伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

歴代司会者考Ⅱ-芳村真理復帰、新パートナーに三波伸介・朝丘雪路登場

2006-10-25 | 夜のヒットスタジオ/番組史
1ヶ月ぶりの更新・・・。最近バタバタとしており、ブログにかかりきりになれる時間が取れないため、なかなか更新ができない状況にあり、御贔屓されている方々には大変申し訳なく思っております。

さて、今回は、芳村真理、三波伸介、朝丘雪路トリオ司会の時代について記事を書きたいと思います。

前回も触れたように「共産党バンザイ事件」によって1973年秋の改編を以って、前田武彦さんが事実上の解任という形で番組を降板。相手役の芳村真理さんも一時降板し、その後、新たなレギュラー司会者を迎えず、ゲスト歌手2名が代表して司会を担当するという実験的な試みが行われました。このときには、大抵は森進一さんや橋幸夫さん、五木ひろしさん、由紀さおりさん、和田アキ子さん、水前寺清子さんら60~70年代前半の夜ヒット常連の出演歌手が当番していました。

が、やはり、番組を長く続けていく上では、いつまでも当番司会制という形に頼るわけにもいかず、この当番制も半年間で打ち切られ、1974年4月放送からは、再度、芳村さんを番組に呼び戻し、新たな彼女の相手役として、当時「笑点」「お笑いオンステージ」などで人気司会者となっていた三波伸介さん、そして以前から歌手として夜ヒットに出演しており、芳村さんとは旧知の間柄でもあった朝丘雪路さんの2人を起用、芳村・三波・朝丘のトリオ体制司会へと移行しました。

このトリオ体制の司会となった当初は、特に半年振りに夜ヒットに帰ってきた芳村さんに対しては批判が少なからずあったようです。「一度番組を降板しておきながら、1年もたたずに番組に戻ってくるというのはどういうことなのか?」という点から、「当初から、芳村に関しては、半年後に番組に必ず戻すのでという約束の下に、一度形だけマエタケと共に番組降板という形を採ったのでは?」として「出来レース」という疑惑を持たれたのです。ただ、この批判も、新パートナーである三波さん、朝丘さんとの司会ぶりの中で、この番組での彼女の存在感を以前以上に増すようになっていくに従い聞かれなくなっていました。

他方、新司会者の三波さんに関しては、やはり「笑点」における並居る新進気鋭の落語家たちを相手にしての「大喜利」での豪快かつ気遣いのある司会ぶりでも代表されるように彼が持っている「明るい」キャラクターを買っての抜擢でした。当時の夜ヒットはまだまだ「バンザイ事件」によりダーティーな印象が払拭しきれない状態にあり、完全にこの一件の後遺症から脱してゆく上で三波さんのキャラクターが大きく影響していたように思います。朝丘さんについては、芳村さんが「洋」のイメージがあるのと対比して「和」のイメージがある女性を置いて、「和VS洋」という対比で番組を華やかにしようという考えや、芳村さんとまったくの同学年(1935年生)であったということも抜擢の要因であったようです。

このトリオ司会では役割分担がなされており、主に歌手とのトーク部分など番組進行の中枢は、芳村・朝丘の女性コンビが担当し、三波さんはその2人の進行をあえて「茶化し」に入るコメディリリーフ的な役割を担っていました。番組の中心的進行をあえて男性司会者がせずに女性2人が行うというスタイルもまた、当時の「男女1ペア、男尊女卑的図式」というのが当たり前というテレビ司会者業の構図の中では異端ともいえるものでした。芳村さんと朝丘さんは同年代ということもあり古くから親交があり、気心が知れた存在同士。故に番組内でのやり取りも離婚経験もあり、子供もいる大人の女2人の「本音」がときに進行内で垣間見えるものでした。朝丘さんはこの芳村さんとのコンビでの進行に関して後年「これをきっかけに、他の局でも女性コンビのトーク番組が増えたのでは?」と述べています。また、前述の「和=朝丘VS洋=芳村」という図式通り、芳村さんと朝丘さんの華やかな服装対決もその中では展開されており、その中に軽妙洒脱な三波さんのキャラクターが加わることで、一層番組は華やかさを増しました。

しかし、朝丘さんが程なくして舞台の長期公演の仕事が入ってしまい、わずか3ヶ月でレギュラー出演を降板し、舞台公演がないときにゲスト司会者として登場するという形式(1975年3月を以って完全降板)となり、以降は芳村・三波という以前と同様の「男女1ペア」での司会体制に戻りました。

この時代の看板コーナーは何と言っても「歌謡ドラマ」。マエタケ時代からすでに「コンピューター恋人選び」と並ぶ2枚看板として行われていたコーナーでしたが、ここに「コント」はお手の物の三波さんが加わったことから、このコーナーが最大の番組内での見せ所となりました。三波さんはほぼ毎回といっていいほどこのコーナーには登場。ハゲ頭のかつらを被って歌手を息子や娘に見だてて父親役を演じたり、時にはちょっと抜けたところのある二枚目役を演じたり、またさらにあるときは女装なんかもしたり、と南さんの芸人としての本領が見事に発揮され、ときには歌手も、ちゃんとしたコント台本があるのに笑いが止まらずに展開がめちゃくちゃになってしまうなんてことも幾度もあったらしいです(特に小柳ルミ子さんについては笑いで覚えていたセリフがすっ飛んでしまい、コーナー自体が継続不可能となってしまう事態に陥ったことがあるそうです)。普段はニヒルなイメージがある沢田研二さんがいきなり牛乳瓶の底のような丸縁メガネをかけて真面目な学生役を演じたり、小川知子さんが意地悪な小姑を演じたり、いろいろと歌手の違う側面が垣間見えたコーナーであり、そこに三波さんがちょこちょこセリフの合間にアドリブを入れてくるときに見せる歌手の素性がまた巧妙でもありました。

しかし、「夜のヒットスタジオ」は当然に中心は「歌手」そして「歌」。それゆえ「歌謡ドラマ」の人気が高まるにつれて、次第に今度は「歌番組なのに歌が聞こえてこない」といった批判が出るようになります。
この批判に応ずるべく、1975年に入ると、徐々に後の「本格音楽番組」へのシフトをにおわせる傾向が生じ始めます。海外から実力派の黒人女性コーラスグループ「スリーディグリーズ」を招待し、戦前派の大物歌手・淡谷のり子さんを特別出演させ、そしてグレープ、バンバン、シグナル、憂歌団といった、当時テレビ出演には消極的とされたフォークグループの出演を実現させたりと、「歌をないがしろにしない」というその後の夜ヒットの製作方針の土壌がこの頃に出来上がりつつありました。

他方、歌謡番組としての色彩が強くなるに従い、三波さんの本領も司会の中でも発揮されにくい雰囲気が強まっていきます。構成の塚田茂さんは「三波ちゃんはどうしても二枚目になってしまう」と彼の当時の司会ぶりを回顧しています。三波さんは、当時30~40代初頭の女性にとってファッションリーダーとしてその着こなしを評価されていた芳村真理さんが相手役だったこともあり、この番組だけのために本番前日に服を大量に買い込んだりするなど、豪快なイメージとは裏腹に中身は実に気遣いがあり実直な性格だったそうで、どうしても「歌謡番組」というベースゆえに身構えてしまうところもあったようです。相手は落語家や芸人ではなく、本来はコントなどは正業としていない歌手、しかもコント出演など「格好が悪い」と思っていたフォーク系の歌手などにあってはさらに気遣いをせねばならず、その中で三波さんの本来のキャラクター性はなかなか発揮しつらい状態になっていたようです。

1976年春、「本格音楽番組」への方針転換、同時にコメディー色の強いコーナーの一掃という一大決断が下され、同時に三波さんも2年で番組を降板。しかし、すでにこのとき、三波さんは大御所の域に達するタレントであったため、処遇は極めて慎重な形で行われました。夜ヒットスタッフが同番組を去ることになった彼のために用意したのはあの「スターどっきり(秘)報告」。三波さんはいわば事実上のコンバートという形で、この番組の初代司会者(キャップと番組の中で称されていました)を務めることになります。

そして、1976年4月より、芳村真理さんの3代目の男性パートナーとして、お馴染み井上順さんが登場。第2期黄金時代と称される中興の時を迎えることになります。この井上順さん抜擢後の話は次回記事にて触れたいと思います。

最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
歌謡コントについて (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-15 02:16:19
以前にも書きましたが、コントの時間を延長したりゲスト歌手の起用を少なくしていったりして、レギュラー陣(ロマンチカやダン池田、塚田茂や前武など)ばかりでの歌謡コントになって面白くなくなったのは、司会が三波伸介の頃ではなく、前武の後半時代の70年代初めのことだったと記憶しています。
三波伸介時代は歌手をコントによく起用していましたから違います。

それから「コンピューター占い」は前武時代の最後のほうには、もう無くなっていたのではなかったですか?
返信する
コンピュータ恋人選び (resistnce-k)
2008-04-15 03:42:38
コンピューター恋人選びは私が持ち合わせている資料等では一応「1976年6月まではやっていた」ということになってるんですが、どうなんでしょうか・・・。

ただ、一説では三波時代はなかった、とかいう話もちらほら聞こえてきたりするんで、ひょっとすると、マエタケ時代の最後の辺で一旦打ち切った後、「歌謡ドラマ」を一枚看板のコーナーにし、そして井上順が司会になって、「歌謡ドラマ」の枠が空いたところに「コンピューター恋人選び」を再び一時期だけやった、って感じの理解のほうが正確なのかもしれません。
この辺も情報を募る必要があるかもしれませんねぇ・・・。

ただ、その井上順・芳村真理コンビになってからのときの「コンピューター恋人選び」はマエタケ時代のそれとはちょっと雰囲気が違っていたのは確かです(総集編でその模様を一回見たことがあるので)。

マエタケ時代はフジテレビの局舎の地下にあった電算室に小林大輔アナ(モグラのお兄さん)が待機していて、その回に診断してもらうゲストの基本データを係の人がコンピュータにインプットし、そのコンピュータに既にある著名人のデータとざっと照会していって、一番相性が合うと判断した人物の名前を公表するって形だったと思いますが、芳村・井上の時代のやつは、地下の電算室ではなく、6スタのメインセットと隣り合わせのところに特設ステージを組み、そこにコンピュータを持ち込んでその場で瞬時に診断をしてしまう(あるいはあるタレントとの噂があるような歌手の場合にはそのタレントとの相性を○×で診断するということもあったらしい<山口百恵編では予め相手は三浦友和に設定されていて、その上で2人の相性を診断するっていう形だったみたいです>)という形式で、このコーナーの監修として心理学者の浅野八郎氏が毎回立会っていたらしいです。ちなみにこの時代の同コーナーの進行は小林アナではなく芳村真理の役回りになっていて、井上順はほとんど不参加だったようです。
返信する
追加 (resistnce-k)
2008-04-15 03:58:03
出演者一覧を見ていても、確かに1972年に入ると、出演者の数が減っているようにも見えますね。この頃になると、初出演者が出る間隔もなんか結構間が空いていたりしますし・・・。
おそらく「歌謡ドラマ」がいわば内輪ネタで盛り上がってるだけのような状態になってしまっていたのはこの時期なんじゃないかな・・・と推測できるんですが、これもどうなんでしょう・・・?(汗)

歌謡ドラマ、20代の私は当然この時代のヒットスタジオを見ているはずもないもので、何となく漠然とスチールや総集編に触れられた数少ない現存映像の中での一部を通じて、「歌手参加が基本で、マエタケさんか三波さんが落ちをつけて歌へ持っていく」ぐらいのイメージしかなかったんで、そういう時代があった、ってことは全く意外でした。

何故、そういう手法を取り出したのか、それは全く分からないですね・・・。

でもここから三波時代は歌手をほぼ全員起用して三波さんを中心にコントをやるって方針にまた戻ったわけですから、少なからず、「より戻し」をさせないとこりゃまずい、と思ったスタッフがいたのは間違いないでしょうね。スタッフからしても、最初ヒットスタジオの制作に入る時は「歌番組の制作をやる」という意気込みで入ってきてるはずなのに、ふたを開けたら「バラエティー番組の制作をやってる」のと同じでは、不満が出てこないはずはないですし。多分、そのまんまの形でやってたら、ヒットスタジオの後の名声はあり得なかったでしょうね・・・。

井上順時代以降は基本的に出演者は8組でずっと推移していたのも、こういうことがあってのことだったのかな、とも話を聞いていると思えなくもないですね。井上順時代以降、基本(新人で初出演の場合は除いて)、1人に対して最低でも3分以上の歌唱(演奏)時間は必ず確保するという方針(これが巷間よくこの番組の長所として挙げられる「フルコーラス歌を聞かせてくれる」ということにつながるわけですが)が徹底していましたから、それもマエタケ後期の時代の「歌謡ドラマ偏重」+「歌軽視」の姿勢への反省があったればこその方針転換だったとみることもできると思います。
返信する
凄い分析力ですね。 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-16 20:03:56
いや~感心しました。鋭い分析力です。
多分、resistance-kさんの言われるように72年頃だったかもしれません。小林大輔アナまで歌謡ドラマに出ていましたから。

因みに69年6月2日の歌謡ドラマは小料理屋さんが舞台で、訳有りのカップルにヒデとロザンナが扮していました。そこへ真っ黒のサングラスをかけたヤクザ風の前武が二人にチョッカイをかけて絡んでいくというストーリーでした。
返信する
芳村真理は・・・。 (resistnce-k)
2008-04-16 22:16:59
「歌謡ドラマ」のごく初期のころはマエタケと並んで芳村真理も結構これに参加していたはずですが、途中から(少なくとも三波伸介がパートナーになってから)は完全に「進行役」という役回りで、これにはほとんど参加しなくなってしまいましたよね、確か。

夜ヒットの司会を始めた頃は、まだ「女優」として活躍していた姿を知っている人が多かったので、コントにも出ていても、あんまり見ている側も抵抗感はなかったんでしょうけど、それこそこの番組の成功を機に「ラブラブショー」「3時のあなた」「夜のゴールデンショー」「かくし芸」とフジの名番組に次々と起用されてからは司会者としてのイメージが定着してしまい、止む無くコント、というか「演技をすること」自体から完全に身を引いてしまった、というところでしょうかね・・・。少なくとも、私の世代(といっても20代だと普通は芳村真理の存在を知らないほうが多いかもしれませんが・・・汗)かちょっと上の世代だと「女優」というイメージはまずないですからね。「夜ヒット」「料理天国」の名司会者・芳村真理、ってイメージが完全に定着していますし。

さて、歌謡ドラマでコントの才覚があることが判明した歌手というと、やはり後の「ドリフ大爆笑」や「全員集合」でもイレギュラーに出ていた由紀さおり・ジュリー・前川清・千昌夫当りということになるんでしょうかね。彼らは歌手でありながらも自らギャグをかまして笑いを取ってやろうという「芸人根性」が半端ではなかったですよね。

特にジュリーの場合は、徹底的にコントに出るときは「三枚目」の役回りを率先してやっていましたよね・・・。この部分があったからこそ、彼にはイヤミなイメージがつかなかったんだろうな・・・と思います。
返信する

コメントを投稿