徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「お母さん、夏休みってなあに?」つれづれ

2016-07-11 09:36:57 | 子どもの情景
ウルトラマンたちとの同居が始まって4か月が経った。
気づいたら、夏休みまであとわずか。

そんなある日、1号が母親にこんなことを聞いたという。
「お母さん、夏休みってなあに?」(1号)
「えっ、あー、暑くなったら授業がなくなるってことよ」(ウルトラの母)
「ふーん」(1号)

ウルトラの母は慌てて
私に1号がそんなことを聞いてきたと教えてくれた。

それからしばらくして
「夏休みって、なんか、おうちでゆっくりするの?」(1号)
「そうねえ」(ウルトラの母)
「TP(1号)は放課後クラブでゆっくりすればいいんだよ」(ウルトラの父)
「・・・・」(1号)

そうかー・・・・、
保育園育ちの彼の脳内辞書には
「夏休み」という言葉はなかったんだ。

これを聞いた私、ショーーーック!!
「夏休みって何?」って質問されるなんていうこと、
私の脳内想定質問集にはない質問だった・・・。
保育園育ちの子どもにとっては、
夏休みなんていうカテゴリーはないんだもんな。
こんなことに今頃気づく自分て・・・、と思いつつ・・。

ここでふと、こんなことを思い出した。

専業主婦時代、夏休みは覚悟をもって迎えたことを思い出す。
そして9月1日を迎えた時の解放感は、
今もって忘れることができない。
やっと、やーーっと、自分の時間を持てるなって。

子どもを育てるって、
いつも大人の時間と子どもの時間の
せめぎ合いのようなもの。

誰かが時間と労力を「差し出さなければ」子どもは育たない。
それはもう、私の中で確信に近い。
それは生半可なものではない。

特に、子どものエネルギーが溢れかえる
午前中から午後にかけての昼間の時間帯、
そこを担う大人には「差し出す覚悟」が特に要求される。

歴史を振り返っても、
それがもう畑仕事や狩りなどの重労働が
できなくなったジジババであろうと、
乳母であろうと、
専業主婦の母親であろうと、
保育園などの施設保育の保育者であろうと、
現役を退いたジジババであろうと、
このエネルギーの溢れかえる昼間に
時間と労力を「差し出す」誰かがいたのである。

それが子育て・保育、と言われるものだ。
子どもはその「差し出された」時間と労力を糧に
「人間」になっていく。

しかし、である。
それが有償の仕事である場合は仕事として対価が払われる。
だから、ある意味「仕事」という割り切りと、
「仕事」だからという「プロ意識」で過ごすことができる。

問題は、むしろ「子育て」という多くは無償労働?の場合だ。
すでに仕事人としての人生を終え、
今度は自分の時間を差し出すことが仕事と思えれば
それはそれでよい。

やっぱり9月1日の解放感を心待ちにしているのは
専業主婦かなって思う。

もう、30年くらい前に現役の専業主婦をしていた私でさえ、
「自分の時間」をたとえ30分でも作り出すのに苦労した。
子どもの昼寝の時間!と言いたいが、
その時は疲れて自分も寝てしまう。
夜、子どもたちが寝静まってから
夫が帰ってくるまでのひと時・・・、
と言いたいが・・・
その時も夫に「今帰ったよ」って起こされたっけ・・・。

今、専業主婦を張っている人は、
きっといくら専業を選んだと言っても、
もっともっとストレス高く、
子どもに「差し出し過ぎて」、
そしてそれをしなければ自分の価値はなくなると思って
大変なんだろうなって思う。

専業主婦と働く母親の溝は
私たちの時代以上に深くなっているのを感じる。
と、つらつら考えた。

今、我が家で差し出す「時間と労力」に
悪戦苦闘しているのは「夫」だ。

団塊世代の「夫」。
サラリーマン時代には味わったことのなかった
この「自分の時間」と「子どもの時間」のせめぎ合い。

「こうやって、子どもは育っていくんだなあ・・。」と
呟きながら・・・。

私が帰ってくると「じゃあ後は頼むな」と自室にひっこむ。
「おじいちゃん、どこ?」(1号、2号)
「おじいちゃんのお部屋よ!」(私)
「そうか!呼んでこようっと!!」(2号)
と、走っていく。

「夫」は頭搔き搔き、部屋から出て、
「いやー、まいったな」と
私だけに聞こえる声で呟きながら。

そんな今の我が家の大人と子どもの共通大好き絵本は

  齋藤隆介・滝平二郎「ソメコとオニ」岩崎書店

大人と子どものせめぎ合いが見事に描かれている。
ウルトラマンはソメコに、大人はオニに同体化して
読んでいるのでありました。
皆で「ゲラゲラ」笑いながら・・。
フフフ、その笑いの方向は正反対!