。 それまでは何とか食いつないでいきたいものだ。 

 先日救護米を貰った。 名目は救護米だが実は乾パンである。 町会から救護米の請求書を貰い、方面委員の印を貰って、区役所に行って貰って来るのである。
町会で一人九十匁、子供六人分で計五百四十匁と書いてくれたが、どんな算定か区役所では一人三十匁で計百八十匁しかくれなかった(代金 二円六四銭)。
 今月も割り当てが町会に来ているから貰えると組長が情報してくれた。 町会に行って請求書はくれたが町会で書いた数量と区役所で渡す数量が違う。 どうして違うのか女事務員に聞きにやったがあまり算式が面倒で判明しないので男の事務員のH氏が聞きに行った。 H氏が歩いて八丁目の区役所に行ってようやく訂正されたらしい。
 妻が又町会に紙を貰いに行き、方面委員宅に行って印を貰い八丁目の区役所に行き証明を貰って中宿の販売店に行って買って来るのである。 食をしかも少量の乾パンを買うのに斯様な手数と労力が要る。

 夕刻から晴れて暑くなった。 夜、食事に帰宅した。 未だ配給がないがI氏頼んだ麦粉が三升入ったと云う。 それに種甘藷と混ぜて焼いて食べた。 
 処が其の麦粉というのが から麦を煎って挽いたものらしく 黄色くて焼くと黒くなる。 それでも美味ではないが食べられる。 しかしこんな麦粉ならフスマの方がどんなに良いか知れない。
 同僚のM君の話によると 早稲田車庫の者が取手から四つ目の停車場(私鉄)で降り一里半位行った処でフスマ二貫目 八十五円で買って来た。 而もそれが大きなフスマなので摺り直して二升に一合位の配給の粉を混ぜるととても良いとの事だ。 明後日公休だから行って見ないかと云う。 それでは私も買い出し休暇を取って行って見よう。
七時に日暮里駅の常磐線ホームで待ち合わせようと約束した。 うまく買えるかどうか。 買えれば二貫と云わず四貫目でも五貫目でも買って来よう。
 明日封鎖二百円を払い出し年金百二十一円二十五銭貰えば手持ちと共に四百円程ある。


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