徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「『ほめる』『叱る』のその前に 子どもにとどく伝え方」を読む

2015-12-05 08:20:51 | 保育・子育て

 入江礼子 著・カツヤマケイコ イラスト 
 赤ちゃんとママ社

こんな本が出た。
「ほめる」「叱る」と言えばハウツーものが主流。
でも、「ほめる」「叱る」にハウツーなんてあるんだろうか。
このほんはちょっぴり、ハウツー本に反旗を翻している。

といっても、本は読者の手にとどかなければ意味がない。
その折衷案というべき構成になっていると言えるかもしれない。


以下に「Bookデータベース」から抜粋してみる。

・・・・・・・・・

「何回言ったらわかるの!」には、理由があった!!
子どもによりそった「伝える子育て」で、より理解し合えるコミュニケーションを。

目次 : 巻頭座談会 ガミガミ言っちゃう私たちの胸のうち/
第1章 どうしてこんなに叱ってばかり?(「叱る」のは子どものためというけれど/ 「叱る」のなかにある無意識 ほか)/
第2章 どうすれば子どもに伝わるの?(伝えるためには、まず考える/ 子どもは親を見て育つ ほか)/
第3章 この口ぐせ、大丈夫?(大切なのは、子どもの立場に立つこと/ ほとんどくせになってない?「早く!」 ほか)/
第4章 子育ての最終目標は?(子どもって大変です/ 子育ては、ないないづくし ほか)

・・・・・・・・・

著者の主張はある意味子育て論にもなっている。
ちょっぴり硬派と言えなくもない。
でも、そこにツボを押さえて、
その文章に突っ込みを入れたり、分かりやすくしているのが
カツヤマケイコのイラストだ。
彼女もまた「ごんたイズム」などの子育て漫画を描いている。
これがまた面白い。

私たち団塊が子育てしていた頃よりも、
世の中は右肩あがりどころか下がり気味の今、
子世代の子育ては本当に忙しく大変って思う。

大変だけれど、そこに面白さや、
親もちょっぴり自分を振り返って
子どもも一生懸命だなって感じられる一冊かもしれない。

ほめたり、叱ったりするときっていうのは、
おとなである自分自身の価値観や生き方と
否応なく対峙するときでもあることを思う。

と言いながら、今でもてんやわんやしている私なのでした(*_*;

「はじめて!」は子どもと高齢者の合言葉?

2015-10-05 09:53:23 | 保育・子育て
ここに3冊の絵本がある。
いずれも「はじめて」がテーマだ。


しみずみちを作・山本まつ子絵「はじめてのおるすばん」岩崎書店 1972


筒井頼子作・林明子絵「はじめてのおつかい」福音館書店 1877


筒井頼子作・林明子絵「とん ことり」福音館書店 1989

子どもたちと何度も読んだ絵本。
我が家だけではなく、この絵本たちが読み継がれているのは
その発行年を見ればよくわかる。

いずれも、まだこの世に生を受けて間もない子どもたちが
いろいろな「はじめて」に出会って、
ドキドキ、ハラハラしながら一生懸命その時に向かい合っている、
そんな絵本だ。

そして、そんな一生懸命さと息詰まる緊張感のあとには、
守り神である母に抱きしめられたり、
新しい友だちを得て、
文字通り新しい世界に踏み出していく、
そんな次が開かれている。

こうして幼い子どもたちは
一歩一歩、この地上での「はじめて」を越えていく。

子どもは「これははじめてのこと」なんて口に出さない。
「はじめて」という認識もなく、
ただ、いま目の前にあることと向き合う。
もちろん自分の意志で向き合うこともある。
それは「はじめてのおつかいの」みいちゃんのような場合。

「はじめてのおるすばん」のみほちゃんや
「とんことり」のかなえちゃんは
おとなの都合に起因する「はじめて体験」だったけれど
やはりそれにひたすら向き合う。
それが子どもの「はじめて体験」。


ところで、私はある時ふとこんなことに気づいた。
「これははじめてのこと」「こんなことははじめてのこと」と
よく言っているのは、子どもというより高齢者であることに。

「こんなこと今までなかった。初めてのことだ」ということを
私は身の回りの高齢者から何度も聞いた。

そして正真正銘の高齢者に足を突っ込んだ今、
そう呟いている私がいる。そして夫も・・。

そうだ、子どもの「はじめて」とは違うニュアンスで
私たち人間は高齢者になってこの「はじめて」に向き合うことになる。

「こんなところに躓くなんて!」
「こんなことも覚えていられなかったなんて!」
「こんなところが痛いなんて初めてだ!」
「子どもにああしろ、こうしろなんて言われるなんて!
こんなこと今までなかった。初めてのことだ!」

こう書き連ねていくと、なんだかマイナス気分になる・・。

が、そうであっても、実は高齢者として生きるということは
こういう「はじめて」と出会い、それとどう向き合っていくかが
問われる時なんだなって思う。

それを愚痴ではなく、子どもたちのように
ひたすら一生懸命それと向き合う・・、
そんな姿勢を持ちたいなって。

年齢を重ねるということは、
経験を積むということで、
それは「はじめて」が
少なくなっていくこととばかり思っていたけれど、
違うんだなあって。

いくら経験は積んでも、新しいことはますます増えていく。
その時に、今までの自分を試されるんだと思う。

子どもたちが新しいことを乗り越えられるのは、
きっとそれまでしっかり守っててくれる人がいたから。

私たち高齢者が新しいことに向って行く力をもつためには
何が必要だったのかなって思う今日この頃なのでした。

保育園の運動会ー1歳違えばこんなに違うー

2015-06-11 08:49:56 | 保育・子育て
この日、雨は明け方に上がった。
5歳児孫TPと3歳児孫KJ。いずれも男の子。
今日の保育園の運動会の主役だ。

TPは0歳児の時から数えると6回目の、
そしてKJは同じく4回目の運動会となる。

まあ、ずいぶん月日を重ねたものだと
私は一人感慨にふけった。
幼稚園だったら3回しかないしなあ・・・、
なんて思ったりする。

まだ、保育園児祖母初心者だった頃、
一体、0歳児って運動会で何するのって本気で思った。
私には考えらえなかったからだ。

でも、保育士さんたちの
長年の知恵が結晶したノウハウがそこにはあった。

0歳児なりの参加の仕方があり、
それを家族で、そして園全体で喜べるものだと知った。

幼稚園のことしか知らなかった私には
保育園の運動会がとても家庭的に見える。

また、応援する家族が自分の子どもや、
自分の子どものクラス、学年だけを応援する
という雰囲気ではなく、
園の子どもすべてを応援する雰囲気だ。

幼稚園より規模が小さいからだろうか?
とも考えたが、それだけではなさそうだ。

むしろ、0,1,2歳児という小さい人たちがいることが
その雰囲気の土台になっているのではないか、
今ではそう思っている。

もちろん、徒競走だってある。
0歳児の徒競走??だってあるくらい。
でも不思議と競争や見栄えの良しあしが問題にならない。

お母さんたちにうーんと今の自分を見てほしい子どももいれば、
この時とばかりにうーんと不機嫌に過ごす子どももいる。

自然に今の自分を出しているのだ。
運動会というハレの場で今の自分を出せるって凄い。
プラスエネルギーもマイナスエネルギーも含めて。

これって保育園の運動会が、
ハレの場だけれど、ケ(日常)の場でもあるという
面白い空間だからかなと思う。

ふと保育園の運動会を見渡すと、
0歳児席、1歳児席、2歳児席、3歳児席、4歳児席、5歳児席と
6つの学年があることが分かる。

小学校も6学年あるけれど、保育園は小さいながらになお壮観。
何が壮観か・・・、といえば
歩けない赤ちゃんから、保育園版組体操を楽しむ6歳までが
一堂に会しているからだ。

だから、徒競走で転んでびりになろうと、
家では楽しみにしていたダンスを
お母さんと一緒にできる嬉しさからの甘え拗ねで、
いつもみたいやらなくたって、大人はあまりカリカリしない。

その場にいる、生まれて半年くらいの赤ちゃんから
生後6年までの子どもたちのラインナップみると
大丈夫、大丈夫って思える。

だって、明日がある、そう、明日があるって思えるのだ。
そこが、1歳違えばこんなに違うを
目の当たりにしながら参加できる
保育園の運動会のよさかなって考える。

子どもってほんとうに成長していくんだなっていうことを、
6学年のそれぞれのオーラから
感じ取ることのできる貴重な空間だ。


そんなアットホームの運動会なのに、
指折り数えてその日を待っていたのに、
今年、私はお留守番を余儀なくされた。
なんとその前日に何年振りかで熱を出したのだ。
まさに鬼の霍乱とはことのこと。

泣く泣く運動会から帰ってきた夫から
孫たちの様子を聞きながら写真や動画を見た。

あ、やっぱりそうだ。
TP5歳児もKJ3歳児も彼らの今が炸裂していた。

両親、ジジババ、伯父伯母、家族みんなに見守られ、
すべてにプラスオーラ全開の5歳児と
ハレとケを行き来する複雑系3歳児がそこにはいたのでした。


未来に向かって育っていく赤ちゃんに支えられてー保育学生頑張る!ー

2015-06-04 09:40:28 | 保育・子育て
この日は小さな親子グループの日だった。
午前中の1時間半ほどを大学の一室で遊ぶという企画。
年間の登録制で、いつも同じ親子がやってくる。

このグループは生後6か月から1歳半までのお子さんが中心。
4月の時点で、やっと寝返りのお子さんから、
歩くのが上手になった1歳半のお子さんまで。

発達の様相は大きく二つに分かれる。
コロコロ族とピョンピョン族。
私たちは密かにそう呼んでいる。

つまり、まだ畳敷きの場所でお母さんの近くで遊ぶ人たちと、
お母さんは畳のところにいても、自分はぴょんと飛び出して
学生と一緒に面白いことを探して動く人たち。

4月の始まりの時はそんな雰囲気で始まった。
この日はそれから3回目。
私たちは、前回の子どもたちの様子から、
この日の動きを予想してお部屋のしつらえを考える。

まだまだコロコロ族と
ピョンピョン族は分かれるだろうな・・。

けれど、学生のそんな予想は見事に裏切られた。
コロコロ族は既にハイハイができるようになり、
首を立てて、キョロキョロッとあたりを見回し、
ある一点をじーっと見つめてから、
おもむろにグイッグイッと前進した。

赤ちゃんがこれっというものを見つけた瞬間だ。
それはまた、コロコロ族とある意味、高をくくっていた私たちが
赤ちゃんたちに追い抜かれた瞬間でもある。

学生たちは毎回毎回手作りおもちゃ作りに励んでいる。
牛乳パックや、板段ボール、布やビニールテープに養生テープ、
日常の廃材や安く手に入る物を中心に
学生たちの知恵の出し合いと試行錯誤が続く。

部屋の真ん中には4年越しに使っている手作り滑り台もある。
学生たちの知恵と汗の結晶。
それを代々修理し、工夫しながら使っている。

今は赤ちゃん遊具があふれている時代。
お金を出せは、何でも手に入る。
そんな、色鮮やかなプラスチックの遊具に囲まれて、
というより、埋まって育っている赤ちゃんだって多いのが現実だ。

でも、そうではなくて、出会った赤ちゃんの
気に入ったものは何かをよーく見て、
それを次のお部屋のしつらえや遊具に反映させる。
お金をかけずに手作りで。
それが私たちのポリシー。

時折、今の自分たちの実力では作れそうもない
素敵な遊具は、少ない予算をやり繰りして、
絞りに絞って手に入れることもある。

たった1時間半のこの活動。
学生たちは子どもたちの様子の話し合いや、次回の計画、
そしてお部屋のしつらえや遊具の準備といった具合に
授業の合間をぬって奔走する。
授業の予習復習より優先順位が高い。

それは自分で考えたことを試すことができる
活動だからかもしれない。

当日。
自分たちの手塩にかけた遊具が
気に入ってもらえた時の学生の顔。
もう嬉しさでくちゃくちゃだ。

反対に、選んでもらえなかったとき、
何が悪かったのかと落ち込む。
でもその落ち込みをを知からとして、
またしこしこと準備に戻る。

そんなグループを皆で協力して立ち上げて、
10年近くが経つ。
学生たちの頑張りは本当にすごい。

その頑張りを支えているものは何か。

それは出会った赤ちゃんが次は何を喜んでくれるだろう、
そう考えて、計画や準備をし、一緒に遊びながら
「赤ちゃん、今何考えているんだろう?
何をしたいんだろう?これ一緒にやったら面白いかな?」と、
知恵と身体を総動員して考えることの大変さと楽しさかも知れない。

これは、私も母親だったときにはできなかったなあ・・。
家庭で家事をしながらの子育てはいつも「ながら」になってしまう。
保育の現場にいた時も、やっぱりここまでのことには気付けなかった。

今、学生たちは未来に向かって育っていく
言葉のない赤ちゃんに支えられて
その人に対する「想像力」と、「自ら考える力」を育んでいる。

と、高齢者にどっぷりと足を突っ込んでいる私は
赤ちゃんと学生たちをまぶしく思うのでした。