伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

夜ヒット・名シーン/松田優作、生涯唯一のヒットスタジオ出演<2> 補足

2008-07-05 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
<同場面の概要・私見については「同項目<1> 概要と私見」参照の事>

【補足Ⅰ-当日披露された曲目について】

YOKOHAMA HONKY TONK BLUES 詞:藤 竜也/曲:エディ藩 
◆80年5月1日リリース、アルバム「TOUCH」より。81年には作曲者のエディ藩が「横浜ホンキートンク・ブルース」のタイトルで、更に82年には作詞者の藤竜也も歌詞を一部改編した上で「ヨコハマ・ホンキートンキー・ブルース」のタイトルでそれぞれ同曲のシングル盤をリリースしている。
白昼夢 詞:松田優作/曲:芳野藤丸
◆80年5月21日リリース、アルバム「TOUCH」からのシングルカット
BONNY MORONIE 訳:松田優作/詞・曲:Larry Williams
◆81年11月21日リリース、ライブアルバム「HARDEST NIGHT LIVE」収録。オリジナルはアメリカ・ニューオリンズ出身のピアニスト・シンガーソングライター、ラリー・ウィリアムスによる1958年発表のロックンロールのスタンダード的作品。後に元ビートルズのジョン・レノンがカバーしたことでも知られている。
◆80 年・81年に行われたライブツアーでは、アルバム「TOUCH」「HARDESTDAY」(81年5月リリース)に収録されたオリジナル楽曲に並んで、同 曲も含め洋楽、R&Bのスタンダードとされる作品も松田自身が日本語詞を付けた上で数曲、ライブナンバーに組み入れられた。

【補足Ⅱ-松田優作について
◆1949 年(戸籍上は1950年)9月21日生。山口・下関出身。地元の高校を2年で中退した後、1967年、叔母が滞在しているアメリカに単身渡り、弁護士を目 指して現地のシーサイド大学附属高校に入学するも、叔母の家の家庭事情もあり、1年でこれも中退し帰国。帰国後、東京・豊島区にあった実兄の家に居候の身 となり、夜間高校に編入し卒業。俳優・岸田森(1982年逝去)が主宰する劇団「六月劇場」の裏方を経験した後、1970年に関東学院大学文学部へと進 学。同大の学園祭でアメリカから来日してきたアングラ劇団の芝居に衝撃を覚え、これが俳優を志す契機となった
◆1971年、一旦文学座附属演技研究所の入所試験を受験するも不合格。一時、金子信雄主宰の「新演劇人クラブ・マールイ」の演劇教室に通い、同劇団の研究生として残ることが許されたが、文学座への入団の夢を捨てきれず、72年に再度文学座研究所の試験を受け合格、第12期研究生となる。この養成所時代に先輩の桃井かおり、同期の阿川泰子、後輩の中村雅俊の親交を築く。生活のため子供向けの特撮番組の主役オーディションを数度受験するなど、苦労しながら役者修行を続ける。
◆1973年、無名時代より親交のあった村野武範が自身が当時主演していたドラマ「飛びだせ!青春」(日本テレビ系)の製作担当であった、東宝の岡田晋吉プロデューサーが同じく自身が製作を担当している「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)で「マカロニ刑事」役を演じていた萩原健一が降板する事になり、萩原の後釜となりうる新人の俳優を探しているという話を聞きつけ、松田を推薦。これをきっかけに「太陽にほえろ!」へのレギュラー出演が決定。「ジーパン刑事」役 を演じ、中学時代より習っていた空手によって培われた抜群の運動神経とタフな体力を駆使した激しいアクションや、180cmを越える長身で全力で走りぬけ る様で注目を集める。同ドラマでの彼の殉職シーンはその後の俳優の多くにも影響を与えるテレビドラマ史上に残る場面となった。同年には、東宝映画「狼の紋章」への客演でスクリーンデビューも果たしている
◆その後も、山口百恵とのコンビによる「赤い迷路」(TBS系)、文学座研究所時代の後輩・中村雅俊とのコンビによる「俺たちの勲章」(日本テレビ系)などの話題作に出演を続け、着実にスターダムを駆け上がっていたが、76年、雑誌記者に暴行を働き、傷害容疑で逮捕され、半年間の謹慎を強いられる。その後、東映映画「暴力教室」への出演を皮切りに俳優業を再開
以後、東映セントラルフィルム映画「最も危険な遊戯」「蘇える金狼」「野獣死すべし」等、アクション路線の映画に立て続けで主演。ハードボイルドなイメージを全面に押し出したキャラクター設定と体当たりのアクションで新感覚のアクションスターとしての地位を獲得。他方、同時期に主演したテレビドラマ「探偵物語」(日本テレビ系)ではハードボイルドなイメージを踏襲しつつも、コミカルな主人公「工藤俊作」役を演じ、これがファン層の拡大へと繋がった。
◆1981年、「フィルム歌舞伎」とも評された鈴木清順監督による日本ヘラルド映画「陽炎座」でアクションシーンを最大限排除した演技を展開(これは鈴木氏が直径1mの円を描き「この中から出ないような演技をしてくれ」と松田に直接指導を行った事によるものであったといわれている)し新境地を開拓。83年には、ATG映画「家族ゲーム」で主役である、風変わりな家庭教師役「吉本勝」役を演じ、各映画賞を制覇。続いて、角川映画「探偵物語」東映映画「それから」でも高い演技力を発揮し、個性派・演技派俳優としての評価が確立。86年には、東映=キティ・フィルム映画「ア・ホーマンス」で映画初監督を経験(元々は他の人物が監督を担当し、松田は主演のみを務めることとなっていたが、その人物が撮影方針を巡って製作陣と対立したことから監督を降板。そのため急遽、主演の松田に監督を兼任することが決まったといわれている)。ロックバンド「ARB」のボーカル・石橋凌の役者としての才能をここで発掘した。また、この時期にはミュージシャンとしての活動も並行して行い、80年・81年には全国縦断のライブツアーを敢行したほか、シングル「白昼夢」「夢・誘惑」アルバム「HARDEST DAY」「DEJA-V」など数枚のアルバム・シングルを製作。迫力のあるボーカルとセンスの良さで音楽ファンをも魅了した。
◆長年、ハリウッド進出を目標として掲げてきたが、88年、アメリカ映画「ブラック・レイン」のオーディションを受ける機会に恵まれ、見事これに合格し、マイケル・ダグラス演じる、主人公のニューヨーク市警の刑事の執念の追跡を様々な手口でかわし続けながら逃走をつづける、敵役の「佐藤」役を好演。ショーン・コネリー監督の次回作のオファーが来るなど、彼の上記映画における徹底した「悪役」ぶりはハリウッド界でも大いに注目されることとなったが、実はこの映画撮影時に膀胱癌を発症しており、同映画の関係者には一切そのことを知らせることなく、密かに闘病を続けながらの命がけの熱演であった。同映画出演後もテレビドラマ「華麗なる追跡」、トーク番組「オシャレ30・30」(日本テレビ系、文学座研究所の同期である阿川泰子が司会を務めていた)に病を押して出演したが、その後、病状が悪化、89年11月6日、41歳の若さで逝去した。これからの更なる飛躍が期待されていた最中での癌死に多くのファン・後輩俳優が衝撃を受けた。
◆ 結婚歴は2回あり、1回目は、上記の「マールイ」の演劇教室に通っていた際から親交のあった作家・松田美智子(「完全なる飼育」などの著作で知られる)と 長い同棲の末、75年に結婚、1児をもうけた。しかし、ドラマ「探偵物語」での共演をきっかけとして、女優・熊谷(現・松田)美由紀との交際がその後発覚し、これが原 因で81年に離婚。熊谷とは未入籍の状態のまま前妻との離婚後も交際を続けていたが、83年に長男が生まれたのを機に正式に再婚。以後、1男1女をもうけ た。現在、二人の間に生まれた三児のうち、長男・龍平、次男・翔太は、父・優作の意志を受け継ぎ俳優として活躍している。


夜ヒット・名シーン/松田優作、生涯唯一のヒットスタジオ出演<1> 概要と私見

2008-07-05 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
「夜ヒット・名シーン」シリーズ、11回目の今回は、伝説の俳優・松田優作生涯唯一のヒットスタジオ出演となった1980年4月28日放送での「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」を初めとする3曲メドレーのシーンを取り上げます。

ドラマ「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)の「ジーパン刑事」役に端を発し、以後、映画「野獣死すべし」、ドラマ「探偵物語」(日本テレビ系)などへの出演によって、一癖も二癖もあるハードボイルド・アウトロー路線を突き進み、カリスマ的な人気を獲得していた松田優作。役者としてまさに人気絶頂にあったこの時期、優作さんは、突如、78年のアルバム「Uターン」のリリース以来遠ざかっていた、ミュージシャンとしての活動を本格的に再開することを宣言。新作シングル・アルバムの製作、そして初の大々的なライブツアーを敢行する事を明らかとし、その間は俳優としての活動は最大限セーブする方針を打ち出します(この点はこのヒットスタジオ出演時の司会者との歌に入る前のトークの中でも触れられています)。この方針に従い、ヒットスタジオにもプロモーション活動の一環という意味合いで、元・ゴールデンカップスのエディ藩率いる彼の演奏グループ(エディ藩グループ)をバッグに従えて登場する事となりました。

このヒットスタジオ出演時に披露されたのはアルバム「TOUCH」から「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」と同アルバムからのシングルカット作「白昼夢」、そしてライブツアーの主要ナンバーとして採譜したラリー・ウィリアムスの「BONY NORONIE」の3曲。各曲約2分ずつ、計6分弱に及ぶ、月曜1時間時代のヒットスタジオとしては異例の長さでした。当時からテレビ番組で滅多に歌を歌うことがなかった優作さんに、思う存分歌える環境を与えようとした当時のスタッフの彼に対する配慮が、その演奏時間の長さにも垣間見えてきますし、この当時の他の同世代俳優とは明らかな「別格」ぶりも分かろうというものです。

さて、このシーン、私はヒットスタジオ史上屈指ともいえる「人間的」で、また、以前どこかの記事でも書いた事ですが、「歌を演じるとはかくあるべき」を地で行く良質のステージングだったと思っております。
一見、このシーンだけを抜き出してみると、既定のヒットスタジオのイメージとはかけ離ている印象を受けますが、あえて既成の番組カラーを排する演出を取ったことが、このシーンの印象をより際立たせていたという感がしてきます。
また、本職は役者であるということもあって、彼自身の中にも恐らく歌というものは「歌う」のではなく芝居と同じであくまでも「演ずる」ものであるという理解がきっとあったのだろうと思います。カーリーヘアにサングラス、無精髭。光沢のある茶色のスーツに黒いシャツという「ダーク」な風貌。ハスキーで迫力的なボーカルを聞かせ、その場にいた出演者・スタッフらの心までをも掌握してしまう、その圧倒的な存在感。さながら、「野獣死すべし」「蘇える銀狼」などで演じた狂気と人間臭さに溢れた男をそのまま歌の中でも演じきっているのではないか?という想いさえさせてくれる。そんな「危険な香り」がする印象的な場面でした。

1曲目の「YOKOHAMA HONKY TONG BLUES」、2曲目の「白昼夢」では、マイクスタンドを持ちながら前かがみの姿勢でブルースを歌い上げるその姿に、虚無感漂う空間の中で、無表情の奥にどこか、反社会的な行動をも肯定してしまうような、危険でまた人間的な魅力もある男の「日常」が、そしてラストの「BONNY MORONIE」では、それまでとは一転して、片手に持ったタンバリンを激しく叩きながら歌うその姿に、その男の「非日常」=「直情的ともいえる欲望の発散」が連想される。
しかしながら、それが全く100%演技であるというわけではなく、どこかに、彼自身もこのステージの中で演じている男を許している、同情している、自らのライフスタイルに通ずるものを感ずる、といった感情を抱きながらの歌唱であったとも見て取れる気がします。この部分に「歌を演じること」の真骨頂を見たように私は思いました。

彼は生い立ちから色々と複雑なところがあったようで、また時に仲間と意見が対立するときは喧嘩沙汰となることも結構多かったと聞きます。ある種の「現状・体制・権力」に対するアレルギー、というものが実際にあったのだろうと。それ故に、「演技」にもそういったリアリティ、或いは「無法なことが広く許容されている」という、その役柄に対するある種の憧憬がどこかしらに見え隠れしていたのだろうと思います。

役者というのは、単に台本どおり演じるだけが能ではありません。それなら本職俳優でなくても芸人であっても歌手であってもできる事です。
本物の役者というものは、私が考えるには、与えられた役柄の人物に対して、ストイックなまでに、今までの自己の経験・思想・生活を照らし合わせながら、肯定・否定、或いは畏敬・軽蔑の念というものを抱き、自分なりの人物像を形成した上で、自らの姿・声を通じてその人物を「血の通った」存在へと昇華させてゆける、そういう表現のプロフェッショナルであるべきです。
残念ながら今の日本の人気俳優の中ではそういった「本物の役者」はなかなかいないように思います(単に私があまり今のドラマ等をみないからかもしれないですが・・・)。その意味でも、今でも、数少ない「プロフェッショナル」だった優作さんが、役者の世界のトップリーダーとして活躍していてくれたら・・・という思いがする次第です。

彼が亡くなった直後のヒットスタジオで、このシーンのノーカット再放送が行われましたが、その際、当時の司会者だった加賀まりこは彼の何人にも変え難いその才能を惜しみ、号泣しながら哀悼のコメントを述べると同時に、「芸能界という世界はこういう非凡な才能ある人をすぐに殺してしまう」という持論を述べていたのがとても衝撃的でもありました。
もしそれがリアルな表現であるとするならば、残念ながら日本のエンターテイメント界では一生「本物のプロ」と呼べる存在は育たない。つまり「本物」が異端として排除される、とても閉鎖的で、必要のない「馴れ合い」の世界が日本のエンタ界の実体なのだろうと・・・。加賀さんがどういう真意で述べたものかは分からないのですが、そういう意見をいわば「内輪」の人でお持ちの人がいるということは、多かれ少なかれ、そういった部分があるということなのだろうと・・・。彼女の言葉はいわば一種のそういう部分に対する「警鐘」であり、また優作さんの姿を見て、もっとストイックに芸に打ち込んで欲しい、という「願い」もあったのかもしれません。毒舌も多く、あまり番組司会者としてはどうか・・・と思うところも多かった加賀さんですが、この言葉には説得力を感じたものです。この優作さんの唯一の出演シーンに遭遇するたびにいつも、加賀さんの上の言葉がセットで私は思い浮かんできます。

<当日披露した曲目の補足、及び松田優作さんの経歴については、「同項目<2> 補足」を参照の事>


夜ヒット・名シーン/EPO with 鈴木雅之「Down Townラプソディー」

2008-06-13 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
久々の夜ヒット・名シーン、今回はEPO with鈴木雅之による「Down Townラプソディー」(87年3月25日放送)を紹介します。

この曲はEPOの13枚目のシングルとして87年3月10日にリリースされた作品で、作詞・作曲もEPO自身が担当。同曲リリースの約1ヵ月後に発売されたアルバム「Go Go EPO」(87年4月21日リリース)にも収録されています。この曲の収録に当たって鈴木雅之も「Mr.SoulMan」という名義で参加。その縁でこの時のヒットスタジオにも2人揃っての登場ということになったようです。

上記アルバムの大半の収録曲の演奏を担当した実力派バンド、センチメンタル・シティ・ロマンスがこのヒットスタジオの出演時にもバッグで演奏を担当。その実力派が奏でる音色の上に乗せた2人の大人の実力派シンガーの歌の駆け引きは、一度見たら目に焼きついて離れない、それほどに見る側に臨場感を与える名シーンでありました。

センターに立ち、軽妙なコーラスを聞かせるEPOの背後から、歌手達が座っている詰所のすぐとなりにコートを羽織った鈴木雅之のソウルフルなコーラスがかぶさり、そのふたりのハーモニーが時間が経つにつれ、より迫力の度を増してゆき、ラストに向けて続くスキャットの部分の2人の掛け合いの部分には「実力のぶつけ合い」といった雰囲気すら感じ取ることができ、半ば鬼気迫るものがありました。しかし、その「実力のぶつけ合い」は決してこの曲が持っている都会的な雰囲気を壊すわけではなく、むしろその世界観によりリアルさを持たせていた、という点で高貴さの漂うものでもありました。

初期のジョイント企画は別名「対決」コーナーと称され、歌手同士のいわば実力のぶつけ合いというところに力点が置かれていたようですが、このシーンはこのジョイント企画の狙いが見事にマッチした隠れた名場面であったといえるかもしれません。

ここまで2人の高いボーカリストとしての実力がより際立って映ったのは、一つにはこのときのステージングの演出のシンプルさという点もあるのかもしれません。

このときに用意されたセットといえば、階段の上に置かれたビル街のシルエットを模ったセット(このセットはよくヒットスタジオでは多くの場面で転用されていたので当時この番組を見ていた方で記憶にある人は多いはずです)と、EPO・鈴木の立ち位置のサイドに、公園等でよく見られる形状の大きな照明がそれぞれ一つずつ置かれているだけ。しかもスタジオの背景色は紺色とも紫色ともとれるような暗い感じの配色。途中で大きなセット転換が行われるといった派手な演出も用意されませんでした。

あえて、この曲の持つ都会的なムードを派手派手しい演出やセットで壊すことは避け、最大限ボーカル二人の持つ高い実力を活かしてそのムードを表現しようという判断が当時の演出陣の間でも働いたのでしょうが、その判断はこの場面に関しては見事にプラスに作用していたのではないかと思います。

そしてもう一つは、やはりバンド陣も含めてこの曲のステージングに関わった演者すべてが、いい意味で「子供に媚びていない」というところもこのシーンの魅力につながっているという気もします。

テレビという媒体、特にこういう流行の歌を取り扱う歌番組ということになると、どうしても大人に対するメッセージをこめた曲を紹介するときでも最大の「お客」ともいえる「子供」に対して何らかの迎合を演出面においてとる必要が生じる場合も多いわけですが、この時のシーンにはそういった悪い表現をすれば「視聴率迎合主義」ともいえる要素が全くなかった、という印象を私は受けました。それゆえに楽曲のリアリティーさが、見ている視聴者側には「等身大」のイメージで感じ取ることができ、心に響く要素があったともいえるのかもしれません。

テレビやライブ・コンサートを通じて歌というものを聞くに当たって、やはりその時の環境であるとか演出というのはその世界をより具現化する、そしてアーティスト側から最高のパフォーマンスを引き出す上においても最も重要な要素となってくるという風に私などは常々感じています。その想いをこのシーンを見たときに再確認した次第です。

某動画サイトにはまだこの映像が上がっているようです。このシーンを知らない方にも是非一度、EPO・鈴木雅之、両人の高いボーカル技術とリアリティー漂う歌の世界を存分に堪能して頂きたいと同時に「大人の歌番組」としてのヒットスタジオの魅力にも是非触れて頂きたいと思います(※動画リンクは下の番組ロゴ画像に貼ってあります)。


夜ヒット・名シーン~久保田利伸「It's BAD」(87年10月14日放送)

2007-10-07 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
今回の「夜ヒット・名シーン」シリーズは、久保田利伸の「It's BAD」を取り上げます。

このシーンは1987年10月14日放送での一コマです。

この曲は元々は、まだ正式なプロのアーティストとしてはデビューしていなかった1985年秋に、当時のトップアイドル・田原俊彦のシングル曲として久保田が作曲を手がけた曲であり、一般に「It's BAD」といえば、「田原俊彦がラップに挑戦した曲」として認知度が高い楽曲です。

夜ヒットのシーンとしては、久保田単独でのシーンよりも、むしろ87年末の「スーパーデラックス」での田原と久保田とのジョイントのシーンのほうが印象に強い方が多いのかもしれません。ただ、私管理人個人としては、田原とのジョイントでの場面よりも、初のマンスリー時の単独での熱演ぶりの方がかなり衝撃的でもあり、斬新でもありで、印象が強いです。

まず、このシーン自体の感想を述べる上で、彼がなぜ番組マンスリーに抜擢されたのか、という点にも触れておく必要があるかもしれません。

この1987年10月期における彼の夜ヒットマンスリーゲストへの抜擢は、当時の音楽・放送関係者の大半からは「ヒットスタジオは大きな賭けに出た」と理解されていたようです。

それまでの夜ヒットのマンスリーゲストの人選は、大抵は番組に多大な貢献をしてきた常連組のアーティスト(五木ひろし・布施明・西城秀樹・郷ひろみ等)が中心で、新人や番組に出演している頻度が少ないアーティストにはまず、順番が回ってくるということは有り得ないことでした。
他方、この当時の久保田の歌手としての位置づけは、プロアーティストとして正式にデビューしてからまだ1年足らず、夜ヒットへの出演実績もマンスリー起用の時点では1987年8月の「TIMEシャワーに射たれて」での初出演の1回のみ、といういわば「新人同然」のような格付けであり、それまでのマンスリーゲスト起用の原則からすれば、「論外」となるはずでした。

しかし、この頃、丁度プロデューサーが、長年番組を牽引してきた疋田拓から若手・中堅クラスの渡邉光男に交替。構成担当も「ドンドンクジラ」こと塚田茂が監修という位置づけとなり製作の一線から離れ、これも若手だった木崎徹に交替、といった具合に、番組中枢スタッフの新旧交替の流れが加速。木崎・渡邉らを中心とする若手スタッフの間では「夜ヒット」の番組イメージを変えたいという思いが強くあったらしく、その中で、それまで常連組の牙城となっていた「マンスリー」の人選の方針も「必ずしもこれまでのキャリア、番組への寄与度を重視せず、むしろ音楽的才能や話題性を重視すべき」という考えに改められ、その方針に沿う形で、新人に近い位置づけであった久保田がマンスリーに抜擢された、という事情が、その「意外性を以て迎えられた」ということの背景に存在します。

久保田はこの1987年と翌1988年の2回、同じく10月期にマンスリーを担当し、それぞれに時にはパワフルに、時にはシックに、変幻自在の質の高いパフォーマンスを展開し、それぞれに印象に強い場面を展開し、確実にこのマンスリーへの連続での抜擢が彼の音楽界での格を向上させる契機といっても過言ではありませんが、とりわけ最初の「大抜擢」と評された1987年のマンスリーゲストのときのパフォーマンスは、相当のプレッシャーを押し殺しての熱演の数々だけあって、その細部にはかなりの「緊迫感」が感じ取れます。

この「It's BAD」のときもやはり全般を通してみると、大胆なパフォーマンスの細部にはやはり、随所に彼の並々ならぬ緊張感が感じ取れます。
ただ、田原俊彦版とは異なりラップの部分を宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をアレンジした詞で披露しています。そこは、やはり、どれだけ緊張していても、「音楽」というものを「楽しむもの」として理解することを忘れない、彼らしい「遊び心」がしっかりと盛り込まれています。

とにかく、1回見て感じた感想は「凄い」という言葉以外に説明がまずいらないだろうというぐらいの迫力がありました。「遊び心」と「緊張感」が巧みに交差しあった独特の雰囲気、そして、スタジオ狭しと歩きながら、熱演・熱唱をする久保田の軽快さ。そして随所から当てられるスポットライトの嵐。久保田の姿・歌声、そしてスタジオの演出を全体を通じて、さながら「異次元」に入り込んだかのような不思議な感覚を見ている側は感じ、一通り見終わると、若干の虚脱感を感じ、そしてすぐにもう一度この場面を見返したいという気持ちがわいてきます。まさにこの久保田のソロでの「It's BAD」は「名シーンとはかくあるべき」といえる絶妙なシーンであると思います。

「ラップ」に抵抗感を感じる人も結構多い(実際に私もそうですが…)と思いますが、彼のこの夜ヒットマンスリーで披露した「It's BAD」に関しては、ラップ嫌いな人でも「別腹」の感覚ですんなりと入り込めるんじゃないでしょうか。

今度、CSでもこのときの場面が再放送されるようなので、まだ見たことがない人は是非、この再放送を通じて、久保田の変化自在な歌の世界、「異次元」の世界に触れてみてください。とにかく、圧倒されること間違いなしだと思います。
(※動画リンクは下記番組ロゴ画像に貼ってあります。)


夜ヒット・名シーン~サザンオールスターズ「Bye Bye My Love」(85年7月3日放送)

2007-08-23 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
約半年ぶりの夜ヒット「名シーン」シリーズ、今回はサザンオールスターズ「Bye Bye My Love」(1985年7月3日放送)を取り上げます。 この歌は1980年代のサザンの楽曲の中でも2番目の好セールスを記録した彼らの代表作。シンセサイザーの音を強調した軽快な曲調とは裏腹に、この年世界的大ヒットとなった「We Are The World」への返答、というしっかりとした作品コンセプト、メッセージ性もあるところがさすがサザン、といったところでしょうか。

彼らのコンサートはその盛り上がり方、ファンとの一体感の強さという意味で他のアーティストよりも更に抜きんでた迫力がありますが、この「夜ヒット」においてもそのコンサートの再現、というといいすぎかもしれませんが、それこそ1978年7月の「衝撃のジョキングパンツ姿」での初登場以来、「気分しだいで責めないで」の頃には、桑田がクレーンに乗って歌を熱唱したり、いきなり上半身裸になって激しい身振り手振りをし出したり、「ミス・プランニューデイ」の時には、まるで当時の沢田研二ばりのような濃いメイクをして出てきたり、といろいろと番組の盛り上げに一役買ってくれた存在でした。

この「Bye Bye My Love」のシーンもそんな彼らだからこそ生まれた場面であるといえると思います。このときも最初の歌いだしはいつもどおり普通に歌を演奏していたのですが、後半に差し掛かる辺りで、後ろのひな壇に鎮座していた歌手・バンドがみな立ち上がり、リズムをとりながら手拍子をしだし、そして、途中でそのときの出演歌手の一組であるチェッカーズのメンバーやなぜかこの日ゲストとして呼ばれていた「東京ディズニーランド」の名物マスコット「ミッキーマウス」らが「乱入」し、他の出演者たちも一斉にひな壇を下りて盛り上がりがヒートアップしてゆくというシーンでした。 この場面を某有名動画投稿サイトで初めて見たとき、私は少し身震いがしました。何といっても、ボーカルの桑田佳祐やチェッカーズのメンバーを筆頭に、スタッフ・出演者が一丸となって盛り上がっていたこと、そしてその盛り上がりに往々にしてこういう場面で流れている妙に白けた空気というものではなく、まるで「祭」をみなで楽しんでいるような、それほどまでにそのスタジオにいた人々が一緒にこの瞬間を自然体で楽しんていた、という空気がとてつもなく感動的でした。

こういった「歌手・出演者が一緒になり番組を盛り上げ、そしてそれを楽しむ」という場面もまた、夜ヒットの醍醐味の一つでもありました。古くは西城秀樹の「ヤングマン」に始まり、とんねるずの「嵐のマッチョマン」やHOUND DOG・THE ALFEEのジョイントによる「SWEAT&TEARS+ff」などその回の最後がノリのいい歌となる場合によくこういった場面が発生していたような気がします。幅広いジャンルから出演者を募っていることもあり、他の番組で同様の場面が発生したとき以上に、その盛り上がり方は凄みを帯び、また視聴者から見てもその雰囲気は一際華やかであり、賑やかでもありました。司会の芳村真理は夜ヒットを「まるでお祭を毎週やっているみたいだった」と後に回顧していますが、こういった場面に遭遇する度に、その言葉がいつも思い出されます。

最近は録画の音楽番組が主流である上、歌手が全員ひな壇にすわって他のアーティストの歌を聞くという形ではなく、それぞれのアーティスト毎に歌・トークシーンを撮り、それを寄せ集めて一つの番組として放送するというケースが殆ど(但し、「ミュージックステーション」は例外)であるゆえ、こういった場面が突如登場するという機会も殆どなくなってしまいました。また、生放送スタイルを貫き通す「Mステ」でさえも、数年前まではそれこそサザンや泉谷しげるなどが登場する回にあっては、同様のシーンが幾度が生じていたのですが、ここ最近は、やはり「録画・ぶつ切り編集」というほかの競合番組の編集・演出方針が波及してしまったのか、そう言った盛り上がりを見せることも少なくなりつつあり、こういった部分も「音楽番組に元気がない」「見ていて退屈だ」といった批判が主張されている一つの理由となっている感は否めないと思います。また、アーティストそれぞれも「アーティストとしてのイメージ」を重視していることもあってか、「自分の楽曲を演奏すればそれで番組内での役割はおわり」という風潮が強まっているのも、そういった「ぶつ切り」のような編集を行わなければならなくなった背景としてあるのかもしれません。

この「Bye Bye My Love」での一種異様ともいえる盛り上がりを見せたシーンは、「音楽番組が元気のあった時代」を象徴する場面、或いは、今の音楽番組の製作者に「音楽番組とはもっとこうあるべき」という一つの示唆を与えている場面であるといっても過言ではないでしょう。音楽番組の現況を考慮してこのシーンを見ると、実に感慨深いものがあると思います。